嫌な乗客、パート7
金野氏によれば飛行機に乗る楽しみとは、かつては下界の景色を見ることでした。何しろそれまで飛行機に乗ったことのある人など、ほんの一握りの国民でしたから。米軍による占領期間中は日本人が空を飛ぶことを禁止されていましたが、昭和27年(1952年)の講和条約発効と共に航空が再開され、日本人も空を飛べる時代となり、旅客を運ぶ航空会社だけでなく、遊覧飛行をする航空会社も誕生しました。
飛行場で遊覧飛行客が来るのを待つだけでなく、各地で遊覧飛行客を募集し、一定の数になると自衛隊や民間の飛行場を使用して一回二十分から三十分程度の遊覧飛行をしました。また商店街の大売り出しの一等の景品として、遊覧飛行の切符が出されたこともありました。ちなみに敗戦後日本で開発した旅客機 YSー11 の窓の位置が下方にあるのは、下界がよく見えるようにとの親心からでしたが(?)、身長170 センチ 以上の人には窓が低すぎて、水平線が見え難い窓の位置だったそうです。
平成13年(2001年)9月11日に ニューヨーク の WTC ( ワールド・トレード・センター)で起きた自爆 テロ の際には、CNN・ニュース が最初に伝えたことは、飛行機事故が起きたという ニュースでした。その映像を最初に見た金野氏は、奥さんに 「これはおかしい」 と言ったそうです。これまで飛行機が山や建物に衝突した事故の多くは機体の故障か、雲や霧で飛行機の位置が分からなくなったのが原因でした。写真はクリックで拡大。
ところが事故当日の天候は、航空用語で 「 カブ・オウケイ 」 CAV・OK、Ceiling And Visibility OK ( 雲高、視程が良好 )の状態であり、上空は青空だったので旅客機の パイロット が気でも狂わない限り、 ワールド・トレード・センター ( WTC ) の ビル に、真っ直ぐ衝突するはずがないと思ったからでした。
それに マンハッタン から最も近い距離にあり、主に国内線の飛行機が使用する ラ・ガーディア( La Guardia )空港や、遠くにあり 主に国際線用の J F K 、ケネディー空港 の離着陸時の飛行コースから WTC は本来離れていたからです。その後になって、二機目が突っ込み テロ だったことを知りました。写真は ラ・ガーディア空港。
自爆 テロ ではなく飛行機を利用して乗客が自殺したり、あるいは自殺しようとした例が日本にもありました。
昭和40年(1965年)当時、大阪府の八尾空港に縄文航空の飛行訓練所がありましたが、自衛隊から転職した金野氏は、そこで民間機の機長になるための ライセンス( 定期運送用操縦士技能証明書 )を取る為に、飛行訓練を受けたそうです。
写真の下部に 7 4 6 とあるのは、日本で 7 4 6 番目の機長用 ライセンス の意味だと聞きました。ところでその当時、訓練所の職員の中に 顔一面に ヤケド の跡が残る、A 氏が勤務していました。
記録によれば昭和29年(1954年)2月21日、大阪府 中河内郡上空を飛行中の極東航空の大阪 一周遊覧飛行中の 「 オースター・オートカー 」 の機内で、遊覧客の岡山市中島田町の無職 斎藤某(26才)が、 マグネシウム など薬品を使い放火しました。
機内は火に包まれましたが、パイロット は燃える飛行機を操縦して、かろうじて田んぼに不時着させました。放火犯人は機内で焼死し、操縦士と機関士が重傷を負いましたが、A 氏はその時の パイロット だったのです。放火犯人は百万円の保険に入ったばかりでしたが、保険金がもらえたかどうか不明です。写真はイギリス製の オースター・オートカー。