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2006年6月28日 (水)

航空会社は水商売

航空会社は俗にいう水商売と同じです。世間が好景気の時は黙っていても客が乗り、営業マンの中には「客の予約を断るのが仕事だ」などと豪語する者まで現れます。大会社の社長クラスともなると、国際線のファースト・クラスの席で見知らぬ人間が隣席に座るのを嫌がり、一人で二名分の座席を確保する者までいました。

Fstbed しかし一旦不況の波が押し寄せると、値段の高いファースト・クラスの客やビジネス客が減り、満席になっても儲けが少ないエコノミー・クラスまで空席が目立つようになります。写真はマユの形をした最新のファーストクラスのベッド/座席ですが、一人ずつ完全に独立していて、夜は完全水平のベッドになります。(写真はいずれも、クリックで拡大)

Fstseat 「水商売」とする理由には、航空券という商品の定価が、実際には無いのと同じということです。試しに東京からニューヨーク( JFK )までの航空運賃をインターネットで検索してご覧なさい。往復運賃がファースト・クラスで136万円、ビジネス・クラスで69万円程度ですが、問題はエコノミー料金です。

通常は28万前後ですが、最高は44万円から安い航空券では往復で、9万円~5万5千円というのまであります。航空会社により、また航空券の種類、条件、搭乗曜日、季節により値段が異なるのは水商売だからです。たとえば冷蔵庫を購入する場合に曜日によって値段が異なるとしたら、皆さんは変に思うでしょうが、「水商売」の世界では当然のことです。

不況になれば水商売は大変です。かつて1990年代に始まったバブル崩壊後の不況の中では、日本の航空会社はこぞってスチュワー「デス」の契約社員制度なるものを導入しましたが、正社員ではない、契約社員と呼ばれる一年契約のパート・タイマーの「デス」のことです。

同じ飛行機に乗務する「デス」でも、それまで採用された者は恵まれた待遇の正社員でしたが、新規採用の契約社員「デス」は一時間千数百円の乗務手当が主な収入源で、ボーナスも無く、しかも一年ごとの契約更新という条件でした。会社によれば三回契約更新すれば、正社員に登用する道が開けるそうですが、必ずしも全員が無条件で正社員の「デス」になれるわけではないようです。

会社の狙いは人件費の節約ですが、適齢期の「デス」を月収20万円程度の安いパート従業員の給料で三年間使い、その後はなるべく結婚退職でもしてもらいたいのが本音です。ところで最近は「デス」の経験者を再雇用することがおこなわれています。退職し子育ても一段落した三十才~四十才前後の元「デス」を、パート・タイマーとして雇用し、月に七日~十日間、乗務するのだそうです。乗る飛行機が昔と違っていても、「デス」の仕事は基本的に「水商売」なので、昔「水商売」をした経験があれば、すぐに慣れるのだそうです。「水商売」には経験が重要です。(続く)

2006年6月24日 (土)

おつぼね制度

前回は大奥の「おしとね辞退」に関係する件について述べましたが、金野(かねの)内蔵氏から「おつぼね(お局)制度」の話を聞くことができました。お局(つぼね)とは

1:宮中で局(つぼね、個室)を賜った女官のこと
2:江戸時代に大奥で、個室を持っていた奥女中のこと
3:女中を取り締まる立場にあった老女のこと

ですが、縄文航空では20年以上前からお局(つぼね)制度があったそうな。金野内蔵氏が働き始めた昭和40年頃は、早く退職する「デス」が多くて会社が困ったものでした。折角三ヶ月間「デス」としての訓練をして現場に出ると、直ぐに制服、制帽姿で見合い写真を撮るのだそうです。それをしかるべき筋に回すと、アホな男が「デス」の肩書きにほれてすぐに結婚を申し込みました。その結果早い「デス」では現場配属の三ヶ月後に退職し、遅くても三年以内には、殆どの「デス」が結婚退職したものでした。

ある時一人の「デス」が興奮した様子で、飲み物サービスのため操縦室に入ってきました。「キャプテン(機長のこと)、あたしお客様からプロポーズされちゃったのです。これを見てください。」彼女が差し出したのは手帳をちぎって書いた紙切れに、「私と結婚してください」という文字が、電話番号と共に確かに書いてありました。

「デス」の興奮状態とは反対に、操縦室内の機長、副操縦士、航空機関士の三名の反応は冷たいものでした。「貴女をからかうための、いたずらだよ。そんな例はこれまでいくらでもあったよ」。「デス」は興奮が冷めて、静かに出て行きました。

ところで 時代が変わり今では結婚しても、しなくても退職しない「デス」が大幅に増えた結果、「デス」の平均年齢も高くなりました。乗客サービスの面からも二十代のピチピチした「デス」からサービスされるのと、プロポーションが崩れ、制服のスカートのサイズを三段階も四段階も上げた五十代の「グランマ、Grand mother デス 」からサービスされるのとでは、乗客にとっては大違いです。

そこで「デス」の退職促進対策として、高齢デスだけを組織から外し、部下を持たないグループにまとめました。端的に言えば「デス」の窓際族化であり、お局グループと呼ばれました。退職後のある日東京-大阪線に乗ったところ、不運にもお局グループの御一行からサービスを受けることになりましたが、隣席の乗客が「今日のスチュワーデスは、皆年を取っているのばかりだねー」。と仲間に話すのが聞こえました。

Singa1 その点世界の航空会社のうち、サービスの良さでは常に五本の指に入るシンガポール航空は、今も「デス」の定年を三十五才にしているとのことでした。(続く)

2006年6月22日 (木)

容姿端麗がいなくなった理由

Kitano その昔スチュワーデスの採用広告には、容姿端麗、英語堪能というのが必ずありましたが、飛行機に乗ること自体が庶民にとっては高根の花だった時代に、それに乗る職業は若い女性にとっては今以上に憧れの的でした。昭和30年(1955年)に縄文航空が初めてスチュワーデスを六名採用した際には、千人もの応募者があったといわれていますが、あまりの混雑ぶりに警察官が出て整理したとのことでした。(写真はクリックで拡大します)

その際に採用されたスチュワーデスの1期生の一人が後に管理職になり、乗務から離れて六十才の定年まで勤めていましたが、年を取っても美人の面影が残っていました。「津田塾」か「青学」の出身だったと思います。

しかし今ではどこの航空会社の募集規定を見ても容姿端麗や英語堪能の条件がありませんが、つまり美人で無くても、英語が話せなくても良くなったと理解すべきなのでしょうか?。ところでスチュワーデスのことを業界用語では「デス」といいますが、今では会社によってキャビン・アテンダント( C A )とか、フライト・アテンダント( F A )などと称していて、鶴丸航空では昭和40年代に英国系統の航空会社の「マネ」をして、一時期にエアー・ホステスと称したことがありました。

しかしご存じのように日本ではホステスといえば「女主人」どころか、キャバレーのホステスに代表される「いかがわしい」水商売の女性を直ぐに連想させるため、同社のスチュワーデス諸嬢から猛烈な反対、抗議が起こり、会社側もその「語感の悪さ」にようやく気付いた結果、数ヶ月後には元の名称であったスチュワーデスに戻すことになりました。いとハズカシと思いけれ。

ところで金野内蔵氏によれば、昭和40年当時「デス」の定年は三十才でした。なぜ三十才にしたかといえば、その昔大奥で将軍の側室や大名の夜伽(よとぎ)を勤めた女性が三十才になると、「おしとね辞退」と称してお役御免になりましたが、それから由来するのだそうです。しかし最近の女性は晩婚なので(?)、呼ばれない内に「辞退させられ」てしまいそうです。なお若い人では「しとね」の意味を知らない人がいるようですが、「しとね」とは寝たり座ったりする時に使用する綿入れの敷物のことから、「ふとん」の意味です。

その後「デス」の定年は四十才、五十才と次第に延長されて行き、今では雇用機会均等法により六十才になりましたが、同業他社で機長経験があった荒俣(あらまた)落太氏によれば、最近の「デス」は結婚しても退職する者が少なく子供がいるのは当たり前で、中には孫までいる文字通りの「お婆ちゃんデス」までいるそうです。

米国ではアルツハイマー病を患い、最近死んだレーガンが七十三才で大統領になってから、加齢を理由に解雇するのはけしからんということで、「デス」の定年を七十五才にしたといわれています。以前縄文航空に働いていたアメリカ人航空機関士によれば、米国のある航空会社では自分の母親よりも高齢の「デス」がいて、グランマ( Grand mother、お婆ちゃん )と皆から呼ばれ、老眼鏡はもちろんのこと、中には補聴器を使用していた「デス」もいたそうです。(続く)

2006年6月19日 (月)

飛行機内の行列

これから話にでてくる 「 縄文航空 」 とは昔々存在した航空会社のことであり、金野 ( かねの ) 内蔵 氏はその会社で以前機長をしていた人だそうです。今回その金野氏から昔話を聞くことができましたが、内容について真偽の程は不明です。

[飛行機内の行列]

Nh777200

縄文航空の金野内蔵氏はある時チャーター便の運航で、瑞穂の国のある地方空港からホンコンの啓徳(カイタック、KaiTak )空港(1998年まで使用していた旧空港)まで飛んだのだそうです。冬場はジェット気流の強い向かい風に逆らって飛ぶので約4時間半かかる為、パイロットもスチュワーデスも途中で一回は、トイレに行く必要がありました。写真は北から着陸する場合には、低高度で旋回しながらビルの谷間を縫って進入着陸するため、乗客の間で 「 ホンコン・カーブ 」 として有名でした。 ( クリックで拡大します。)

その便に農協さんの団体御一行様が搭乗しましたが、機内では無料で酒が飲めるというので、この時とばかりにビール、日本酒、ブドウ酒は勿論のこと、話のタネに 「 ナポレオン 」 とか言うウイスキー (?、実際はブランデーの銘柄 ) を飲んでみるべー、などとアルコール類をガブ飲みした人々が多かったと聞きました。

何しろ生まれて初めて飛行機さ乗ったんだんべ、俺ら上空では酒が体に回り易いのを知らなかったんだよ-。だからホンコンに着いた時には、腰が立たなくなるほど酔った仲間が 四~五人 もいたのは仕方がなかんべー。ことわざにも 「 旅の恥はなんとか 」 と言うでねーか、しかも ホンコン は同文同種の国だべさ-、俺たちはちっとも気にしてないよ-。帰りも村の連中と一緒に、機内で宴会して タダ酒を ちから一杯飲むことにすっから。

ちなみに機内で乗客が飲む アルコール類は無税で仕入れた物なので、会社にとって原価は知れたものなのだそうな。

乗組員が トイレに行く タイミングとしては食事前のお酒などの飲み物の サービスが済み、乗客が食事をしている最中に行くのが ベストなので、金野内蔵氏はいつもそのようにしていたとのことでした。その型の飛行機では機内に六箇所しか トイレがなかったので、タイミングを失うと アルコールをたらふく飲み、膀胱を膨らませたお客様の行列が トイレの前にできてしまうので、機長といえども行列に割り込んで用を足すのは気が引けるからでした。

ある時飛行中に操縦室内に コトコト、コトコトと断続的な音が聞こえてきたのだそうな。普段聞き慣れない音や振動は、故障の前兆かも知れないので、金野氏、副操縦士、航空機関士と三名で緊張しながら音源を探しましたが、それはどうやら客室の方から聞こえて来ました。航空機関士が音源を確かめる為に客室に行くと、トイレの順番待ちをしていた 一人の女性が尿意をこらえるために足踏みをしていましたが、その際に床に敷いたカーペットを固定する金具に ハイヒールの 「 カカト 」 が当たる音だったのでした。

水をいっぱい入れた ドンブリを持つ場合には、水をこぼさない為に静かに持ち、「 ゆすらない 」 のが普通ですが、女性の場合は何故か足踏みをして 「 ゆする 」 傾向があるのだそうです。
同業他社のある スチュワーデスが公務傷病(?)の認定を求めて提訴しましたが、彼女が膀胱炎になったのは、勤務中に乗客の トイレ使用を優先させる為に、行きたい時に トイレに行けないのが原因 だと主張しました。その結果がどうなったのかは知りません。

別な折りに航空機関士が飛行中に トイレの行列に恐れをなして、行く機会を失ったまま、飛行機が台北 ( タイペイ ) F I R  (  Flight Information Region、飛行情報区域 ) と ホンコン F  I  R の境界にある エラト ( ELATO)地点を過ぎてしまい、ホンコンに向けて降下を開始したのだそうです。あと 30分ほどで着陸する予定でしたが、彼は足踏みすることも無くじっと心静かに尿意をこらえていました。

Asbag2 やがてその限界に達したのか、「 失礼します 」 と言うが早いか操縦室の椅子から立ち上がり、空酔い袋 (  Air Sickness bag 、吐袋、とぶくろとも言う ) を座席の背の ポケットから取り出して、溜まっていた液体をその中に無事に放出したとのことでした。 ヨカッタ!写真はクリックで拡大。
        

2006年6月16日 (金)

自己流の成果

4月26日にヘモグロビンA1c の値が 8.5%、血糖値が 328mg/dl で、医師から初めて糖尿病を宣告され、しかも直ぐに入院するように言われました。しかしブログに書いたように入院を拒否し、無知丸出しで全て自己流の食事療法と、毎日一万歩を歩く運動療法により糖尿病と闘うことを決め、それをかたくなに実行しました。その50日間の闘病の結果が、今日(6月16日)判明しました。

ヘモグロビン A1c の値が 6.5% 、血糖値が 118 mg/dl となり、医師からは短期間によくこれだけ値が下がったものだと褒められました。小学生の頃の戦時中に味わった、飢えによる「ひだるさ」の体験が、二分の一に減量した食事療法の辛さを克服させ、一度自分で決めたことは必ず守る主義が、運動療法を含めて糖尿病治療に役立ったのかも知れません。

しかし数値としては依然として正常値と糖尿病との間の境界型ですので、今後とも歩きを続けると共に、今日からは 腹七分目 に戻して体重と、食後1時間後の血糖値に注意しながら 生活するつもりです。

なお糖尿病に関するブログは一応これで終了しますが、糖尿病についてメールでアドバイスを下さいました方々に、この場から御礼申しあげます。次からは幅広く話題を取り上げて、ブログを書くことに致します。 

2006年6月14日 (水)

歩きの効用

昨日(6月13日)医者に行き、市民検診の一環として、ヘモグロビンA1c の検査をしてもらいました。ついでに血圧を測定してもらったら上が128mm/hg、下が87mm/hg ということで、年齢の割にはまずまずの値でした。ヘモグロビンの検査結果は金曜日(16日)に判明するそうなので、二ヶ月間毎日一万歩運動した精進の結果が楽しみです。

Tousen 1時間半歩くことについては、自宅から半径四キロ以内を唯歩くだけではなく、何か目的を持って歩くようになりました。その内のひとつが私の住む市や周辺の市の歴史について知ることです。ある時、川の堤防沿いの道を歩いていると、「唐船が淵」という石碑が建っているのに気が付きました。(ブログの写真をクリックすると拡大します。)説明板には

日本書紀によると応神天皇37年に阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を中国の呉(ご)に遣わして、縫工女(きぬぬひめ)を求め、呉の王(こしき)から呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)らを与えられ同41年阿知使主(あちのおみ)らは摂津の国武庫に帰って来たとされる。池田(市)ではこの縫工女(きぬぬひめ)たちが池田の地に来て機織りを始めたとする「クレハトリ・アヤハトリ」伝承が生まれ、彼女達を乗せた船が着いたとされる所を「唐船が淵」と呼ぶようになった。「唐船が淵」は江戸時代の摂津群談(1701年)や摂津名所図絵(1798年)にも記載されていることから、そのころは広く人に知られていたことがうかがえる。

Tousenbr とありました。しかし今では川を横切り阪神高速道路の橋が架かった様子を、千五百年前の織り姫達が見たらどのように感じることでしょうか?。

2006年6月12日 (月)

備えあれば憂いなし

私の場合は低血糖症状の際の血糖値が60mg/dlでしたが、低血糖症状については血糖値が55~50mg/dlに低下すると動悸、手足のふるえ、冷や汗、空腹感、からだが熱く感じる、不安感などの症状が出てきます。これらは自律神経の症状で、血糖値低下に対して身体が発する一種の警告症状とも言われています。

さらに血糖が50mg/dl未満~45mg/dlあたりに低下すると、集中力の低下、疲労感、眠気、錯乱、脱力、めまい、うまくしゃべれない、物が二重に見える、などの症状が起き、これらは中枢神経の症状で、ブドウ糖の欠乏により脳が正常に活動しなくなりつつあることを示すものだそうです。

ではこのような状態になった場合にはどうすれば良いのか?。砂糖(もしくはブドウ糖)を10~15グラム(市販のスティックタイプのシュガーなら二本~三本程度)を飲み、15分ほど経っても回復しない場合は、さらに砂糖を同量追加します。

前回のブログで低血糖症状を初めて経験したことを書いたところ、ある糖尿病患者からメールを頂きましたが、それによれば糖尿病カードというのがあり、外出する際には常に糖尿病カードと砂糖を携帯しているとのことでした。私はインスリンの注射や飲み薬を使用していませんし、あれ以来低血糖症状になったことはありません。しかし毎日インスリン注射をしている糖尿病の先達からカードを見せてもらい、いざという事態に備えて、内容をまねて自己流のカードを作ることにしました。

Card2 本物のカードの文面は
「私は糖尿病です。意識不明になったり異常な行動が見られたら、私の携帯している砂糖(ブドウ糖)、またはジュースか砂糖水を飲ませて下さい。それでも回復しない時は、裏面の医療機関に電話して指示を受けて下さい。」とありました。(写真をクリックすると拡大します。)

自己流のカードは

「助けて、私は糖尿病患者です。低血糖症で意識を失いそうですので、救急車を呼んでください。お願いします。住所氏名、自宅の電話番号」

という内容にしてプラスチック製のケースに入れました。それと共にプラスティック製のフィルムの丸い空き容器に砂糖を入れて、ウエスト・ポーチに入れることにしました。備えあれば憂いなし、これで歩きの途中で低血糖症状が起きても一応は安心です。

2006年6月 9日 (金)

血糖を上下させる、ホルモン

我が家では食事の減量作戦開始以前から、朝はパン食にしていました。食パン五枚切りの一枚を更に半分にしたものに、長野県産の「あんずジャム」をたくさん塗り、レタスなどの野菜サラダ、ハム(またはソーセージ)、ゆで卵、牛乳、コーヒーのメニューでした。自己流の食事療法では、これを半分に減らすのですから大変です。食パンは一枚の半分の更に半分つまり四分の一に、卵は半分にし、ハムは無し、野菜サラダだけは少し量を減らしただけで、飲み物はそのままにしました。これだけ食べてから一万歩を歩きに行きましたが、前回述べた「ひだるさ」を味わったのも無理からぬことでした。五月の終わり頃のこと、歩きから帰ってからシャワーを浴びる前に、今年初めて庭の芝生を刈ることにしました。

15分ほど芝刈り機で刈っていると、これまで感じたことのない嫌な気分になりましたが、体がだるく頭がフラフラしてきました。最初は日射病にやられたのかと思いましたが、そうでもないようだし、糖尿病の先達に聞いていた「低血糖症状」ではないかとひらめいたので、早速指先から採血して血糖値を測定しました。その結果は予想もしなかった、血糖値が 60 mg/dl の低血糖状態でした。

普段はインスリンの出が悪く高血糖を心配する私が、インスリンの注射もせず薬も飲まないのに、低血糖になるとはどういうことなのか理解に苦しみました。糖尿病の先達に電話して聞いたところ血糖を下げるインスリン注射や飲み薬を使用中に、血糖のコントロールに失敗して低血糖症状になり、ひどい時には意識障害を起こす場合があるが、君の低血糖の原因は分からないということでした。そこで発病後に購入し必要な箇所だけを拾い読みしていた糖尿病の参考書(三冊)を、よく読むことにしました。

人体にはホルモンが約四十種類ありますが、その中にはご存じの血液中の血糖を下げる働きをする「インスリン」があり、膵臓(ランゲルハウス島のベーター細胞)から分泌されます。それに対して血糖を上げる働きをするホルモンとして、膵臓の別な部分(ランゲルハウス島のアルファ細胞)から分泌される「グルカゴン」や、副腎ホルモンの「アドレナリン」などがあります。つまりこれらの相反する役目を司るホルモンの巧みな働きにより、血糖値が正常範囲に保たれるのだそうです。

しかし糖尿病患者の場合はインスリンの分泌量が少ないだけでなく、体が必要とする際に血糖を上げる働きをするホルモンの「グルカゴン」の分泌量が少なく、従って空腹時に激しい運動や労働をすると一時的に低血糖状態になる場合があるのだそうです。コレヲ知ラナカッタ(続く)

2006年6月 6日 (火)

減量作戦

減量計画

糖尿病の食事療法については食品交換表を使用した厳密なカロリー計算が必要ですが、栄養の本を見ると、十人中九人までは面倒なために途中で挫折するとありました。前述した如く私自身が炊事についって無能力なのと、携帯電話でメールも打てない六十八才になる老妻(老婆と言うべきか?)の能力から、ややこしいカロリー計算などは無理であり、彼女の仕事量軽減のために自己流で食事療法をすることに決めました。その方法たるや専門家に知れたら無知、無謀の「そしり」を十分受ける代物ですが、それを承知の上で次の通りにしました。

1:標準体重の63キロになるまでは、摂取する食事量を従来の半分に減らす。

2:体重が63キロになったら、以後の食事は従来の食事量の三分の二程度に戻して、体重が増えないように務める。

という非常に簡単で、しかも我が家の状態に適した方法でした。

ひだるい
ひだるいという言葉がありますが、意味は「ひもじい」のと「だるい」意味の合成です。辞書の大辞林によれば、「飢えてひもじい」、「現代語では、西日本を中心とする言い方で共通語としてはあまり用いられない」とありました。 しかし 「ひだるい」という言葉を昭和19年(1944年)~昭和20年当時、東京から長野県に学童集団疎開した小学生だった私達は使用していました。

その「ひだるい」感覚を今回の減量の際に、六十二年振りに感じることになりました。ある日突然御飯や副食の摂取量を今までの半分にした為に、空腹を継続的に感じるようになり、それと共に精神的にもいらいらしてきました。空腹は精神面でも「やる気」を失わせ、ブログやホームページの更新などの意欲も減退してきましたが、そのような状況下で空腹を抱えたままで毎日約一万歩を歩きました。

それには私の場合約一時間半かかりますが、空腹との戦いの中で内臓脂肪が「燃える」、「燃える」と自分自身に言い聞かせながら歩きました。人間とは不思議なものでその内に胃袋が小さくなり、従来の半分の量を食べるだけで胃が容量的には満足できるようになりました。そして六月初めになると体重が目標の63キロになりましたが、約四十日間で五~六キロ減量したことになりました。メデタシ!

最初は辛かった減量も慣れれば辛さも次第に薄れて行き、この分では63キロとは言わずに、60キロまでの減量も可能のような気がしてきましたが、老妻からは健康に良くないといわれたので、63キロの標準体重で止めることにしました。それからは食事量を従来の三分の二までに戻すことにしましたが、脂肪は特にカロリーが多いので、なるべく少なくしています。

今回の減量体験から言えることは、意志を強く持てば誰でも減量が容易にできるということです。ところが思わぬ事態が、私を待ち受けていました。(続く)

2006年6月 3日 (土)

自己規制

今日(6月3日)の読売新聞の投書欄に[糖尿病治すには自己規制本気で]という題で、糖尿病患者の人が投稿していましたが、その人は治療法を学ぶ為に病院に一週間教育入院したのだそうです。そこでは栄養の取り方や運動の仕方、足の洗い方など、徹底したプログラムに驚かされたとありました。それに比べると糖尿病で亡くなった私の兄などは、発病してからも食事療法もせずに好きなように飲み食いし、タバコを吸い、ある日突然眼が真っ赤になったので、慌てて眼科に行ったところ眼底出血だと言われ、それから食事療法、運動療法を始めましたが長続きしませんでした。

兄の闘病生活(?)を知っていましたが、今回私は全て自分なりの方法で糖尿病の治療に当たることに決めました。老妻からは「あんたは頑固だから」とよく言われますが、自分で一旦決めた方針はなるべく守ることにしました。

[標準体重に近づける]

治療の第一歩は体重の減量です。私の身長は170センチで体重68~69キロありましたが、減量の目標をいくらにすべきか調べました。ある本によれば「身長マイナス105センチ」が標準体重だとありましたが、これによれば65キロになります。別の本によれば身長マイナス100センチに0.9を掛けた値の63キロが標準体重になっていました。以前述べた B M I の値が22前後が良いとありましたが、それによれば62.5キロの値になりました。

というわけで体重を63キロを目標にして減量に取り組みましたが、その方法は毎日一万歩の歩きと減食です。むかし四国霊場八十八箇所の遍路をして完歩した経験があるので、歩くのは何でもありませんが、問題は食事療法です。

Koukannhyou いわゆる糖尿病食を作るために必要な食品交換表というのがあり、各食品毎にカロリー計算をして、合計が1,600とか1,400キロ・カロリーにする仕組みでした。

表1:はご飯・パン・うどん・いも類など
表2:は果物
表3:は肉・魚・卵・チーズなど
表4:は牛乳・乳製品
表5:は油・バター・マーガリン・マヨネースなど
表6:は野菜

この表により毎食カロリー計算をするには、どの食品がどの表に該当するのか、それを何グラム食べたら1単位(80キロ・カロリー)になるのかを記憶することが必要でした。現役時代に単身赴任を数回しましたが、その間に私がした炊事とは「ゆで卵」と「インスタント・ラーメン」を作ることで、電気釜で御飯を炊いたのは数えるほどしかなく、あとは外食とスーパーやコンビニの弁当で生き延びました。(続く)

2006年6月 1日 (木)

動脈硬化

女房の妹の亭主は5月26日に脳梗塞で倒れてから今日で六日目ですが、依然意識が戻らぬままで最初は点滴により、現在は鼻から食道に入れたチューブで栄養補給を受けています。脳梗塞の原因である脳の血管に詰まった血栓(血の塊)を取り除く為に、点滴の際に血栓を溶かす薬を入れていますが、それ以外に治療方法がありません。健康保険では使えない、アメリカ製の新薬を使用しているとのことでした。

恐ろしい動脈硬化とは、端的に言えば血管の内壁の病変ですが、そのメカニズムとは。

1:血管内部の狭窄(きょうさく)、

Kekkan コレステロールを主成分とする脂質であるアテローム(お粥状)の沈着により血管内部が硬化し、しかも血管が狭くなるので詰まり易くなります。何かの原因で血管内壁に傷が付き、それが治り又傷が付く現象を繰り返します。写真の白い部分が血管の穴の部分であり、狭められた周囲にあるのが、動脈の壁に沈着し生成されたアテロームの硬化部分です。写真をクリックすれば、拡大して見られます。


2:血栓の生成、

運命のある日ある時に、例えば大動脈や頸部動脈、心臓などの動脈硬化部位の血管内壁の傷口にできた血の塊(血栓)が「はがれ」て血液中に流れ出て、狭くなった脳の血管を詰まらせます。(脳梗塞の場合)

その根本原因は内臓脂肪症候群であることは既に説明しました。今まで動脈硬化は年を取るにつれて必然的に起きる、「血管の老化現象」だと考えられてきましたが、そうではなく内臓脂肪症候群の条件さえ整えば、若い人にも起きることが分かりました。

では危険な動脈硬化を事前に、的確に測定し診断するのは可能なのでしょうか?。その答はノーです。血管造影、X線、C T、超音波エコー、心電図などを使用しても正確な診断は困難であり、結局は血液検査で得た各種の値や眼底検査などに頼ることになります。 (続く)

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