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2006年9月29日 (金)

西から昇る太陽

金野内蔵氏から以下の話を聞きました。

(その1)西から昇る太陽

Mattaerh1 「太陽が西から昇る」などといえば、気でも狂ったかと思われますが、実際にそのような光景を何度も見てきました。地上ではすでに日没になってもいても、高い山の頂には未だ日の光に照らされている場合がありますが、写真はスイスのマッタ-ホルン 4,477メートルで、ホテルの窓から撮ったものです。クリックで拡大。

日没直後に飛行機が離陸して西に向かって上昇を続けると、それにつれて地平線に没していた太陽が顔を出し始め、やがては地平線から離れて行き次第に上昇して行くように見えるのです。
「西から太陽が昇る」というのはこのことで、飛行機が上昇するにつれて太陽も西から昇り続けますが、そこにはおのずと限界があり、飛行機が1万メートルの高々度に上昇する際でも、せいぜい 6~7 分ほどで太陽の見かけの上昇は止み、日没の動きに移ります。

別な場合では、高々度を飛行中の操縦席が日没間際の太陽に照らされていても、地上はすでに日没となり、夕闇(ゆうやみ)が迫っている場合もあります。着陸の為に降下を開始すると、僅かな時間で夕闇の世界に入ることになります。明るい場所から暗い映画館に入る時のように、眼が暗さに慣れる、いわゆる暗順応(あんじゅんのう)に時間が掛かりますが、他機への見張りには普段以上に注意しなければなりません。

(その2)西から東に向かって飛ぶと

日本から北米の ニューヨーク や、ワシントン D C などに向かう時のように、東向きに長距離を飛行すると、東から西に移動する太陽とは移動方向が逆になるため、見かけ上の 相対速度が速くなります。たとえば 9月 30 日の午前 11 時に成田を出発すると、飛行中はいつもの約半分の時間で昼間が終わって暗くなり、夜の闇も時間が短くなり、すぐに夜が明けてしまいます。

Jfkairport 予定通りですと、現地時間( 北米東部時間 )の午前 10 時 45 分に、ニューヨーク・ケネディー空港に到着しますが、機内で一晩過ごしたにもかかわらずに、日付は成田を出発した時と同じ 9月 30日です。それだけではなく午前 11 時に成田を出発したにもかかわらず、到着は出発時刻よりも 15 分早い、同じ 30 日の午前 10 時 45 分になります。日付が同じで、しかも到着時刻が出発時刻よりも早いことに、不思議な気がしませんか?。

その答は日付変更線( 東経 180 度=西経 180 度 )を西から東に越える場合には、夜が明けても同じ日付を繰り返すからです。写真はニューヨークのJ F K・ケネディ-空港です。( この続きの東から西に飛ぶ場合については、 10月 1 日に書く予定です。)

2006年9月26日 (火)

他人の給料が高過ぎる?。

金野氏によれば、パイロットは原則として月に 10 日の休みがあり、ホテルに 10 泊しますが、国内線の勤務のパターンは 3 日働き 1 日休み、3 日働き、2 日休みです。国際線の場合には、ニューヨークや、ワシントン D. C などの北米東海岸行きの場合は 2 泊 3 日、ロンドン や パリ などの ヨーロッパ 行きの場合は 3 泊 5 日のパターンになります。この場合 3 泊とは現地の ホテルに泊まる日数であり、5 日とは往きと帰りが機中泊(?)になるという意味です。

労働協約上、休日は所属する基地(たとえば成田、東京、大阪など)で取ると決められているので、外国でいくら休みを多く与えても、日本での休日には計算されません。

ところで国内のホテルに乗組員が宿泊する場合には、なぜか パイロット と スチュワー「デス」 を、同じホテルに宿泊させないように会社が手配するのです。俗に「遠くて近いは男女の仲、近くて遠いは田舎の道」という諺がありますが、結婚適齢期やそれをとっくの昔に過ぎた「うば桜」や、子持ち、孫持ち「デス」と、パイロットが ただならぬ関係 にならない様に、会社が予防措置を講じているのだそうです。それならなぜ国際線では、同じホテルに泊めるのでしょうか?。

事情通にいわせると実際は パイロット に対する嫉妬心から、会社の担当者が意地悪をしているのだそうです。 航空会社では航空大学校を卒業し、あるいは自社養成コースを終えて副操縦士に発令されると、翌日から乗務の際には自宅から会社まで、会社が手配する ハイヤー や タクシー で送迎する制度がありますが、その範囲は空港から 40 キロ 以内の距離でしたが、現在は何 キロ 以内か知りません。しかし一般社員(地上職員)の場合には会社の役員にでもならない限り、自宅から会社までの車の送迎は当然ありません。

彼らにしてみれば自分達は満員電車に揺られて通勤するのに、 24~25 才の若造が ハイヤーに「ふんぞりかえって」 毎日送り迎えされるのを見て、パイロット に対する嫉妬心を持つのも無理からぬことです。それだけではありません。パイロットとの収入の格差があります。新入社員教育の時から、パイロットの給料が高すぎると教え込まれていますが、パイロット側からすれば給料の額だけを言わずに、失敗が許されない仕事 の質や責任の重さを、地上職員のそれと比べて議論する必要があります。

Fire パイロットの一瞬の判断ミス、操作ミスにより、最悪の場合には 棺桶が五百個も並ぶ 事態となり、会社の屋台骨に ヒビ が入るほどの重大な損害をもたらしますが、パイロット以外で社内のどこの部署に、そんな重大な責任を担う人間がいるのか?、ということです。写真はクリックで拡大。

決定的なことを言えば、そんなに高給が羨ましければ、パイロットに成ればよいではないか、あるいはなぜ成らなかったのか?、ということです。現に地上職として航空会社に入社後に、パイロットの自社養成コースに転換し、パイロットになった社員がいるではないか。 もちろん操縦適性無しと判断されて、パイロットに成れなかった人もいましたが、努力もせずに他人の給料が高すぎると非難するのは、ズルイ卑怯者のすることです。

Zangai 機長の場合年に 2 回の厳重な航空身体検査があり、脳波、心電図、眼の検査( 5 種類)、聴力などを含む検査にパスし、同じく年に 2 回のフライト・シミュレーターによる操縦実技の試験を受けますが、そこでは緊急事態における操作の試験で、たとえばエンジンの(1 発、及び 2 発の)停止状態での進入着陸、油圧系統の故障、緊急降下などがあり、筆記試験もあります。ベテラン機長でもひと汗もふた汗もかかされます。写真はクリックで拡大。

それだけでなく、国内線、国際線の各路線毎に年に一度の更新実地 チェック もあり、口述審査にも合格して初めて機長としてその路線が飛べるのです。同じ人命を預かる医師は、一度医師免許を取れば一生有効でその間、全く試験も講習の義務もありませんが、パイロット は前述の技量、知識の チェック を六ヶ月毎に受けて、合格して初めて更新です。勿論中には不合格になる人もいますし、身体検査の結果 不合格になって飛べなくなり、地上配置になる人もいます。

それ程厳しい試験に裏打ちされた資格が、世の中にあるでしょうか?。だからこそ世界中どこの国でも、パイロットは責任の重さに相応しい高給を取るのです。

2006年9月22日 (金)

ホット・ベッド

金野氏から聞いた話によれば、昭和50年代の初期までは飛行機の性能上の理由から、成田からニューヨークへの直行便は飛べずに、約7時間かかる北米アラスカ州のアンカレージに着陸し、そこで燃料補給と、乗組員交代をしてからニューヨークに向かいました。その為に今よりも3時間近く余計に時間がかかりました。直行可能な飛行機を使用するようになると、東行き(ニューヨーク行き)では12時間、向かい風のジェット気流が強い冬場の西行き(成田行き)では14時間かかるため、航空会社では最初はダブル・クルーと称して二組の乗組員を乗せて飛行し、飛行中にクルーを交代させました。

機長2名、副操縦士2名、航空機関士2名、それにスチュワーデス2組(28名)という大編成でしたが、飛行時間の半分は非番( Off Duty )の為に仕事もせずに、クルー用のベッドで休養するという贅沢な仕組みでした。しかもその間も D H ( Dead Head 、死んだ頭、仕事をする頭数に入れない乗組員 ) として 、1 時間 いくらの D H 手当が貰えました。

その為に ニューヨークを一往復すると5万円の手当が付き、月に 二 回行くと 10万円の収入増になったので、パイロットもスチュワー「デス」も大喜びでした。さすがに人件費がかかり過ぎたので、会社もその後は マルチ・クルー(Multi Crew、多人数)編成に変えました。操縦席で言えば、指揮権を持つ機長( Pilot In Command )1名、機長資格を持つ操縦士 1名、副操縦士1名、それに航空機関士が必要な機体では交代の航空機関士を含めて2名となり、6名が5名になりました。

「デス」についても、ひと組の人数に数人を増やした結果、パイロットも「デス」も飛行中に三分の一ずつが 3~4 時間の休養を取れるようになりました。寝る場所については、7月19日の ブログ 「 デスのお肌 」で述べています。

Hotbed ところで ホット・ベッド ( Hot Bed 、熱い寝床 )という言葉を聞いたことがありますか?。ベッドを他人と交代で使う際に、前の人の体温で暖かくなったベッドに、次の人が寝ることです。気持ちが悪いなどというお上品な人は、「デス」 に不向きです。「デス」の語源は前回のブログに書いたように、「豚小屋の女性番人」 であることを思い出してください。毛布をきちんとたたむのが、次に寝る人へのエチケットです。狭いエコノミー・クラスの席で眠る乗客と比べれば、水平なベッドで寝られるのは幸せです。写真はクリックで拡大。

「デス」の仕事は乗客の「嘔吐」の後始末や、家ではしたこともない汚れたトイレの掃除も、ルーティン・ワーク( Routine Work 、日常業務 )です。下っ端の「デス」が使い捨てのビニール手袋をはめて、飛行中に トイレが汚れる度に掃除をしますが、家の者や友人には見せたくない姿です。ある「デス」が勤務を終えて成田から電車に乗り、空いていたのでフライトの書類の整理をしていると、隣に座った酔っぱらいが「ヘド」を吐きました。その「デス」はそのまま書類の整理を続けましたが、ふと気が付くと周囲の人は皆席を立ち、その周囲だけ人がいなくなっていたそうです。

「デス」にとって床の「ヘド」を見ることや、臭気などなんでもないし、国際線に乗務する人は、ホット・ベッドに限らず、いつでも、どこのホテルでも寝られる図太い神経でないと勤まりません。更に時差を克服できる人でないと不向きということです。大部分の人は仕事に順応できますが、中には外国に行くと全く眠れない人もいました。そういう人は時差の無い、国内線を専門に飛びました。

2006年9月19日 (火)

I D カード

昔は学生には学生証が、社員には社員証がありましたが、縄文航空では社員証とは言わなくなり I D ( Identification 、識別)カード と呼ぶ、プラスチック製の写真付き、磁気テープ付きの身分証明書に変わりました。それと共に例の首に掛けたストラップに I D カードを下げた姿が、縄文航空の社内でも見られるようになりました。

Idcard 乗組員の場合は昔から I D カード をクリップがついた ビニール・ケースに入れて、胸のポケットから下げる方法でしたが、今も変わりません。かつて縄文航空の社員証には有効期限がありませんでしたが、終身雇用制なので中途退職者は社員証を返却すれば済みました。ところが外国に行くようになると、有効期限が書いてない I D カードなどあり得ないといわれ、数年に区切って有効期限を設定するようになりました。写真はクリックで拡大。

国際線に乗務する場合に最も重要なものは、パイロット の ライセンス(免許証)、パスポート、それに会社の I. D. カード(写真付き身分証明書)です。パスポ-ト があれば I. D. カード など不要と思われるかも知れませんが、そうではありません。出国する場合には乗組員は一般旅客とは別の通路を使うので、制服の胸にきちんと  I D カードを表示していなければなりません。

乗組員の場合は出入国の際に パスポートに出入国のスタンプを押すことはなく、それを毎回したら パスポートの余白が直ぐに無くなってしまうからです。出国検査場の乗組員専用入り口を通過する際には、「縄文航空」の XYZ 便ですと名乗ると、予め会社が入管や税関に提出している G D ( General Declaration 、一般申告書 )の便名の乗組員名簿を見て、入国管理の係官が確認するというのが建前です。

しかし制服を着たクルーがまとまって出国するので、相手も一人一人名前を確認することや、 G D に印をつけることは滅多にしません。外国でも I D カード が重要なのは英国系の国で、ロンドンや ホンコン、シドニーではパスポートを見せずに、胸に付けた I D カードの表示だけで出入国します。20年以上前のこと、ホンコン便に乗務予定の「某航空会社」の パイロットが、パスポートを忘れて出社したのだそうです。

前日に米国領事館に米国の クルー・ビザ ( C-1 )、通過 ( トランジット ) ビザ ( D-1 )を貰いに行き、パスポートを運航カバンに入れるのを忘れた為でした。出発1時間半前になっての パイロット変更は、時間的に離陸時刻に遅れが出て乗客に迷惑が掛かります。本人は会社には内緒にして自分自身の判断と責任で、パスポートを持たずに乗務することに決めたのだそうです。ホンコン入国は前述の如く問題なく済みましたし、翌日の日本への帰国の際も乗組員は入国審査の際に パスポートの チェック が無いので、彼は何事もなく無事に仕事を終えることができたのだそうです。

乗客が機内で飲む酒類は全て無税です。ですからいくら乗客が飲んでも会社の出費は多寡が知れています。ある時 「縄文航空」 の部長と称する男が、出張時に ファースト・クラス の座席で 「タダ酒」 に酔っぱらい、大声を上げるなど ファースト・クラスの他の上品なお客様に迷惑を掛ける行為をしたのだそうな。そこで怒り心頭に発した チーフ・パーサー が、帰国後に キャビン・レポート を提出し、航空会社の社員にあるまじきその男の醜態を会社に報告しました。その結果彼は上司から大目玉を食い、左遷させられたともっぱらの ウワサ でした。

Tejou 最近になって酒酔い運転の取り締まりが厳しくなりましたが、飲むなら( 飛行機に )乗るなとは言いませんが、気圧が低い上空では酒に酔い易いので、飲むならほどほどにすべきです。機内で酒に酔った乗客が暴れることは、航空界で年に 1~2 度聞きますが、オーストラリア の航空法では、身柄を拘束する為の手錠の搭載を義務づけていましたが、その内に日本もそうなることでしょう。(続く)

2006年9月15日 (金)

豚小屋の女性番人

スチュワー 「 デス 」 に憧れる人は、怒らずにお読み下さい。スチュワーデス ( Stewardess ) とはご存じのように英語のスチュワード ( Steward )の女性形ですが、研究社の英和大辞典に依ると、古い時代の英語ではStigweared といいました。

Butagoya ここからが重要なポイントですが、Stig とは 「 Sty 、スタイ、豚小屋 」 のことであり、Weard とは 「 Ward、ウオード、番人 」 の意味でした。つまりスチュワードとは古くは豚小屋の番人の意味であり、従ってその女性名詞であるスチュワーデスとは、豚小屋の女性番人のことでした。写真はクリックで拡大。

ところで欧米諸国では機内での メシ運び、飲み物運び が主な仕事である 、スチュワーデスの社会的地位が低く、短大卒以上の学歴を持つ女性がするべき仕事ではないことは、2005年7月1日のブログ 「 デスの社会的地位 」 で述べましたが、古くは豚小屋の番人の名称だったとする単語の歴史からも容易に納得できます。「 デス 」 という職業は日本国内でこそ鼻を高くしていられても、外国では決して憧れの的ではなく、蒙古人種の特徴である低い鼻を高くするのは禁物です。

Butadesu さもないと、現在も社会の階級が厳然と存在し、初対面の人にはまず相手の属する階級を、言葉 ( たとえば オックスフォード 訛りの有無 )、服装の趣味、身の振る舞い方 ( エチケット ) などで、それとなく推測し判断するイギリス人からは、下賤の (?) 身分、職業 である 「 デス 」 のくせに、何様 ( なにさま )のつもり?。  Who do you think you are ?. とでも言われるのが オチ です。写真はクリックで拡大。

ところで日本で最初の 「 デス 」 が誕生したのは昭和6年 (1931年 ) のことでしたが、このことは9月6日のブログ 「 デスの事始め 」 にも書きました。更に詳しく述べると多数の中から選ばれた三人の 「 デス 」 が、一カ月後に貰った給料は17円が二人、20円が一人でした。当時の女子労働者の平均賃金の日額が82銭でしたので、給料は決して高くはなく普通の女子労働者並でした。狭い機内での労働の割には給料が安いので、三名全員が不満を持ち、一ヶ月後に退職してしまいました。

羽田空港が公式に開港したのは同じく昭和6年(1931年 )11月3日でしたが、実際にはその数ヶ月前から空港は使用されていていました。8月25日にはここから一番機が飛び立ちましたが、六人乗りの飛行機で、目的地は当時日本の領土であり、現在は中国領である 遼東半島の大連でした

その飛行機に乗客の代わりに乗っていたのは、六千匹のスズ虫と マツ虫でした。その虫は大連で 「東京 カフエ-」 ( Coffee、コヒーのフランス語読み ) を経営していた人が、日本の秋の気分を顧客に味わってもらおうと東京から送らせたもので、大連までの飛行時間は12時間掛かりました。ちなみに現在では、ジェット機で約 3 時間です。

2006年9月12日 (火)

ドクター・コール

Kyuukyuu 三百人以上もの乗客が長時間乗っていると、時には機内で急病人が発生する場合もあります。ある時縄文航空の国内線の機内で急病人が発生したために、航空交通管制 センターに対して医療上の緊急事態 ( Medical Emergency ) を宣言し、羽田空港への進入着陸に優先権を得て、緊急着陸した ケース がありました。男性の乗客が飛行中に意識を失ったとのことで、空港の ゲート に到着して直ぐに救急車で病院に運ばれましたが、気の毒なことに心筋梗塞か脳梗塞で亡くなりました。写真はクリックで拡大。

国内線の場合には病状に応じて最寄りの空港に着陸すればよいわけですが、太平洋を横断する長距離国際線の場合はそうはいきません。そのため エコノミー・クラスの座席に当日余裕がある場合には、最後部の座席の列に連続して 4人分の席を空けておき、急病人が出た際に ベッド の代わりに使用します。下痢、発熱などの場合には市販の薬が一応機内に用意してありますが、乗客が希望した場合に限り、あくまでも自己責任で服用できます。

しかし特に米国人の中には 病気と訴訟を持って医者に来る といわれる程、悪徳弁護士と手を組んで、訴訟に持ち込み カネ をせしめようとする者もいるので、その対応には要注意です。

急病で困るのは尿路結石、胆嚢結石などの、体内の石による急激な痛みなどです。まず機内の乗客の中に医師などの医療関係者がいるかどうか、機内呼び出し(ドクター・コール)をして協力を求めますが、いない場合には近くを飛行する同じ会社の飛行機に援助を求めます。しかしこれは同方向に飛ぶ飛行機に限ります。反対方向を飛行する相手では、互いにマッハ 0.82 (音速の 82 パーセント、時速約 800 キロ)の高速(相対速度はその二倍になり、音速の 1.64 倍 )ですれ違うために、すぐに無線電話の到達圏外に出てしまい役に立たなくなるからです。

同方向に飛ぶ場合とは、たとえば縄文航空の九月の時刻表によると、成田発、ワシントン・D C 行きの飛行機の場合には、それよりも 10分前に成田を離陸して ニューヨークに向かう飛行機が飛んでいるので、必要な場合にはその飛行機にも協力を求め、ドクター・コールをしてもらい、医師がいたら操縦室に来てもらい 、社内無線で交信して医療上のアドバイスを求めます。

同じ会社の飛行機だけでなくある時、近くを飛ぶ鶴丸航空の飛行機からも、 ドクター・コール を求められたことがあったそうですが、互いに日本語が通じる飛行機同士の方が依頼し易かったからでした。

医師の援助を求める別の方法としては、フォーン・パッチ ( Phone Patch )があります。日本ではあまり知られていませんが、たとえば太平洋上では ハワイ の ホノルル にある地上局( 対空通信会社で航空管制通信も兼務 )を短波無線 ( HF ) で呼び出して、予め登録してある日本の医療サービス 会社にハワイから国際電話を掛けてもらい、電話がつながると短波無線( HF )の通信回線と、国際電話の回線を電気的に接続します。

それによってパイロットは 医師が二十四時間待機する、日本の医療サービス 会社と電話連絡が可能になり、急患に対する処置について適切な助言を求めることができます。しかし機内には聴診器、体温計などはあるものの、激しい痛みを和らげるモルヒネなどの医薬品を搭載していないため、機上での対応には限りがあります。

Deta 船舶は世界中どこからでも、海事通信衛星(インマルサット、INMARSAT )を使い国際電話が容易に掛けられますが、飛行機の場合、現時点では一部の地域だけが利用可能であり、前回打ち上げに失敗した 運輸多目的衛星 の更なる打ち上げや、通信技術の革新、短波無線( HF )による データ・リンクの設備が待たれます。写真はクリックで拡大。

2006年9月 9日 (土)

クルーの免税基準

Fujinkutsu うわさ話が得意な金野氏から聞いた話なので真偽のほどは不明ですが、それによるとある時イタリアの ミラノ からの帰りに、嫌な事件が起きました。あるスチュワー「デス」が ミラノ で購入した イタリア 製の革靴を、成田で入国の際に申告せずに持ち込み、税関検査で摘発されたのでした。

税関と航空会社の乗組員との間には互いに信頼関係があり、通関に関しては不正行為をしない。従って旅客並の検査もしない ということでしたが、たまに通関の際にスポット・チェックと称して荷物の検査をする場合もありました。多くの場合買い物が多い「デス」が対象であって、女房や息子、娘に常時 カネ を絞り取られて金欠状態にある機長連中が検査された話を聞きませんでした。

その若い「デス」は税関の事務室に連れて行かれ脱税の容疑で調べられましたが、機長からの連絡を受けた客室乗員部の管理職が税関に貰い下げに行き、謝罪して勘弁してもらいました。しかしその「デス」はそれ以後乗務の スケジュールを外されてしまい、毎日出社 スタンバイ( Stand by )の勤務にされました。彼女が税関に摘発された話は瞬く間に「デス」の間に広がった為に、乗務をせずに皆と顔を合わせる機会が多い スタンバイ勤務をすることは、「さらし首」の刑に処せられたのと同じでした。

二週間後に彼女は泣く泣く自発的に退職願いを書き、会社は直ちに受理してこの事件は幕を閉じました。これ意外にも外国で購入した毛皮のコートを無申告で日本に持ち込み、税関に発見され解雇された「デス」が同業他社にいたとか聞きましたが、前述の革靴の場合、僅か 六パーセント の輸入関税を惜しんだ為に、「デス」の仕事を棒に振ったのは浅はかなことでした。

Manira 金野氏は外国の税関で、以下の出来事も経験したそうです。ある時 フィリピン の マニラ にある ニノイ・アキノ 空港( 夫人である アキノ 元大統領の、暗殺された夫の名前から命名 )に着陸しましたが、通関の際に税関職員がスチュワー「デス」に荷物を開けさせて、中から一枚一枚下着を取り出しては旅客にも見えるように、両手に持って広げました。「デス」は顔を赤らめると共に、機長は怒りました。あとで分かったことは、税関職員に対する会社からの付け届けを、日本から派遣された者が忘れていたことが原因でした。(写真はクリックで拡大。)

中国を含めて開発途上国では、税関に限らず役人、警官など権力を持つ者が、職権を利用して ワイロ を要求し  カネ 稼ぎをするのが普通ですが、 それに対して ワイロ や チップ を支払うことは、考え方によっては ヤクザ に払う場所代や 関所の通行税、あるいは事務手続きの 意図的遅延 を事前に防ぐための 潤滑油 のようなものです。ところで チップ の意味をご存じですか?。
T i p とは、To Insure Promptness 、つまり迅速性に保険を掛ける という意味があるのだそうです。ニノイ・アキノ 空港の税関に事前にチップ (それなりの金額の付け届け)を渡しておけば、「デス」も嫌な目に遭わず迅速に通関できたはずでした。

ところで外国を常に往復する クルー(乗務員)には、一般旅行者とは異なる税関の免税基準がありますが、六千円、九千円と時代と共に順次引き上げられて行き、今では現地価格で一万五千円~二万円前後だと思います。

しかし「デス」が退職前の最後の フライト (ラスト・フライト)の場合には、会社からの ラスト・フライト 証明書があれば、一般の旅行者と同じ免税基準の二十万円が適用されます。パイロットでその証明書を貰った人のことは聞いたことがありませんし、たぶん金野氏も貰わなかったと思います。

ちなみに一般の旅行者に適用される免税基準とは
1)合計額が20万円を超える場合は、20万円以内におさまる物品は免税になり、その残りの品目に課税されます。
(2)1個で20万円を超える品物の場合は、全額について課税されます。例えば25万円のバッグは25万円の全額について課税されます。

2006年9月 6日 (水)

デスの事始め

旅客機にはいつ頃から、スチュワー「デス」が乗務するようになったのでしょうか?。飛行機による乗客輸送が始まった当初は「デス」ではなく、男性のスチュワードを乗せてサービスに当たりましたが、「デス」を乗務させるようになったのは、昭和五年(1930年)に アメリカ の ボーイング航空輸送(後のユナイテッド航空)という会社が、世界で最初でした。

Original8

当時 ミネソタ 大学の看護学科を卒業し、サンフランシスコ の病院で看護婦をしていた エレン・チャーチが、スチュワードの募集広告を見て航空会社に、看護婦の資格を持つ自分の採用を熱心に売り込みました。その結果大學仲間の八名の看護婦が採用されましたが、これを「デス」のオリジナル・エイト、最初の八人組と呼びました。当時の飛行機は性能が低く揺れ易い低空を飛んだ為に、空酔いする乗客がいたことも看護婦達の採用に有利に働きました。写真はクリックで拡大。

 彼女たちの制服は エレン・チャーチ 自らが デザイン したもので、グレーのウール地に銀ボタンが六個ついたダブルのジャケットに黄色い裏地の紺色のマントといった、結構おしゃれなものでした。しかし機内でサービスする際には、白衣白帽の看護婦スタイルだったそうです。

では日本での「デス」の誕生はいつのことだったかというと、驚いたことに米国の 「オリジナル・エイト」 に遅れることわずか一年の、昭和六年(1931年)に東京航空輸送という航空会社が「エア・ガール」として、三人の女性を採用したのが始まりでした。日本初の 「デス」 の募集新聞広告とは

「エアー・ガールを求む。東京、下田、静岡県の清水間の定期航空、旅客水上機に搭乗し、風景の説明や珈琲(コーヒー)のサービスをするもの、容姿端麗なる方を求む。希望の方は2月5日午後2時、芝桜田本郷町、飛行館四階へ」

というものでした。これを見ると「デス」の「容姿端麗」がこの時から条件になっていましたが、応募者は141人で、3月5日に採用決定されたのは、僅か三人でした。4月1日から乗務を開始しましたが、搭乗機は旅客六人乗りの水上飛行機で、あまりの機内の狭さと給料の安さから、4月29日には全員が辞職してしまいました。東京航空輸送ではやむを得ずに給料を一回の飛行につき三円とし、地上勤務をした場合には一円としたところ、三百人以上の応募者が集まりました。

Suijouki 彼女たちは国産の愛知 AB-1 型という水上飛行機に乗務し、東京-清水間でフライトを開始しましたが、残念ながら制服はなく私服で乗務していたそうです。しかしこの日本最初の エア・ガール はわずか一年で消滅してしまい、次に日本の航空会社で 「デス」 が採用されるのは昭和12年(1937年)のことで、日本航空輸送という会社でしたが、十二名の「デス」を採用し、制服制帽もきちんとしていました。

ところで当時の「デス」の仕事には機内の仕事だけではなく、営業の守備範囲である搭乗案内や、搭乗前の乗客の体重測定も含まれていました。

飛行機に乗る際に乗客の体重測定をすることなど、現代の ジェット 旅客機では考えられませんが、四十八年前の昭和 33年(1958年)に、私が ハワイ島の ヒロ から オアフ 島の ホノルル まで、ハワイアン航空の プロペラ 旅客機( D C-3 )に乗った際には、搭乗前に男性客だけ体重測定がありました。小型機のため機体の バランスを取る必要や、プロペラ・エンジン の馬力不足から、機体重量の正確な計算が必要だったのでしょう。

2006年9月 3日 (日)

髪結いの亭主

Marumage2 私が子供の頃の昭和十年代(1935年~)の東京には、水商売の女性以外にも「日本髪」を結う女性がまだいましたが、当時のパーマは薬品を使わずに電気で毛髪をカールする方法でした。その為に電髪(でんぱつ)とも呼ばれ、戦争が始まると乏しい電気を軍需産業に回す為に、「パーマネントは止めましょう」などと標語が掲げられました。日本髪を結う人は今でいう美容院の代わりに、髪結いに行き、洗髪や髪を結い上げてもらいました。家の近所にもそういう家がありましたが、お師匠さん(おしょさんと発音する)の経営者と結い子が数人働いていました。写真はクリックで拡大。

その家には為さんと呼ばれた亭主がいて、私よりも一才上の男の子と二歳下の女の子がいました。為さんは仕事もせずにいつも家にいて子供と遊んだり、お祭りなどの際には町内の仕事を手伝うという生活をしていました。
大きくなって 髪結いの亭主 という言葉を本で見ると、為さんのことを直ぐに思い出しました。

ところで最近はスチュワー「デス」の中にも、自分が働いて夫を扶養家族にし、育児、掃除、洗濯、料理などの家事全般を、主婦ならぬ主夫に任せるという者がいるようになりました。米国の「デス」は妊娠六ヶ月まで乗務が可能でしたが、日本では航空法の規定により「デス」は妊娠すると飛べなくなりました。出産後も最長で子供が満二才になるまで育児休職が延長できるという、結構な社内制度がありますが、それが終わると稼ぎの少ない亭主に代わり、自分が働いて一家の収入を賄うという 健気( けなげ )な「デス」がいるようになりました。

客観的にみれば男のくせに女房に養ってもらう生活力が無い「ヒモや、寄生虫」などは、「男の風上に置けない奴と思い勝ちですが、そういう男に限って経済力のある奥さん「デス」から追い出されないように、献身的に奉仕するために、家庭的にも上手く行くのだそうです。

私が知っている某航空会社のある「デス」は、四十才過ぎるまで女の細腕ひとつで長年 主夫業 をする無職の亭主を養い、二人の子供を私学の小、中学校に入れて育てましたが、立派と言うべきでしょう。

Nagashima ところで日本で最初に六十才の定年まで、「デス」を勤め上げた人をご存じですか?。
知る人ぞ知る鶴丸航空における「デス」の先駆者、永島玉枝さんでした。彼女は「デス」の三十才定年が近づくと、会社に対して定年延長を熱心に願い出ました。その結果テスト・ケースとして定年延長が認められ、遂に容姿が売り物の「デス」についても、一般社員並に六十才までの定年制の制定に漕ぎ着けました。写真はクリックで拡大。

四十年間の「デス」勤務で、25,020時間 の飛行時間を記録しましたが、それに比べると私などは、三十六年間のパイロット生活で、飛行時間は18,000時間でした。機内サービスを担当する「デス」と、飛行機の安全運航に従事するパイロットでは仕事の質や責任の大きさが違いますが、恐らく彼女の記録を破る「デス」は、今後現れないと思います。ちなみに彼女は退職するまで独身を通しましたが、 退職後に本を刊行し、スチュワーデス学院に第二の職場を得たとか聞いています。

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