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2007年4月25日 (水)

ケータリング( Catering )

Mealcart ケータリングとは機内食の製造調理、機内サービス用品の搭載、取りおろし業務のことですが、成田にある縄文航空の子会社である ANAC ( アナック )では縄文航空を初め他の外国航空会社の分を含めて、一日に最大 一万八千食を提供する能力があるそうです。写真は トレイに載せた食事を入れた ミールカート (Meal cart )、写真は クリックで拡大。

Fooodtrack 調理された何百人分もの食事を ミールカート に入れて、指定された便の飛行機に、指定された時刻に搭載しますが、その際に使用するのが二階の高さまでとどく フード トラック ( Food truck ) で、もちろん冷蔵能力があります。

Count 出発前にする チーフパーサーの重要な仕事の 一つが食事の数の確認で、足りなければ直ぐに追加注文をして、時には出発を遅らせてでも必要な数の食事を搭載させます。動物でも人間でも空腹がもたらすものは、必然的に 「怒り」ですから。

多くの航空会社がほぼ同じ性能の飛行機を使用して、同じ ルート を同じ時間でお客を運ぶとなると、いかにしてより多くの乗客を自社の飛行機に乗ってもらうかが重要な問題ですが、その際にものをいうのが スチュワー「デス」による機内の サービスと、提供する食事の質です

金野氏から聞いた話によれば、縄文航空では以前は エコノミークラスから ファーストクラスまで、二種類の食事 メニューからの選択でしたが、最近の ファーストクラス では三種類からの選択になったそうです。事前の予約状況、客層、往きか日本への フライト か、などにより食事の種類と数を予測し、ケータリング (機内食製造)会社に注文しますが、ウワサによればその単価は、ファーストクラスの食事では一食当たり 2.5万円~3万円だそうです。

成田-ニューヨーク、成田ーロンドンのように往復で百数十万円の高額料金を支払って下さる( 身 ゼニの意味では無い ) ファーストクラスのお客様が和食を希望されたのに、和食はもう品切れになりましたとは口が裂けても 「デス」 はいえません。

Kyabia1 そこで無駄を承知で機内食を余分に積むので、必ず高価な和食や フルコース の洋食が残りますが、成田に到着すれば規則に従い残飯(?)としてすべて焼却処分にされます。どおせ捨てるのであればもったいないので、スチュワーデスや操縦室の男たちは エコノミー食とほぼ同じの乗組員用の食事を食べる代わりに、 フルコースの食事の 「残り物(?)」 を味わうのだそうです。世界の珍味 キャビア をお茶漬けにしてとか フォアグラなどを----。黄色の円内はキャビア。

Bclass ちなみに ファーストクラスの和食ともなれば、御飯は プラスチックの容器に予め盛りつけてあるのではなく、瀬戸物のお茶碗にその都度  「デス」 がよそって サービスしますし、汁もお椀で出されます。料理は縄文航空の ホテルの料理長が書いた レシピ、に従って作られたものだそうです。写真は ファーストクラスではなく、ビジネスクラスの和食。

2007年4月19日 (木)

飛行機雲

Contrail0 飛行機雲を初めて見たのは62年前の、昭和20年(1945年)のことでした。当時米軍機の空襲を避ける為に、東京から長野県の山奥の寺へ学童集団疎開をしていましたが、気象観測や写真撮影などのために単機で飛ぶB-29爆撃機がやってきました。写真はクリックで拡大。

B29 日本の戦闘機がその高度まで飛べず、高射砲の弾もとどかない高度七千~八千メートルの高空を、飛行機雲を引きながらゆうゆうと飛ぶ B-29 爆撃機を見ると、子供心にも日本と アメリカの技術力の格差を思い知らされました。                           

金野氏によれば、昭和20年代の気象の本には成層圏について、以下のような説明がありました。高空に行くにつれて気温が低下するものの、ある高度に達すると マイナス45度の一定の値になり、そこでは気流の乱れも無くそれを成層圏と呼ぶのだそうです。つまり戦時中はもちろんのことその当時まで、日本人では誰も成層圏を飛んだ者がいなかったので、気象学の本にもそのような誤りが堂々と書いてあったとのことでした。

ところが後に ロンドン、モスクワなどの国際線を飛んだ金野氏の話によれば、マイナス 45度どころか冬季のシベリア大陸の上空、高度一万メートルでは マイナス 70度近くまでも気温が下がり、空気と翼の摩擦熱による翼の温度上昇があるものの、タンク内の燃料の凍結が心配になったそうです。 ちなみに スペースシャトル が大気圏に突入する際の空気との摩擦による温度上昇は、1,400度に達しますが、巡航中の ジェット旅客機の速度では、せいぜい15~20度上昇する程度だそうです。

Cont3 飛行機雲のことを コントレールといいますが、正確には Condensation trail( 凝結の航跡 )だそうです。自分の機体が飛行機雲を引いているかどうかは操縦席では分かりませんが、航空路ですれ違う他機や、先行機が飛行機雲を引いていれば、自分も引いているものと推測します。太陽との位置関係によっては地面や水面に自機の影が映るので、飛行機雲を引いていればその影も見えるそうです。

金野氏から聞いたところによれば、飛行機雲の発生条件としては

1:気温が、 マイナス35~40度C よりも低いこと。
2:大気中に水分が含まれていること。

Cont1 だそうです。飛行機雲の発生原理とは、過冷却 ( 零度C 以下でも水分が凍らない ) の状態にある高空の大気を エンジンでかく乱するため、排気ガスに含まれる一酸化炭素(CO)、窒素酸化物(NXO)、炭化水素(HC)の微粒子などが、凝結する際の核、つまり飛行機雲の 「 タネ 」 になり、大気中の水分が急速に凝結し雲を形成します。しかし上空の大気が乾燥していれば飛行機雲はでき難く、湿潤状態であればでき易くなります。

Contrail5 逆にいえば、飛行機雲が長時間消えなければ、湿った空気が上空にある証拠なので天気は下り坂であり、その反対に飛行機雲ができなければ、空気が乾燥している為に好天が続きます。そして短時間に飛行機雲が消えれば、明日の天気は晴れるとのことでした。

2007年4月14日 (土)

笑顔も訓練の成果

Desu2 改革開放以前の中国では笑顔が全く無かった話をしましたが、今度は日本の話です。
どこの航空会社でも スチュワー「デス」 の訓練生達が、笑顔の訓練を受けることを皆さんはご存じですか?。新人 「デス」 はお客に対して、笑顔で接することがなかなかできないからです。写真はクリックで拡大。

百 パーセント初対面のお客様である ビジネスマン、ビジネスウーマン、気難しそうなお爺ちゃん、お婆ちゃん、若いお客様に対して、どうしても笑顔ではなく、「堅い笑い顔」になってしまうのだそうです。記念写真や見合い写真(死語かな?)などを撮る際に、自然な笑顔ができずに写真写りが悪くなる人はいませんか?。昔は集団写真の際にチーズを発音するように言われたものですが。

今では スチュワーデスの採用試験に備えて美容整形をしたり、受験票に貼る写真にさえ、五~十万円も カネ を掛けて美人に修正した写真を提出する受験生が多いそうです。金野氏によれば会社側もその辺は十分承知しているようで、写真による選考はしなくなったそうです。

Desu1 「男は度胸、女は愛嬌」という言葉がありますが、愛嬌とは表情や言動が愛らしく、人好きのすることです。最近では スチュワーデスに限らず男性も女性も、ビジネス・パートナーに好印象を与える為に、日頃から積極的に笑顔の訓練をする時代なのだそうです。

金野氏は笑顔の講習を受けたことが無いので、詳しいことは分かりませんが、笑顔の コツとは

[その一]
緊張せずに人に接することだそうです。初対面の人に接する場合には、とかく緊張し勝ちですが、緊張がもたらすものは必然的に顔の筋肉の硬直であり、その結果は堅い表情になり、お世辞にも愛嬌がある人とはいわれなくなります。緊張は笑顔の大敵となると、これは精神科医の守備範囲になりそうです。

[その二]、
専門家によれば顔には表情を作りだすのに必要な筋肉は三十種類以上もあり、複雑に関連し合っていますが、それを総称して表情筋と呼ぶのだそうです。その筋肉を意識して鍛えることにより、すてきな笑顔を作れるのだそうです。笑顔の訓練とは鏡を見ながら顔の表情筋を動かして訓練し、顔の筋肉を鍛えることでより良い笑顔をしかも自然に作ることができるといわれています。

[顔が疲れる]
Desu3 ある時金野氏は乗客の降機終了後の機内で、チーフパーサーの姿美子(すがたよしこ)デスが顔の筋肉を揉みほぐしているのを目にしました。彼女曰く「顔が疲れました」
考えて見て下さい機内の二箇所の ドアーから仮に三百人の乗客が乗り降りする度に、営業用の笑顔をしながら「いらっしゃいませ」、「ありがとうございました」を一日四便繰り返すとしたら、 三百人÷2箇所×2回(往復)×4便=千二百回

つまり チーフパーサーの姿美子 デスは、千二百回も顔の表情筋を意識的に動かしたので、顔が疲れたのも無理からぬことでした。

2007年4月 8日 (日)

空姐(コンジェ)の訓練

昭和40年代末期に中国民航が国際線に進出しましたが、その後に縄文航空で中国民航のスチュワーデスの訓練をしたことがありました。その理由は共産主義国家における長年の社会習慣から、女性服務員 ( スチュワーデス ) にとって接客に必要な サービス 精神の欠如を、外国人乗客に指摘されたからでした。このままでは外国人乗客が乗らなくなる、と思ったからでしょう。

金野氏が初めて北京に行ったのは、昭和 52年(1977年)のことでした。その当時は文化大革命が終了し毛沢東が死亡 (1976年)した直後でしたが、鄧小平(とうしょうへい)主導による改革開放政策がおこなわれる前のため、中国社会は貧しくてひどい状態でした。男も女も人民帽を被り服は紺色かネズミ色のだぶだぶの人民服で、遠くから見ると男女の区別が分からず、背の高さの違いで見分けるほどでした。

Beijinhel 共産主義の国では サービス精神というものが基本的に存在しないので、我々にとってはこの上もなく不便で不愉快なものでした。当時北京で最高級の北京飯店 (国営のホテル)でさえも、レストランに食事に行くと ウエ-トレス達は、客が呼んでも無視して仲間同士の雑談に耽り注文を聞きに来ず、ようやく来た仏頂面で横柄な態度の ウエ-トレスに注文を聞いてもらい、食事をさせてもらう状態でした。

彼女たちにとってお客とは、仲間同士の雑談を妨害する不届き者でしたが、生ぬるい食後の コーヒーを飲まされたあげく、彼女達の給料の半月分に相当し、当時の我々にとってもやや高い 二千五百円程度を夕食代に支払ったものでした。しかしその当時 レストランに入ってから最初の料理が運ばれるまで、一時間も待たされた モスクワの ホテルよりも未だ マシ でした。

どんなに勤務態度が悪くても解雇されない。しかも上司による勤務評定も無い。さらに同一労働同一賃金の原則から仕事に努力しても、怠けていても貰う給料は皆同じ。という日教組の主張とそっくり同じの、共産主義国家における労働の制度的欠陥によるものでした。

そういう考え方の中国人女性達を教育した、縄文航空の客室訓練係もさぞ大変だった事でしょう。ホテルのウエートレスやスチュワーデスの勤務態度だけでなく、その当時中国民航機の出発や到着がどれほど遅れても、乗客には一切説明をしないので有名でしたが、飛行機に乗せてもらうだけでもありがたく思え、という会社の方針からでした。

Shuugou1 それから三十年後のこと、最近では日本と同じように中国にも、スチュワーデスの養成を目的とした学校が初めて誕生しました。中国の南昌にある航空工学学院に中国語で 空姐 (コンジェ)という スチュワーデスの空中乗務科 が開設されましたが、今後ますます需要が伸びるスチュワーデスの養成に当たるのだそうです。写真はクリックで拡大。

Shuugou2 かつての中国では現在の北朝鮮と同様に、公務員である女性従業員たちは客に笑顔を見せると自分が損でもするように、笑顔を絶対に見せないので有名でしたが、この写真を見ると女性達の表情も明るく豊かになり、資本主義国並になりました。

2007年4月 1日 (日)

ヘリの事故に思う

Heritokunoshima 那覇市にある陸上自衛隊所属のヘリコプター、C H-47が徳之島の山に衝突し、乗員四名全員が死亡するという事故が起きました。

徳之島の病院から鹿児島県を通じて、急患を沖縄県の病院に輸送してほしいという要請を受け、3月30日の午後9時50分ごろ沖縄那覇空港を離陸し徳之島に向かいました。

当初の計画では東部の徳之島総合グラウンドに着陸する予定でしたが、視界不良のため行き先を島北西部の徳之島空港に変更しました。到着する前に墜落しましたが、恐らく天候不良のため、飛行中に周囲を雲に囲まれ視界を失い山に衝突したと思います。写真はクリックで拡大。

墜落した自衛隊 ヘリで搬送される予定だった徳之島の七十代の女性患者は、翌日午前9時54分 鹿児島県鹿屋市自衛隊第一航空群司令部のUH60J ヘリで那覇空港に搬送されました。受け入れた南部徳州会病院によると、「一時、脈が弱くなったようだが現在は安定している。」と回答があったそうです。
 
Chinookch47 ヘリの機長の建村3等陸佐(54才)は4,850時間の飛行時間を持ち、定年退職する前の最後の フライトだったといわれていますが、お気の毒なことでした。

CHー47は愛称を チヌークといい1961年(昭和36年)に初飛行の、双発 ツインローターの全天候大型輸送 ヘリで、兵員、弾薬、物資の輸送、傷病者の輸送などに使用されてきましたが、設計から40年以上経過という古さを補う為に、新型 レーダーや、衛星利用測位 システム( GPS )などの航法装置を備えていました。

ところで昭和 35 年の冬のこと海上自衛隊大湊基地所属の 救難 ヘリコプターが、今回と同様に急病患者を輸送するため基地を離陸しましたが、吹雪に阻まれて目的地に到達出来ずに、基地に戻る途中に エンジン の故障(おそらく気化器の凍結)により、海岸から 200 メートル沖合いに不時着水しました。

乗員達はそこから泳いで海岸に向かう途中に、冷たい海水により体温が低下し、岸に泳ぎ着いた後に四名全員が死亡した事故がありました。

Parasit_01 老婆の命を救う為に妻子ある有能な隊員四名の生命が失われましたが、その急患とは腹痛の患者で実は痛みの激しい胆石や、急性盲腸炎でもなく、当時の農村に多かった回虫による一時的な腹痛でした。

ところが自衛隊 ヘリ の出動要請をした村の代表者も 寄生虫持ちの ババア の家族 誰一人殉職隊員の合同葬儀へ焼香に来なかったというので 、自衛隊員たちは憤慨していました。

今回の第101飛行隊は、鹿児島県 ・ 奄美諸島から日本最西端の沖縄県 ・ 与那国島までの離島の急患輸送を担当していて、年間に約 300 回の出動があり、昭和 47年の部隊発足以降、これまでに 約 7,600 人 の患者を運んだそうですが、沖縄県人は自衛隊員に、はたして感謝しているのでしょうか?。

私は戦争被害者意識の強い沖縄県人に言いたいのです

「 沖縄における地上戦での県民死亡者数以上の人々が、広島、長崎の原爆や昭和  20 年 ( 1945 年 ) 3 月 10 日、4 月 13 日の東京大空襲で死んだことを知っているのか?。戦争の犠牲者は沖縄県人だけではないぞ 」 と

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