デスの事始め
旅客機にはいつ頃から、スチュワー「デス」が乗務するようになったのでしょうか?。飛行機による乗客輸送が始まった当初は「デス」ではなく、男性のスチュワードを乗せてサービスに当たりましたが、「デス」を乗務させるようになったのは、昭和五年(1930年)に アメリカ の ボーイング航空輸送(後のユナイテッド航空)という会社が、世界で最初でした。
当時 ミネソタ 大学の看護学科を卒業し、サンフランシスコ の病院で看護婦をしていた エレン・チャーチが、スチュワードの募集広告を見て航空会社に、看護婦の資格を持つ自分の採用を熱心に売り込みました。その結果大學仲間の八名の看護婦が採用されましたが、これを「デス」のオリジナル・エイト、最初の八人組と呼びました。当時の飛行機は性能が低く揺れ易い低空を飛んだ為に、空酔いする乗客がいたことも看護婦達の採用に有利に働きました。写真はクリックで拡大。
彼女たちの制服は エレン・チャーチ 自らが デザイン したもので、グレーのウール地に銀ボタンが六個ついたダブルのジャケットに黄色い裏地の紺色のマントといった、結構おしゃれなものでした。しかし機内でサービスする際には、白衣白帽の看護婦スタイルだったそうです。
では日本での「デス」の誕生はいつのことだったかというと、驚いたことに米国の 「オリジナル・エイト」 に遅れることわずか一年の、昭和六年(1931年)に東京航空輸送という航空会社が「エア・ガール」として、三人の女性を採用したのが始まりでした。日本初の 「デス」 の募集新聞広告とは
「エアー・ガールを求む。東京、下田、静岡県の清水間の定期航空、旅客水上機に搭乗し、風景の説明や珈琲(コーヒー)のサービスをするもの、容姿端麗なる方を求む。希望の方は2月5日午後2時、芝桜田本郷町、飛行館四階へ」
というものでした。これを見ると「デス」の「容姿端麗」がこの時から条件になっていましたが、応募者は141人で、3月5日に採用決定されたのは、僅か三人でした。4月1日から乗務を開始しましたが、搭乗機は旅客六人乗りの水上飛行機で、あまりの機内の狭さと給料の安さから、4月29日には全員が辞職してしまいました。東京航空輸送ではやむを得ずに給料を一回の飛行につき三円とし、地上勤務をした場合には一円としたところ、三百人以上の応募者が集まりました。
彼女たちは国産の愛知 AB-1 型という水上飛行機に乗務し、東京-清水間でフライトを開始しましたが、残念ながら制服はなく私服で乗務していたそうです。しかしこの日本最初の エア・ガール はわずか一年で消滅してしまい、次に日本の航空会社で 「デス」 が採用されるのは昭和12年(1937年)のことで、日本航空輸送という会社でしたが、十二名の「デス」を採用し、制服制帽もきちんとしていました。
ところで当時の「デス」の仕事には機内の仕事だけではなく、営業の守備範囲である搭乗案内や、搭乗前の乗客の体重測定も含まれていました。
飛行機に乗る際に乗客の体重測定をすることなど、現代の ジェット 旅客機では考えられませんが、四十八年前の昭和 33年(1958年)に、私が ハワイ島の ヒロ から オアフ 島の ホノルル まで、ハワイアン航空の プロペラ 旅客機( D C-3 )に乗った際には、搭乗前に男性客だけ体重測定がありました。小型機のため機体の バランスを取る必要や、プロペラ・エンジン の馬力不足から、機体重量の正確な計算が必要だったのでしょう。
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