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2006年10月30日 (月)

観音様になったスチュワーデス

Tate 神戸市の北側には六甲山 (標高 931 m ) 系がありますが、毎年秋になると、明石近くの須磨浦から宝塚までの山道を尾根伝いに走破する 六甲全山縦走大会 がおこなわれ、多くの山男、山女が参加します。

朝 5 時に須磨浦を出発し、九 つの峰を越えるため、登り下りする高度差は実に、2 千メートルにもなります。

しかも チェック ・ ポイントを規定時間内に通過しないと失格になるので、56 キロ の山道を通常 12 時間から 15 時間で歩き、最終の宝塚に降りる山道では暗くなるために、ヘッドランプ を点灯して木の根、岩を踏みながら歩きます。

関西の登山愛好者の間ではこの大会を完走して、初めて一人前の山男、山女であると認められますが、写真は完走者に与えられる盾で 金野内蔵氏が貰ったものです。 クリックで拡大します。

Umanose ある時、金野氏 は友人に勧められて参加することにしましたが、その為には事前の トレーニングや コースの習熟が必要です。

コースを前半と後半に分けて一人で何度も歩きましたが、後半を歩く際に コースの途中にある凌雲 ( りょううん ) 台への登り口の手前に、観音像があるのに気が付きました。(写真は前半の コースにある、「馬の背」 の難所)

説明板にはみよし観音と書いてあり、飛行機事故で殉職したある 「スチュワーデス」 の、慰霊の為に建てられたものであることを知りました。よく調べてみると、

昭和 39 年 ( 1964 年 ) 2 月 18 日のこと、日東航空の大阪国際空港発徳島行きの マラ-ド 水陸両用飛行機が、離陸直後に エンジン故障により尼崎市の田能遺跡に墜落しました。

その際に スチュワーデス の麻畠美代子さんが 7 名の乗客を助け 一度は機外に脱出したものの、1 名の乗客が機内に取り残されていることに気付き、救助するために機内に入った直後に漏れた燃料に引火して機体が爆発し、乗客 1 名と共に殉職したものでした。

Miyoshi その後、若くして殉職した彼女を讚えるために 「 美代子 」  から名前を 「 みよし 」 観音と名付けた像が建立されましたが、像は右手を大空に差しのべています。

建立当時、女優の吉永小百合さんらが 「みよし観音賛歌」 を寄せ、建立 15 周年には観音像の側に、「みよし観音賛歌 」 の歌碑が建立されました。

毎年 8 月 1 日に大空の護り、祈年祭が行われているそうです。石原慎太郎の詞も添えられていますが、森繁久弥の詩、ホタルの天使を偲んでも石に刻まれています。

 あな おごそかな み顔こそ / 君 ありし日の 面ならん / 蛍よ舞えよ そのもとに /
   六甲の峰 煙るとも /

乗客の命を救う為に身の危険をも顧みず、機内に飛び込んだ 「彼女の行為 」 は大きく賞賛されるべきものですが、気になるのはその間に、当該機の機長や副操縦士は何をしていたのでしょうか?。

正確な文言は忘れましたが、当時の航空法には危難の場合の措置として、「機長は乗客の救助に必要な手段を尽くし、機内に在る者を去らせた後でなければ、自己の指揮する飛行機を去ってはならない」とする条文があったように記憶しています。

これは当時の船員法にあった、船長の最後退船義務と同じで、船内に逃げ遅れた者や閉じこめられた者がいた場合には、船長は船橋 ( ブリッジ ) に留まり、沈み行く船と運命を共にせざるを得ませんでした。

この条文があったが故に戦時中はもちろんのこと、戦後も遭難した大型船で何人もの船長が、救助されるのを拒否して殉職しましたが、条文の非人道性を指摘されて、昭和40年代に船員法、航空法の条文が改訂されました。

まさか、どこかの航空会社の パイロットや 「 客室乗務員 」 みたいに、オーバーラン事故の際に、乗客よりも先に機体から脱出したのではないことを信じております---が。

2006年10月25日 (水)

殉職したデス

金野氏から聞いた話

親友である鶴丸航空 O B の荒俣(あらまた)落太氏から電話がありましたが、それによると元「デス」の中でアメリカで離婚し、その後もアメリカに住んでいましたが、病気( エイズ ?)になり、日本に帰国した例があったとのことでした。「国際結婚とデス」のブログに書いた B.A. ターミナルで働いていた女性と、あるいは同じ人だったのかも知れません。

ところで 「デス」の殉職といえば飛行機事故だけでなく、北米ワシントン D C の ダレス空港で、縄文航空の「デス」が出発間際の飛行機から地上に転落して、殉職するという痛ましい事故が二十年近く前にありました。

Dulles ダレス 空港では空港の中央に ミッド・フィールド・ターミナル ( Mid field Terminal ) がありますが、そこにはジャンボ・ジェット機の客室床面と同じ高さまで上昇可能な床を備えた モービル・ラウンジ と呼ばれる大型バス に乗り移動します。かつては モービル・ラウンジ を使用して駐機場の飛行機に直接乗り降りしていましたが、時間が掛かるので現在では利用されなくなってしまいました。写真はクリックで拡大。

ある時、日本への出発準備を完了し全ての ドアーを閉めた後で、飛び込み搭乗をした乗客用の食事を追加搭載する必要に迫られました。その為に普段は開けない ジャンボ・ジェット 機の L-5 (最後部の左側 ドアを開けて、そこから搭載することになりました。

B747dal その ドア を緊急時以外に手動で開けるには、機内と機外の連携 プレイが必要で、機内の レバーを動かして ロックを外し、外に押し出すと共に機外の人が外側に引き ドアを一杯に開けるのです。事故はその際に起きました。デスが手を離さない内に ドアを外側に開いたので、「デス」が バランスを失い機外に転落してしまいました。運悪く タラップ車と機体の隙間から 三メートル下の地上に落ちて、頭を強打してしまいました。写真の赤矢印のドアから。

すぐに救急車で病院に運びましたが、ここからが問題でした。彼女は独身でしたので重大な手術を受けるには、親の同意書が必要だと病院が主張したのでした。それから真夜中の日本に国際電話をかけ、親に事故の状況を説明し、頭部の手術をすることに親の同意を得てその旨を病院に連絡しましたが、口頭による同意に病院側が難色を示しました。

医療裁判が多発する米国では、裁判で証拠となる文書が欲しかったのでした。結局 ダレス空港駐在の縄文航空の責任者が、患者に対して全責任を負うことを文書にして決着し、頭部の手術がおこなわれましたが、脳挫傷により 「デス」は死亡しました。気の毒なことでした。

ちなみに アメリカの医療費は極めて高額で、一例を挙げると盲腸の手術の相場は入院僅か 一日で 200万円以上であり、患者は皆、手術で痛む腹を押さえながら翌日退院するのだそうです。その後は自宅や近くのホテルに泊まり、傷の手当て、抜糸に通院するのが普通です。

アメリカの医師は医療 ミス で患者から訴えられる事態に備えて、医療賠償保険に加入していますが、その為に医師が支払う保険料は平均で年間、二千万円にもなるのだそうです。だからその分、医療費が高くなるのです。

救急車で病院に運ばれた人に最初に聞くことは、「どのようにして医療費を払うのか?( 医療保険に対する加入の有無と、その種類 )」であり、支払い能力がない患者への診察(どこが悪いのかの診断)はするが、その患者への治療を拒否する権利が、法律上認められているのだそうです。

2006年10月21日 (土)

国際結婚とデス

  金野氏から聞いた話。
金野氏の出身高校は栃木県、栃木市にある栃木高校だそうですが、地元では「栃高」のことを「とちこう」ではなく、「とちたか」と呼ぶそうです。「とちこう」と言うと「栃工」、つまり栃木工業高校のことを指すとのことでした。ある時「とちたか」のクラス会に出席すると、クラスメートの山口君(仮名)から娘が縄文航空のスチュワー「デス」になって、成田に勤務しているので宜しくといわれました。

「デス」といっても社内には二千人もいるので、同じ「デス」と同じ便に乗ることなど滅多にありません。ところが半年後のある日、成田からの国際線乗務で山口君の娘と一緒に飛ぶことになりました。「デス」の機内配置表に山口という名前があったので、試しに父親が栃木県の出身かどうか尋ねたところ、偶然にもクラスメートの山口君であり、彼女はその娘であることが判明しました。

それから十年以上過ぎたある日、金野氏の所に山口君から電話があり、高校時代の「担任だった恩師をかこむ会」をするからという連絡でした。その際に「デス」をしていた娘さんのことを聞くと、アメリカ人と結婚してアメリカに住んでいて、子供が三人いるとのことでした。

「デス」の仕事柄外国人と接する機会が多く、中には海外の宿泊ホテルに着くと直ぐに男が車で迎えに来て、外泊する「デス」もいると聞いていましたが、大人である「デス」の勤務時間外の行動について、他人がとやかく言う筋合いのものではありません。

Greenc ところで日本人の国際結婚については日本人同士に比べて、離婚率がかなり高いという統計があります。民族、文化、宗教、生活習慣、考え方の違いから、約五十パーセントが離婚するといわれていますが、離婚してもアメリカの場合にはグリーン・カード(永住許可証)が有効なので 、働くことも可能です。写真はグリーン・カードで、クリックで拡大。

二重国籍を認めるイギリス人と結婚した日本人女性の場合には、九十五パーセントが日本国籍を保有し続け、万一の離婚に備えているともいわれています。日本人女性は外国人と結婚した場合に、あたかも本籍を変更する如く、直ぐに国籍の変更をし勝ちですが、結婚と国籍とは全く無関係です。一般にいわれることは、二、三十年その国に住んでみてからでも、国籍変更は遅くはないのだそうです。

日本人と結婚して日本に住む外国人では外国籍の者が大勢いますが、その理由は離婚後に母国に帰る事態に備える為だそうです。定住外国人にとって外国籍のままで日本に住むことの不便さは、選挙権が無いこと、運転免許証の大きさの外国人登録証明カードの、携帯義務があることだけで、国民年金も、健康保険も日本人の場合と同じです。

しかし哀れなのは「冬のソナタ」以後に始まった韓流ブームに乗って、韓国人と結婚し韓国に住む元 「デス」 の場合です。正式に結婚していれば定住外国人として韓国の定住権だけは与えられますが、祖国で法律上「三等韓国人」の処遇を受ける在日韓国人と同様に、「就労権 ( 就労 ビザ )」が与えられずに、健康保険も万一の場合の生活保護も受けられないのです。

もし夫が病気で働けなくなった場合には、「就労権」 を持たない日本人妻が働いて収入を得ることができないのです。ひそかに日系企業などで働けば、韓国人社会に 「はびこる」 密告制度により 、「不法就労」 の罪で警察に逮捕され、最悪の場合強制送還されることになります。

では日本国籍を離脱し、韓国籍を取得した後で離婚した場合にはどうなるのでしょうか?。日本に帰っても韓国人と同じ扱いとなり、入管に居住申請を何年も繰り返すことになります。自らの意志で離脱した日本国籍の再取得は、非常に困難です。   

_uabaterm ところで縄文航空が ニューヨークの ケネディー空港で使用する ターミナル は、「ターミナル 7」 ですが、一般には B.A. ターミナル ともいわれます。これは B A( British Airways )が資金を出して建設したもので、ユナイテッド 航空を初め店子の航空会社は家主である B A に家賃を払っています。写真は道路側から見た B.A. ターミナル 、クリックで拡大。

あるとき金野氏はそこで新顔の現地採用の日本人女性を目にしましたが、事情を知る者によれば、以前鶴丸航空の 「デス」 をしていましたが、アメリカ人と結婚渡米後に、わずか半年で離婚したのだそうです。ケネディー空港における鶴丸航空の使用  ターミナルは、「ターミナル1」 ですが、かつて仲間だった 「デス」 に顔を見られたくないので、鶴丸のターミナルで働くことができずに、縄文航空で働くことになったのだそうです。

Tenraku 離婚後も永住許可証は有効だし、ゲートで搭乗開始のアナウンスなどの慣れた仕事をしながら、別な男でもアメリカで見つけるつもりだったのしょうか?。しかし ウワサ によると彼女の髪形や容貌などの変化から、短い間に生活がすさんでいったらしく、この ターミナルからやがて姿を消しました。

金野氏によれば日本から来た ホームステイ や、簡単に入学したものの単位が取れずに、大学を卒業できずにいる 「遊」 学生などの若い女性が、異国の地で転落の軌跡をたどるのを、これまでも多く見聞きしてきたのだそうです。

2006年10月17日 (火)

エンジンの数

Shataikoukoku 東京に三泊して昨夜大阪に帰りましたが、半年ぶりに東京に行くと、 J R 山手線や中央線などの車体の外側に、大きな広告が描かれ(貼り付けられ?)ているのに気が付きました。大阪ではバスやモノレールの車体に宣伝広告があるのを見たことがありましたが、JR東日本ほどの大規模な広告をみるのは初めてでした。

ところで大阪空港では今年の春からジャンボ・ジェット( B-747型機)の運航が禁止された為に、乗り入れる飛行機は全て双発機にとって替わりましたが、今回の東京行きでは ボーイング・トリプルセブン と呼ばれる 777-200型機(415席)に乗り、帰りは 777-300型機(524席)で帰りました。

ジャンボ・ジェットのように エンジン が四つある機体と、トリプルセブン や ボーイング767 型機などの、エンジン が二つしかない機体の安全性を比較すれば、単純にいえば、エンジンの数が多い方がより安全なような気がします。四発のうち一つの エンジン が故障しても二十五 パーセントの出力が失われるだけですが、双発機で一つの エンジンが故障すれば、五十パーセントの出力を失うことになります。

その為にアメリカの連邦航空規則( F A R )では双発機の運航には特別の規制として、イートップス、ETOPS( Extended Twine Engine Operated Procedures Routes 、双発機による長距離運航基準)の適用ルートを設けていて、飛行中に エンジン 故障などの緊急事態が起きた場合には、二時間以内に緊急着陸可能な飛行場のあるルートを飛ばなければならないとされました。

その後 エンジン の信頼性の向上に伴い、平成10年3月からは 二時間以内から 三時間以内に条件が緩和された結果、ハワイや、北太平洋上を飛行して北米の東/西海岸都市に、またグアム、オーストラリア などにも双発機で長距離の洋上飛行が可能となりました。

Continental ところが、平成16年1月6日のこと 294 名の乗客乗員を乗せた コンチネンタル航空の成田発 アメリカ の ヒューストン行きのボーイング777-300 型機が、北太平洋を飛行中に油圧が低下した結果、二つある エンジン の一つを停止し、片側の エンジン だけで飛び続けました。一番近い島はコースの南近くにある アリューシャン列島ですが、大型 ジェット 機にとって唯一着陸可能な滑走路があるのは シェミア 島だけです。写真はクリックで拡大。

Midway1 しかも冬の アリューシャン 列島は低気圧の墓場としての強風と、雪と氷に覆われる為に パイロット はそこへの着陸を選ばずに、二千五百 キロ 南にある ミッドウエー 島に向かい、そこへ無事に緊急着陸をしました。昭和 30年代までは日本から ハワイ へ直行可能な長距離性能を持つ飛行機が無かったので、民間航空機は途中にある ウエーキ 島へ、軍用機は ミッドウエー 島に着陸して燃料補給をしていましたが、ジェット 機の時代になると ミッドウエー 島は航空機にとっては利用価値を失い、その後は海鳥の営巣地として野生生物保護区になりました。ミッドウエー島には数多く生息する海鳥との衝突の危険がありますが、今回の出来事から双発機の緊急着陸場としての利用価値が、再浮上したことは間違いありません。

Onal1 ところで鳥は飛行機の機体や エンジン にとっては、衝突(バード・ストライク、 Bird Strike )をもたらす大敵です。昭和 50年(1975年)のこと、 D C-10 型機が ニューヨークの ケネディー空港を離陸滑走中に、約百羽の カモメ の大群に突っ込んだ結果、多くの カモメ をエンジン に吸い込み、大破炎上する飛行機事故が起きましたが、今回の故障機を救援する為の飛行機は、整備士と部品、それに乗客用の三百食分の弁当を積んで、ハワイのホノルルから鳥が飛ばない夜間に ミッドウエー島に着陸しました。写真は大量の鳥を吸い込む事故により炎上する、オーバーシーズ・ナショナル航空の DC-10 型機です。

2006年10月13日 (金)

デスは香水をつけない

ある日のこと、金野氏は乗務終了後に DH{ Dead Head=当該便の乗組員の頭数に入らない、非番( Off Duty )の乗組員}として客席で移動しましたが、その際に客席内で変な臭いがするのに気が付きました。何の臭いかと思って周囲を見ると、通路を夾んで二つ前方の列に座っていた人が、「バッテラ」の弁当を食べ始めていたのでした。写真はクリックで拡大。

Battera 関西の人は「バッテラ」といえばすぐに分かりますが、酢で絞めた生サバに、コンブを巻いたり載せたりした寿司のことです。その酢の臭いが通路の反対側の斜め後方二メートルの距離にいた、金野氏の座席まで漂って来たのでした。

Perfume2 昔からスチュワー「デス」は香水を付けないという決まりがありましたが、その理由は狭い機内では香水の匂いがこもり、乗客に不快感を与えたり空酔いにつながるから、ともいわれていました。しかし夏場には汗臭さを抑えるために、オーデコロンを付ける程度は許されていましたが、「バッテラ」の臭いの経験から、「デス」についての香水禁止の理由がなるほどと納得できました。

ところで三百人から五百人もの乗客が乗る、長さが約 50 メートル 以上、直経 6.5 メートル の半筒状になった客室内を、同じ温度に保つのは難しいことです。冬など客席の前方を適温にすれば、空気が後方に流れて行く間に冷えてしまい、後部の客室では寒く感じます。逆に夏期など何百人もの乗客が発する体温、呼吸気に排出される炭酸ガスなどにより、客室後部の温度が上昇し、むし暑くなることもあります。

Engineer1 客室の温度を快適に保つには機種により異なりますが、客室を四~五箇所の区画に分けてそこに暖気、冷気を導入させて、室温を細部にわたり自動調節していますが、これは三人乗務の飛行機では航空機関士が、二人乗務の飛行機では副操縦士の仕事です。写真は航空機関士席の計器パネルですが、黄色で囲んだ部分が五つの温度調節のスイッチです。クリックで拡大。

ちなみに機内の空気は約 三 分間で全部が入れ替わるように、新しい空気を常に前方から機内に流し、汚れた空気、臭いなどを機体最後部から排出しています。さらに高空を飛行しても乗客が酸素欠乏による高山病にならないように、機内の空気を地上に近い気圧( 0.8 気圧 )程度まで加圧しています。

ある時金野氏が「気の強い猛妻」を連れて、成田から ヨーロッパ へ自社便を利用して旅行した時のこと、飛行機は新潟から日本海の上に出て ハバロフスク から シベリア 大陸を西に横断する コース を飛びました。その際に航空機関士による客室温度の調節がうまくいかずに、機内が肌寒くなりました。すると近くの座席にいた乗客が、「さすがに シベリア の上空に来ると、かなり冷えますなあ」と仲間同士で会話をしているのが聞こえました。

それを聞いた金野氏は「デス」の コール・ボタン を押して、座席にやって来た 「デス」 に客室中部の温度が低すぎる旨を伝えました。しばらくすると今度は温度が高くなり、少し蒸し暑く感じるようになりましたが、例の乗客が「 シベリア の気温(?)の変化」について、今度はどのように仲間と会話したのかは聞き漏らしました。

参考までに気流が悪く乗客の空酔いが予想される場合には、客室内の温度をやや低目に セット すると、空酔い防止に効果があるともいわれています。

ところで金野氏が ベテラン の航空機関士から聞いた話によれば、人種により体感の適温が違うのだそうで、白人系 ( コーケイジャン、Caucasian ) は蒙古系 ( モンゴロイド、Mongoloid )よりも、やや低い温度を好むとのことでした。そういわれてみると金野氏が、米国で冬に白人の運転する車の助手席に乗った時のこと、車内の温度が涼しいと感じたことを思い出しました。

今日は 13 日の金曜日、キリスト 教徒にとっては忌むべき日ですが、金野氏は無神論者なので、キリスト が磔刑になった日であろうとなかろうと、少しも気になりません。昼頃の飛行機で上京し、兄の病気見舞い、法事などの雑用を済ませるため東京にしばらく滞在するので、その間 ブログ は休みになります。

2006年10月 9日 (月)

海上自衛隊機でのこと

毎年秋になると、自衛隊の観閲式が埼玉県にある陸上自衛隊の朝霞基地でおこなわれますが、昭和30年代には東京にある明治神宮外苑の絵画館前で行われました。金野氏は米国の海軍飛行学校を卒業して帰国した翌年の、昭和34年(1959年)の観閲式に、海上自衛隊の編隊指揮官機の副操縦士として参加しました。その役目は機種、性能の異なる二十機以上からなる大編隊を、指定された上空通過時刻からプラス・マイナス2分以内の誤差で式場上空に導くための航法計算をすること、及び管制機関との交信でした。

観閲式では徒歩部隊の行進が終わり、戦車などの車両部隊がパレードをするタイミングに合わせて、陸上、海上、航空自衛隊の飛行機や ヘリコプター部隊が式場上空を通過する計画でした。指定時刻から三分以上時間が早まると、前方を飛ぶ陸上自衛隊の小型機や ヘリコプターの編隊に追いついてしまい、逆に三分以上遅れると、後ろから高速で接近する航空自衛隊のジェット戦闘機の編隊と重なってしまう危険がありました。

P2vformation 金野氏が乗った対潜哨戒機( P2V-7 )には、当時最新鋭のドプラーレーダーが装備されていて、上空の風や対地速度などの航法データを知ることができましたが、問題は大編隊の場合、飛行速度の大幅な増減による通過時刻の調節が困難なことでした。そのため式場への最終の直線コースに45度の角度で進入し、30秒単位でチェックポイントの通過時刻を確認し、それを基に最終コースへの ショートカット、オーバーシュート をすることにより、上空通過時刻の修正をしました。写真は米軍の P2V-7 の梯形( ていけい )編隊飛行( 左 エチョロン、Left Echelon Formation )ですが、クリックで拡大。

その当時は車の排ガス規制も無くスモッグの為に、東京上空は常に視界が悪い状態でしたが、間違っても式場の観閲官(内閣総理大臣)席(ひな段)の背後だけは飛ぶな、と注意されました。その時は指定時刻から50秒遅れで上空を通過したので、まずまずの結果でした。

Vipkanetsu 昭和36年(1961年)の観閲式には、対潜哨戒機の第二小隊の三番機の機長として参加しましたが、式場上空への直線コースに入ると密集編隊( Tight Formation )を組み、あとは小隊長機との編隊位置を定位置に保つのが仕事で、式場通過時刻に対する誤差も、飛行コースの左右のズレも責任が無い気楽な配置でした。ところが隊内無線で式場上空通過の合図を聞いたとたん、小隊長機の機体後部から霧状のものが放出されました。

前回のブログで述べた、燃料の放出(ダンプ・フューエル)か?。上空を見上げる内閣総理大臣、防衛庁長官、陸、海、空自衛隊の制服組の最高指揮官をはじめ各国の駐在武官やその奥さん方に、あろうことか上空から  シブキ を見舞うとは不届きな奴がいたものでした。

尾籠な話で恐縮ですが、その当時 十二名乗組みの対潜哨戒機には小用の トイレ が二箇所ありましたが、いずれも空中に自然放出する構造であり、大用の トイレ は バケツ 貯蔵式でした。観閲式場通過の タイミング に合わせて 不逞のやからが、前から膀胱に貯めておいた液体を、故意に放出したものに違いありません。「シブキ」 に気が付いたのは懸命に編隊を組んでいた、二番機、三番機の パイロット だけだったと思います。

P3c その後金野氏は実験開発を担当する、実験航空隊( Development Squadron )に転勤した為に観閲式に参加する機会がなく、四年後に民間航空会社に転職しました。毎年秋におこなわれる自衛隊の観閲式の季節になると、45年前の出来事を思い出すそうです。


Orion 現在では対潜哨戒機も、民間航空機として開発された ロッキード・エレクトラ を原型とする P3C 、オライオン( Orion )に替わり、与圧キャビン、 便槽式 トイレ となり、「シブキ」 の放出が不可能となりました。写真はクリックで拡大。

2006年10月 5日 (木)

シブキの話

Goldengate

金野氏から聞いた話。
海上で発生する霧のことを海霧( Sea Fog )といいますが、原因は冷たい海流の上に暖かい空気が流れることにより、水分を含む空気が冷やされて霧が発生します。従って海霧が発生する地域も、季節も概ね決まっています。

写真は北米「霧の サンフランシスコ 」 にある ゴールデン・ゲート 橋で、ここも寒流の影響で霧がよく発生します。写真はクリックで拡大。

北海道や東北の東岸にある空港では、ベーリング 海から千島列島沿いに南下する寒流の影響により、釧路、札幌千歳、青森県の三沢、八戸、などが夏期になると海霧がよく発生します。私は昭和 30 年代に八戸市に 5 年間住んでいましたが、海沿いに住んでいたにもかかわらず海水浴に行ったのは僅か一度だけで、その理由は寒流(親潮)のため海水温度が夏でも 15 度と低く、長い間水中にいることができずに、水から上がると海岸でたき火をして暖を取りました。

昭和 40 年代の夏のこと、その日は朝から札幌千歳空港は濃霧の為に離着陸が出来ない状態で、千歳行きの便の欠航が続き、お盆前の帰省客で空港ロビーは大混乱の状態でした。

金野氏は満員の乗客の為にボーイング 727 型機に燃料を十分に積み、大阪から札幌に向かいました。札幌千歳空港の上空では各地からやってきた飛行機が 5~6 機もいて、天候の回復を期待しながら旋回を続けていましたが、1 時間以上も旋回を続けているうちに予備燃料を使い果たした飛行機から、次々に出発空港や代替空港に向けて去って行きました。

結局一番最後に千歳にやってきた金野氏の飛行機だけが残りましたが、その後幸運にも海霧が薄くなり視程が着陸可能な状態になりました。ところが困った問題が起きましたが、それは燃料を大量に積んで来た為に、そのままでは機体の重量が、着陸するには重すぎることでした。飛行機のジェット燃料は翼の中にある燃料 タンク 内に積みますが、着陸の際に機体が重すぎると、翼と胴体の付け根や車輪などに過度の荷重、衝撃が掛かるため、飛行機には着陸可能な最大重量が決められていました。

その重量よりも重い場合に、着陸する為にはどうするのか?。その答は搭載してある燃料を、空中に投棄( Fuel Dumping )することにより機体の重量を減らしますが、殆どのジェット 旅客機にはその為の装置があります。付近に飛行機が飛んでいないことを確かめてから、レーダーの誘導 パターン を飛行しながら 1 分間だけ燃料を空中に投棄して、着陸可能な重量まで減らしました。

Dampfuel 燃料投棄が終了する頃になって客室の 「デス」から インターフォン がありましたが、「翼から燃料が漏れ出した、と乗客が騒いでいる」 との連絡でした。着陸に備えて余分な燃料を ダンプ したとも機内放送するわけにもいかずに、とっさに「空になった燃料タンクを掃除した」
と金野氏が キャビン・アナウンス をして乗客の不安を取り除き、一件落着しました。写真は翼端にある ノズル から燃料を放出しているところ、クリックで拡大。

雲中飛行の場合は燃料を投棄しても客室の窓からは見えにくいのですが、当時は雲上快晴だったために、翼端からいきなり燃料が霧状に放出された為に、乗客が驚いたのも無理はありません。機種により異なりますが、この機体では 1 分間に約 四千 ポンド (約 1.8 トン、ドラム缶 11 本分)を ダンプ  しましたが、霧状になって空中に放出された燃料はすぐに蒸発してしまい、地上に降ることはありません。

2006年10月 1日 (日)

失われた夜

金野内蔵氏から以下の話を聞きました、の続き。

( その 3 ) 西に向かって 飛ぶと

航空会社が儲けるためには飛行機をなるべく地上で遊ばせないようにすることで、以前から国内線が夜間の門限の為に飛べなくなる深夜に、国内線用の飛行機を外国路線用に 資格変更 (外変)  して、グアム 線などに使用 していま した。 縄文航空では現在も関西空港から 21 時 30 分発の グアム 行きがあり、翌朝 08 時 25 分に戻って来て、今度は国内線用に飛行機の資格変更 ( 内変 )  をしています。

同様に J A L ウエイズ ( 鶴丸航空が運航主体 ) でも成田発 21 時 40 分、グアム 着  02 時 15 分、グアム 発 04 時 30 分、成田着 07 時 10 分の深夜便を運航 していますが、いずれも エコノミー ・ クラスだけの機体なので、外変、内変をして昼間は国内線に使用 しているはずです。

ところで目的地に着いた飛行機は、なるべく短い停留時間で次の フライト に使用 しますが、縄文航空の場合は J  F  K  ( ケネディー ) 空港に到着後、1 時間 45 分後に  トンボ 帰り します。その間に機内の清掃、燃料補給などの機体の点検整備、食事の搭載などを済ませると、ケネディー空港を同 じ日 ( 9 月 30 日 ) の昼間 の 12 時 30 分に出発 して成田に向かいます。

日本から 12 時間も飛んで来た機体がまた 14 時間 半も飛んで帰るのかと思うと、ご苦労様です。どうぞ  エンジン が故障せぬようにと、無神論者の金野氏も故郷である 栃木県の村にある 八幡神社 を含めて、八百万 ( やおよろず ) の神々に安全を祈りたくなるのだそうです。

Suika ところで スイカ の表面に 二箇所 「 しるし 」 を付けて、そこを通るように スイカ を切る場合には、通常 スイカ の中心を通るように切りますが、それは切り易いと共に、二箇所の 印 の間の寸法 ( 距離 ) が最も短くなります。

地理学では地球上の 二地点間の距離が最短となるような ( スイカ の切り口が描く  ) 弧を、大圏 ( たいけん、Great Circle ) と呼びます。 写真は クリック で拡大。

長距離を飛行する場合には最短の距離だけではなく、ジェット 気流 ( 強い西風 )  の向風 ( 又は追風 ) の影響も考慮 して ルート を決めます。 一般には大圏に近い ルート を飛行するので、ニューヨーク の緯度、北緯  40.6  度から最初は西北西の針路を飛行して、アラスカ 州  アンカレージ  の北緯  61 度付近まで北上 し、その後は成田がある北緯 35.7 度まで西南西のコースで南へ下がります。

Sky 帰りの フライト は太陽の移動方向と同じ西方向に飛行するため、成田までは昼間の フライト がずっと続きますが、太陽の見かけの移動速度 ( 24 時間で赤道を 一周する速度 ) が飛行機よりも速いので、最初は真上に見えていた太陽が次第に飛行機の前方に見えるようになります。

14  時間半の長い フライト  を終えて成田に到着すると、予定では日本時間の午後  3  時 25 分ですが、日付が変わって 10 月 1 日になっていま した。往路と違い日付変更線を東から西に越えた為に、夜が来ないにもかかわらず、日付が変わっていま した。

ここでよく考えて下さい。ニューヨークを 9 月 30 日の昼に出て昼間の飛行を 14 時間 半 続け、成田に夕方着いたものの、 

日付が10月1日

  になったのであれば、9 月 30 日の夜はどこに行って しまったのでしょうか?。  もし貴方が毎晩日記を書くとしてこの飛行機に乗っていたら、貴方の日記帳では  9 月 30 日 の欄は空白のはずです。

それどころか貴方の人生で平成 18 年 9 月 30 日の夜は永久に失われて しまいま した。これを 失われた夜( Lost Night ) といいますが、貴方の人生にとって プラス、マイナスのいずれになったのでしょうか?。ちなみに ニューヨーク やワシントン D C 線を月に 二回飛ぶ乗組員は、月に 二度も夜を失うことになります。外国の航空会社では失われた夜の手当 ( Lost night Allowance ) を出せと、乗組員の労働組合が要求 しま したが、会社は拒否 しま した。

ところで秋は旅行の シーズン ですが、今月は管理人にとって旅行の予定が 三回あり、10月 2 日からは 40 年続く、学童集団疎開当時の小学校 六年の クラス 会 の旅行が伊勢志摩方面にあるなど留守が多く、今月は ブログ の休みが多くなります。

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