航空運賃
私が初めて飛行機に乗ったのは昭和32年(1957年)1月のことでした。海上自衛隊の幹部候補生学校を前年の12月に仮卒業し、一ヶ月後にアメリカ海軍飛行学校に留学のため、生まれて初めて鶴丸航空のプロペラ機、 D C-6Bに乗り、羽田からサンフランシスコに向かいました。
その当時の往復の航空運賃は日本円で15万円でしたが、当時の大卒サラリーマンの初任給が1万円前後でしたので、15ヶ月分に相当しました。現在の大卒サラリーマンの初任給を20万円とすれば、往復運賃は実に300万円ということになり、高速大量輸送時代以前の航空運賃が、如何に高額だったかが分かります。
ちなみに昭和35年頃から新婚旅行に飛行機がようやく使われ始めましたが、東京--大阪間の運賃は1万円であり、前述のサラリーマンの1ヶ月分の給料と同じでした。今ならさしずめ20万円に相当します。昭和30年代に祇園で芸妓をしたことがある女性石井某が、銀座に「おそめ」というクラブを開店し、毎週飛行機で大阪--羽田を往復したので、「空飛ぶマダム」とマスコミに騒がれたことがありました。しかし「ジョニ黒(ジョニーウォーカー・ブラック)」などの高級(?)洋酒(当時は1本1万円)の瓶の底に穴を開け、国産の安いウイスキーを詰め替えて客に出すという、芸者上がりの「えげつない」商法がバレてしまい没落し、飛行機に乗る身分ではなくなりました。
当時のプロペラ機では航続距離が短いために、日本からハワイ( ホノルル )に直行できずに、パンナム航空が開設した太平洋上の孤島、ウエーキ島( Wake island 、北緯19度17.4分、東経166度31.7分 )に立ち寄り、燃料補給をしてからハワイに向かいました。記憶がさだかではありませんがその当時は、乗客定員は60名前後で、ハワイまでは里帰りの日系人が多いのでスチュワーデスが4名、男性のパーサーが1名乗務し、日系人がハワイで降機してしまうとハワイ、サンフランシスコ間は乗客が少なく、スチュワーデス2名 とパーサー1名の乗務でした。写真はクリックで拡大。
しかも所要時間は羽田--ウエーキ島間が7時間半、ウエーキ島--ホノルル間、8時間、ホノルル--サンフランシスコ、9時間の合計で24時間半プラス燃料補給の停留時間が掛かりました。今では考えられませんが飛行中に「どうぞ操縦室に見学に来てください」、などと機長が機内アナウンスをしていました。操縦室にはパイロット、航空機関士、航空士の合計四名がいましたが、航空士以外は全てノースウエスト航空からのアメリカ人でした。甲種二等航海士の海技免状を持つ私の同級生二名が、後に鶴丸航空で一等航空士の航空免状を取り、国際線に乗務する航空士になりましたが、慣性航法装置( I N S )を装備したジャンボ・ジェットの導入により、航空士は不要になったので航空機関士に転職しました。
その当時は乗客に機長の署名入りの、日付変更線通過証明書なるものを発行してサービスに当たっていましたが、中古の飛行機を購入したために故障が多く、ハワイの日系人からは日航ではなくて欠航だと不評でした。
その後飛行機はD C-6Bから D C-7型機になりましたが、ハワイ--東京間は向かい風が強いと、やはり直行できずにウエーキ島に燃料補給のため着陸していました。島には戦争の傷あとが残っていて、海岸には米軍機の攻撃に遭い、船を沈没から救う為に故意に海岸に乗り上げた日本の貨物船がありました。
コメント
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縄文航空の家族優待券は三親等までと違いましたか?従業員の兄弟が結婚後は、枠を本人の自家使用の為恩恵を受けなくなり、15年前からもっぱらH.I.Sを我が家は利用していました。LA往復が確か80,000円位(アメリカの新聞には$500の広告)のころからです。
投稿: Y.S | 2006年9月 1日 (金) 20時46分
現役時代には予約可(20点)と予約不可(30点)の無料優待券と、予約可の五割引(30点)の優待券を貰いましたが、五割引券など自分で使ったことは、一度もありませんでした。さらに単身赴任をすると、帰省の為の無料優待券(予約可)が月に四往復貰えたので、その点は楽でした。
しかし最近では経営合理化に伴い、社員に対する優待制度も厳しくなったそうで、そうならない内に退職して良かったと思っています。
投稿: 金野 | 2006年9月 2日 (土) 10時41分