観音様になったスチュワーデス
神戸市の北側には六甲山 (標高 931 m ) 系がありますが、毎年秋になると、明石近くの須磨浦から宝塚までの山道を尾根伝いに走破する 六甲全山縦走大会 がおこなわれ、多くの山男、山女が参加します。
朝 5 時に須磨浦を出発し、九 つの峰を越えるため、登り下りする高度差は実に、2 千メートルにもなります。
しかも チェック ・ ポイントを規定時間内に通過しないと失格になるので、56 キロ の山道を通常 12 時間から 15 時間で歩き、最終の宝塚に降りる山道では暗くなるために、ヘッドランプ を点灯して木の根、岩を踏みながら歩きます。
関西の登山愛好者の間ではこの大会を完走して、初めて一人前の山男、山女であると認められますが、写真は完走者に与えられる盾で 金野内蔵氏が貰ったものです。 クリックで拡大します。
ある時、金野氏 は友人に勧められて参加することにしましたが、その為には事前の トレーニングや コースの習熟が必要です。
コースを前半と後半に分けて一人で何度も歩きましたが、後半を歩く際に コースの途中にある凌雲 ( りょううん ) 台への登り口の手前に、観音像があるのに気が付きました。(写真は前半の コースにある、「馬の背」 の難所)
説明板にはみよし観音と書いてあり、飛行機事故で殉職したある 「スチュワーデス」 の、慰霊の為に建てられたものであることを知りました。よく調べてみると、
昭和 39 年 ( 1964 年 ) 2 月 18 日のこと、日東航空の大阪国際空港発徳島行きの マラ-ド 水陸両用飛行機が、離陸直後に エンジン故障により尼崎市の田能遺跡に墜落しました。
その際に スチュワーデス の麻畠美代子さんが 7 名の乗客を助け 一度は機外に脱出したものの、1 名の乗客が機内に取り残されていることに気付き、救助するために機内に入った直後に漏れた燃料に引火して機体が爆発し、乗客 1 名と共に殉職したものでした。
その後、若くして殉職した彼女を讚えるために 「 美代子 」 から名前を 「 みよし 」 観音と名付けた像が建立されましたが、像は右手を大空に差しのべています。
建立当時、女優の吉永小百合さんらが 「みよし観音賛歌」 を寄せ、建立 15 周年には観音像の側に、「みよし観音賛歌 」 の歌碑が建立されました。
毎年 8 月 1 日に大空の護り、祈年祭が行われているそうです。石原慎太郎の詞も添えられていますが、森繁久弥の詩、ホタルの天使を偲んでも石に刻まれています。
あな おごそかな み顔こそ / 君 ありし日の 面ならん / 蛍よ舞えよ そのもとに /
六甲の峰 煙るとも /
乗客の命を救う為に身の危険をも顧みず、機内に飛び込んだ 「彼女の行為 」 は大きく賞賛されるべきものですが、気になるのはその間に、当該機の機長や副操縦士は何をしていたのでしょうか?。
正確な文言は忘れましたが、当時の航空法には危難の場合の措置として、「機長は乗客の救助に必要な手段を尽くし、機内に在る者を去らせた後でなければ、自己の指揮する飛行機を去ってはならない」とする条文があったように記憶しています。
これは当時の船員法にあった、船長の最後退船義務と同じで、船内に逃げ遅れた者や閉じこめられた者がいた場合には、船長は船橋 ( ブリッジ ) に留まり、沈み行く船と運命を共にせざるを得ませんでした。
この条文があったが故に戦時中はもちろんのこと、戦後も遭難した大型船で何人もの船長が、救助されるのを拒否して殉職しましたが、条文の非人道性を指摘されて、昭和40年代に船員法、航空法の条文が改訂されました。
まさか、どこかの航空会社の パイロットや 「 客室乗務員 」 みたいに、オーバーラン事故の際に、乗客よりも先に機体から脱出したのではないことを信じております---が。