髪結いの亭主
私が子供の頃の昭和十年代(1935年~)の東京には、水商売の女性以外にも「日本髪」を結う女性がまだいましたが、当時のパーマは薬品を使わずに電気で毛髪をカールする方法でした。その為に電髪(でんぱつ)とも呼ばれ、戦争が始まると乏しい電気を軍需産業に回す為に、「パーマネントは止めましょう」などと標語が掲げられました。日本髪を結う人は今でいう美容院の代わりに、髪結いに行き、洗髪や髪を結い上げてもらいました。家の近所にもそういう家がありましたが、お師匠さん(おしょさんと発音する)の経営者と結い子が数人働いていました。写真はクリックで拡大。
その家には為さんと呼ばれた亭主がいて、私よりも一才上の男の子と二歳下の女の子がいました。為さんは仕事もせずにいつも家にいて子供と遊んだり、お祭りなどの際には町内の仕事を手伝うという生活をしていました。
大きくなって 髪結いの亭主 という言葉を本で見ると、為さんのことを直ぐに思い出しました。
ところで最近はスチュワー「デス」の中にも、自分が働いて夫を扶養家族にし、育児、掃除、洗濯、料理などの家事全般を、主婦ならぬ主夫に任せるという者がいるようになりました。米国の「デス」は妊娠六ヶ月まで乗務が可能でしたが、日本では航空法の規定により「デス」は妊娠すると飛べなくなりました。出産後も最長で子供が満二才になるまで育児休職が延長できるという、結構な社内制度がありますが、それが終わると稼ぎの少ない亭主に代わり、自分が働いて一家の収入を賄うという 健気( けなげ )な「デス」がいるようになりました。
客観的にみれば男のくせに女房に養ってもらう生活力が無い「ヒモや、寄生虫」などは、「男の風上に置けない奴と思い勝ちですが、そういう男に限って経済力のある奥さん「デス」から追い出されないように、献身的に奉仕するために、家庭的にも上手く行くのだそうです。
私が知っている某航空会社のある「デス」は、四十才過ぎるまで女の細腕ひとつで長年 主夫業 をする無職の亭主を養い、二人の子供を私学の小、中学校に入れて育てましたが、立派と言うべきでしょう。
ところで日本で最初に六十才の定年まで、「デス」を勤め上げた人をご存じですか?。
知る人ぞ知る鶴丸航空における「デス」の先駆者、永島玉枝さんでした。彼女は「デス」の三十才定年が近づくと、会社に対して定年延長を熱心に願い出ました。その結果テスト・ケースとして定年延長が認められ、遂に容姿が売り物の「デス」についても、一般社員並に六十才までの定年制の制定に漕ぎ着けました。写真はクリックで拡大。
四十年間の「デス」勤務で、25,020時間 の飛行時間を記録しましたが、それに比べると私などは、三十六年間のパイロット生活で、飛行時間は18,000時間でした。機内サービスを担当する「デス」と、飛行機の安全運航に従事するパイロットでは仕事の質や責任の大きさが違いますが、恐らく彼女の記録を破る「デス」は、今後現れないと思います。ちなみに彼女は退職するまで独身を通しましたが、 退職後に本を刊行し、スチュワーデス学院に第二の職場を得たとか聞いています。
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