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2007年5月29日 (火)

6,352人対、726人

この数字が何を意味するのか分かりますか?。実はどちらも事故による、年間の死者の数です。

Yaketakuruma 警察庁の統計によれば平成18年度の交通事故による死者の数 (24時間以内に死亡)は、6,352人で、最悪だった昭和45年 (1970年)の 16,765人に比べると、約 38 パーセントまで減少しました。減ったというものの一日平均では、17.4人が交通事故で死亡しています。

ところで昭和25年 (1950年)から平成12年 (2000年)までの 50年間に、世界の民間航空機の事故は 453件でしたが、このうち日本で起きた事故は 19件でした。
世界の航空機事故における死者の数は 36,307人で、一事故当たりの死者は 80人、年平均にすると 726人になりますが、日本における交通事故の死者はこの 8.7倍になります。

Tenerife1 これまで最悪の死者を出した航空機事故は、昭和52年 (1977年)に、大西洋上の カナリヤ 諸島の サンタクルス・デ・テネリフェ 島 (スペイン領)にある、テネリフェ ( Tenerife )空港で起きた二機の ジャンボ機の衝突事故でした。写真はクリックで拡大。

濃霧の滑走路上をゆっくり走っていた パンナム航空の ジャンボ・ジェット機に、KLM オランダ航空の ジャンボ機が離陸許可を受けずに離陸を開始したために、二機が滑走路上で衝突して 577名が死亡し、後に重傷患者が死亡したために、死者の合計は 583名になりました。

Tenerife2 KLM の パイロットは濃霧の為に滑走路上にいた ジャンボを視認できず、管制官の指示を聞き逃したのでした。御巣鷹山の事故は死者の数では二番目でしたが、単独機による事故では世界一でした。

航空機の事故率については世界共通の基準がありますが、それの最近の数字は

1:輸送実績 1億人/キロ 当たりの死亡乗客数、0.04人
2:10 万飛行時間当たりの死亡事故件数は、0.07件です。

分かり易いように具体的な例に置き換えてみますと、
「1」 について成田と ニューヨーク間、6,737 マイル (12,475 キロ)を計算し易いように 1万 キロと仮定すると、12万5千回往復すると死亡事故に遭うことになります。
「2」 については、サンフランシスコ から成田までの飛行時間の10時間を、14万3千回往復して死亡事故に遭遇する確率になります。

しかしこの数字にだまされてはいけません。以前の ブログで述べた御巣鷹山事故の際には 四系統もあった ジャンボ機の油圧システムが全部不作動になりましたが、その事態が起きる確率は、昭和 60年当時の世界では、562機の ジャンボ 機が年間 194万時間飛行していたので、 515年に一度起きる計算でした。ところが 515年どころか、ジャンボ 機の初飛行から僅か 15年しか経たない内に、四系統の油圧が全部失われ操縦不能から墜落し、520名の死者を出しました。

参考までに自家用車の油圧 ブレーキ は通常 一系統ですが、高級車になると独立した 二系統になり、どちらか 一方の ブレーキ系統が故障しても、ブレーキが利かなくなることはありません。

民間航空機の事故は航空技術の進歩、訓練方法の改善により確実に減少してきましたが、その一方で機材の大型化に伴い、一旦事故が起きると犠牲者の数は増大します。当初の引き渡しが大幅に遅れている エアバス社の 380 型機は 総二階建ての機体ですが、全て エコノミー 席にした場合には 800人も乗りますが、事故が起きたら大変です。

2007年5月24日 (木)

記念撮影

Md11cockpit 新聞報道によれば日本航空の機長(45)が去年12月、ロンドン関西空港間のフライトで、スチュワー「デス」 (28)を機長席に座らせて記念撮影をした問題で、国土交通省は22日にこの機長を航空業務停止 20日とする行政処分を行いました。写真はクリックで拡大。

日航によると、機長はこの問題が発覚した後から乗務を外れており、先月24日付けで停職 45日の社内処分を受け、副操縦士(35)も機長の行為を結果的に黙認したとして、同省から文書による警告を受けているそうです。

以下は金野氏から聞いた話です。「デス」 に記念撮影をさせたことの是非はさておき、正義の味方のような顔をして裁く 国交省 ( 旧運輸省もその一つ) の航空局の役人達が、これまでどれほど カネ に汚い行為をして来たかを、金野氏は嫌になるほど見てきた のだそうです。

Kabuyuu 航空局の役人が海外出張を命じられると、航空会社に 五割引きの航空券を要求してきました。国家公務員旅費規程に従い、公務員の下っ端でも  ビジネス・クラス が利用できるので、五割引の航空券を航空会社からせしめることにより、例えば東京から ニューヨク や ワシントン DC まで、往復運賃 60万円の半額の 30万円を、自分の懐に入れることができたのです。写真は国内線用の、五割引きの株主優待券。

それで済むのであれば まだ可愛い のですが、厚かましい 奴になると、ファーストクラスへの 「 アップグレード (上のクラスへの座席変更) 」 を要求しました。つまり半額の料金で ビジネスクラスに搭乗し、カネ 稼ぎをするだけでなく、ファーストクラスへ乗せろと要求したのです。もし断れば霞ヶ関界隈の評価では政策官庁ではなく、許認可が仕事の三流官庁といわれた旧運輸省が持つ、俗に 三万とも 四万件とも言われた許認可権限に基づく、事務手続き( たとえば当時は毎月の、時刻表さえも認可の対象 ) の意図的な遅延などの嫌がらせや、航空行政上の不利な取り扱いが待っていたのです。

「江戸の仇を長崎で討つ」 のを 得意技とする連中 なので、無理難題に応じざるを得ませんでした。

Wakamizu 兵庫県にある宝塚市の中心を流れる武庫川のほとりに宝塚温泉 「 ホテル若水 」 がありますが、阪神大震災で被害を受ける以前は、芸者が出入りした大きな日本旅館でした。 ここはその昔、航空局の試験官の定宿でしたが、ズル賢い彼等は宿泊、遊興費代の一部として僅か 二千円を支払って領収書を貰い支払実績とし、残りの飲み代、芸者の泊まり代 はすべて航空会社へ ツケ を回してきました.。

昔から役人の接待とは、(酒を)飲ませる、(女性を)抱かせる、(カネを)握らせると世間では言いましたが、金野氏によればその多くは、腐敗堕落した役人の側が要求したから起きたのだそうです。写真は ホテル若水。

その当時、大阪空港の南側に隣接して新明和工業という飛行機整備会社があり、そこで縄文航空が使用していた飛行機である、 F-27 フレンドシップ の オーバーホール整備をしていました。ある時 オーバーホール終了後の機体について、運輸省航空局検査課による 耐空性検査飛行の パイロットを命じられました。

F27friendship テスト飛行の打ち合わせを検査課の検査官とすると、驚いたことに機体の重さを最大着陸重量にして離陸してもらいますからといわれました。前例の無い異常な要求でしたがやむなく指示に従い、燃料を満タンに積むだけではなく、何トンもの重量物を機内に均等に積み込む作業が必要になりました。その為に出発が一時間近くも遅れ、新明和工業の作業員は汗だくになりました。

テスト飛行終了後に新明和の整備担当者に検査官の理不尽な要求の件を聞くと、昨夜 北の新地( 大阪以外の人に説明しますと、高級なクラブや、バーがひしめき合う場所 )で検査官を接待して何軒も ハシゴ したのだそうです。ところが彼が知っている店に更に行こうと言いましたが、夜12時をかなり過ぎていたので、明日の フライト もある為、 ホテル に帰りましょうといったのが検査官の気に障り、翌日の検査で仕返しをされた とのことでした。

監督官庁の検査官という権力者の立場にある彼の意志に逆らえば、どんな事態になるのかを、民間会社で働く 身分の賤しい者ども に思い知らせたのでした。次回の接待からは彼の知っている店を含めて、検査官が行きたい店には、たとえ夜明けになるまでも行けるようになったはずです。

2007年5月19日 (土)

警察の腰抜け

Keikanyusou 愛知県、長久手町で起きた暴力団員による人質立て籠もり事件をテレビで見て、警察の対応の 「ふがいなさ」に呆れたのは、私だけではなかったと思います。
ピストルの発砲により負傷者が出ていて、しかも撃たれた現場に倒れたままの警官を射殺するぞと脅されて、五時間もその場に放置したまま見守っていたからです。写真は パトカーの先導で撃たれた警官を運ぶ救急車。

翌日まで 29 時間も現場附近を封鎖し、その為に学校、大学が休校になりましたが、警察の対応とはひたすら犯人に対する説得を続けるのみでした。まさに平和 ボケ した日本に相応しい警察の対応でしたが、死者が出てからも、人質が自力で脱出したあとも、犯人に対する マヌケ な警察の説得は続けられました。

Hitojichi これほどまでに殺人犯の人権に配慮する必要が、どこにあったのでしょうか?。警察幹部の腹が据わらず、ひたすら失点を恐れて安易な説得に頼り、自分が全責任を負う心構えが存在しなかったからだと思いました。
これが アメリカ であれば死傷者が出た段階で、人質の安全よりも 「社会の利益、安全」 を優先させ、室内に催涙弾を打ち込み、苦しくなった犯人が武器を捨てて出て来て、投降の意志を示さなければ、直ちに射殺して 29 時間も要せずに解決したことでしょう。

警察に密着取材 24 時などと称する「警察もの テレビ」を見ると、町で酔っぱらいに絡まれたり、繁華街での若者同士の喧嘩の仲裁に入った警官が、彼等からこづき回されたり、罵詈雑言を浴びせられたりしていました。そういう場合アメリカでは警官の身体に触れただけでも、物理的に抵抗したとみなされ公務執行妨害罪で逮捕され、面と向かい悪口を言えば、警官を侮辱したとして逮捕されるのが当たり前です。

プロ野球の審判が持つ選手監督に対する退場命令権は アメリカからの直輸入ですが、社会の治安維持を担当する警官が、プロ野球の審判よりも権限が無くても良いのでしょうか?。

パトカーが盗難車両を発見し、赤色灯を点灯し サイレンを鳴らして追跡中に盗難車が事故を起こすと、バカ な マスコミ は必ず警察を非難するし、武器を持って抵抗する犯人逮捕の際に警官が発砲すれば、それが妥当であったのか?などと、必ず疑問視するのが偏向 マスコミの習慣です。 今回の事件を見た限り、近隣諸国(?)からやって来るかもしれない テロ の犯人に対して、警察は到底対抗できないことを感じました。それは警察官の命を守る装備の不備だけでなく、警察首脳部の危機管理能力の欠如であり、具体的には優柔不断、自己保身の為の事なかれ主義によるものです。

2007年5月14日 (月)

国による習慣、制度の違い

エキスポランドのジェットコースターの事故で死亡した女性の葬儀の際に、焼香に訪れた社長が焼香を拒否されていた映像をテレビで見ました。去年起きた  シンドラー社のエレベーター事故で高校生の死亡事故が起きましたが、当初会社は高圧的な態度でしたが、今後日本で シンドラー製の エレベーターが一台も売れなくなると言われ、二十日後に副社長が謝罪に訪れました。

Osu1 昭和60年(1985年)8月12日に 520人が死亡した J A L の御巣鷹山の事故では、運輸省からの天下り社長ではなく、社内から初めて(?)社長になった高木某は、犠牲となった遺族の家を一軒一軒 弔問に訪れたといわれています。 当時縄文航空にいた金野氏から聞いた話によれば、外人の乗員たちの意見として 「そんなことをする必要は全くない」 とのことでした。

Osutaka3 123便の犠牲者一人一人に J A L では御遺族さま係りと称して社員を張り付けて、示談交渉などの対応に当たらせましたが、金野氏の同級生も運悪く指名されてひどい目に遭ったそうです。御巣鷹山に登る際には登山靴を買いに行かされ、山では御遺族さまの リュック を担がされたと言っていました。大阪では J A L の女性管理職が会社と御遺族さまとの板挟みで、自殺しました。

外国における事故の場合はどうなるのかご存じですか?。事故処理は全てその国の弁護士任せにして、社長や御遺族さま係りなどが出向き、謝罪することはありません。国際条約、国際協定などに基づきその国の損害賠償制度の下で損害賠償額を決めますが、殆どの場合会社と被害者双方の弁護士同士の話合いにより解決します。
たとえば以下の例がありました。

1:オーストラリアへの移住のため、数組の英国人家族が搭乗していて全員死亡した航空事故のケースでは、英国法上、損害賠償額はゼロでした。

2:フランスの航空会社に勤務する27才の独身女性のケースでは、フランス法上、賠償金として家族に葬儀代が支払われただけでした。

3:30才 のドイツ人の独身男性技師のケースでは、ドイツ法上、葬儀代が支払われただけでした。

つまり欧米諸国、特に ヨーロッパ における賠償制度では、原則として被害者が生存している場合にはそれなりの賠償が受けられますが、死亡した場合には現実に経済的損失を受けた者に、その損害の範囲内で賠償することになっています。つまり第三者である遺族に対する慰謝料など、あり得ないということです。このことから日本人が外国で事故に遭った場合には、「逸失利益の算定並びに遺族が受け取る補償額」が、大幅に減額される可能性を予測しなければなりません。

J A L の事故では十七人(?)の外国人の死者がいましたが、会社が旅費やホテル代を負担するからといっても、遺体に会っても意味がないとして来日せず、遺骨は不要なので適当に処分してほしいと言われたそうです。結局来日して遺骨を引き取ったのは台湾人の遺族一人のみでした。

ウワサによると御巣鷹山の事故では、墜落に至る三十分間の迷走の際に犠牲者が味わった恐怖の代償も、遺族に対する慰謝料(?)に算入して、一人当たり八千万円を遺族に支払ったとかいわれていましたが、あくまでもウワサの範囲です。

以上のことから海外旅行に行くのであれば、十分な額の旅行保険を掛けて、日系の航空会社に乗ることを強くお奨めします。独身の息子や娘が事故死しても、親は 「 直接の経済的損失を受けた者 」 とは認定されませんから

2007年5月 9日 (水)

金属疲労の恐ろしさ

Commet 大阪吹田市にあるエキスポランドの ジェットコースターの死傷事故は、車軸の金属疲労に原因を求める説がありますが、航空界でもその昔、金属疲労が原因で大事故が連続しました。

英国の デ・ハビランド社が製造し、昭和24年(1949年)に初飛行した、世界初の ジェット旅客機である コメットは、当時の英国海外航空 (B O A C)が国の威信の象徴として、意気揚々と運航していました。ところがその後、飛行中に原因不明の墜落事故が

1:昭和28年(1953年)5月
2:昭和29年(1954年)1月
3:昭和29年(1954年)4月

と三件も連続して起きてしまい、英国の威信は大きく傷付きました。

Watert 英国政府は調査団を発足させ コメットの機体を水槽に沈めて、飛行中に加えられる五年分の ストレス ( Stress、応力) に相当する、胴体の加圧、減圧実験をおこなったところ、最も弱い窓枠に亀裂が発生し、急速に拡大する現象が起きました。事故原因は胴体部分の設計強度の不足により、与圧、減圧が繰り返された結果、窓枠に金属疲労が生じて破壊されたのでした。写真は水槽実験の様子。

ジェット旅客機が飛ぶ 一万メートルの高空では、気圧が地上の三分の一程度になりますが、乗客の高山病( 低酸素症 ) を防ぐために、客室内部を地上の気圧に近い 0.8 気圧程度に与圧します。機体は高空では低い気圧との差によって、胴体が膨張し、地上に降下する際には、逆に地上付近の高い気圧によって圧縮する力が加えられます。つまり機体は常に膨張、圧縮により変形する、 「繰り返し応力」 を受けています。

Alohab 昭和 63年(1988年)に ハワイの マウイ島上空を飛行中の、アロハ航空の ボーイング737型機の屋根が吹き飛び、座席 ベルトをしていなかった スチュワーデス 1名が、空中に吸い出される事故がありました。

ジェット旅客機の経済設計寿命 ( 耐用年数ではなく、整備 コストの大幅な増加をせずに飛べる期間 ) は一般に 二十年といわれていて、離着陸回数の目安としては約 6万回です。アロハ航空の機体は製造後十九年でしたが、離着陸回数は 8万9千回を超えていました。

飛行距離の短い ハワイの島々を専門に飛び回り、その中には飛行時間が僅か 十四分というのもありました。私も十四分のコースに乗ったことがありますが、極めて短い フライトでも、スチュワー「デス」が飲み物を サービスをするのには驚きました。座席に座ると地上にいる間に飲み物を配り始め、紙 コップの回収は着陸直前に 「デス」が大きな ゴミ 袋を持って早足で通路を歩き、乗客がそこに コップを投げ入れました。

飛行機が気流の悪い所を飛ぶと、主翼が上下に 「羽ばたく」 のを見ることができますが、多量の燃料を主翼内の タンクに積み機体が重い長距離 の フライトでは、それを空中で支える翼は大きく上方に 「たわみ」、飛行中に燃料を消費するにつれて機体が軽くなると、翼の 「たわみ」 も少なくなります。翼端におけるその差は 1 メートル以上にもなるので、長距離を飛ぶ際には客室の窓から、翼端の水平線との見え具合の変化に気が付きます。

Window2 コメット の事故経験から、機体の開口部 (窓や出入り口の ドア ) の四隅は直角にするのではなく、丸みを持たせることにより、応力 (ストレス、Stress ) の集中を避け、分散させる方法が、広く航空機 メーカーで採用されるようになりました。写真にある窓の四隅のまるみに注目。

デ・ハビランド社は事故により一時 コメット の耐空証明(安全に飛行できる機体であることの証明書)が取り消されたこともあって、経営が悪化し昭和34年(1959年)に他社に合併されました。

金属疲労は飛行機の胴体や屋根だけに限らず、主翼や車輪など、力 (応力)が掛かる場所であれば、どこでも発生するので注意が必要です。

2007年5月 6日 (日)

銭湯の番台と「デス」管

Bandai1 航空会社の男性社員にとって一度は座ってみたいものは、銭湯の番台と 「デス」管 だそうです。「デス」管については後で述べるとして、子供の頃に育った昭和十年代の東京の豊島区では、家に風呂のある家など私の家の近所には一軒しかなく、誰もが銭湯に行きました。写真は銭湯の番台で、男女脱衣所の仕切り扉が開いている状態、クリックで拡大。

学童集団疎開をした小学校六年当時の クラス会を、現在まで毎年定期的に続けていて四十年になりますが、その中に中学校の校長を勤めて退職した男がいました。

Yokusou1 彼によれば最近の中学生は同性同士でも裸を見られるのを嫌がるので、修学旅行の際には、男子も女子も旅館の男子用、女子用浴場で パンツを履いたままで入浴するのだそうです。その為の使い捨て パンツを宿泊に必要な枚数だけ、事前に学校で購入させるとのことでした。
浴室の脱衣所には ボリ製の ゴミ容器を置き、濡れた パンツをその中に毎回捨てるのだそうですが、各家庭には必ず風呂がある環境で育った世代の人達に、銭湯の番台などといっても意味が通じない人もいるので、敢えて説明します。

Itanoma1 銭湯に行くと入り口が男女別に分かれていますが、入るとすぐに番台と称する一段高い席があり、そこに座っている人に風呂代を支払います。番台に座る人の役目は風呂代の徴収と、昔は板の間稼ぎ の防犯でした。粗末な服を着て銭湯へ行き、早々に入浴を済ませると、帰りには金目になりそうな他人の服を着て、そ知らぬふりで出て行ったり、あるいは財布などの金品を盗む者がいました。一番上の写真で見る通り脱衣所の床は板の間なので、これを「板の間稼ぎ」と言いましたが、今では死語になりました。

Mirov 男性の脱衣所だけでなく壁で半分に仕切られた女性の脱衣所も見張る為に、ビーナスの女神像が見られるので、航空会社の男性社員ならずとも男性にとって、一生に一度は番台に座りたいものだとひそかに願っていました。写真は ミロ の ビーナス。

ところで スチュワー「デス」の客室乗務員管理課( デス管 )には デイリー・カウンター( Daily schedule counter )がありますが、「デス」の乗務 スケジュールの連絡、変更などの当直業務をしています。乗務のため出社してきた「デス」達が当直に「おはようございます」と挨拶して、出勤したことを示す印を当日の乗務編成表の名前に付けましたが、今では パソコンで入力します。

「デス管」とは脂粉の香り漂う何百人もの、容姿端麗(?)な「デス」から挨拶される仕事場で、独身男性にとっては嫁選びの候補者が山ほどいて選択に迷うほどだそうです。天候が悪化し フライト・スケジュールに遅れなどの混乱が生じた場合には、将棋の駒でも動かすように思いのままに「デス」の乗務割を変更し、「デス」が彼氏と デートの約束があろうが無かろうが、たとえ「デス」のお見合いの予定日が翌日であっても、私情を交えずに運航宿泊便への乗務を指名する喜び(?)を味わうことができます。

ウワサによれば 「むくつけき」 男も客室乗務管理課に配属になると、室内に充満する女性 ホルモン( フェロモン )の吸収過多のせいで、半年ほどで 「なよなよ」 としてしまい中性化するともいわれています。

ちなみに縄文航空所属の「デス」の数は、ロンドン、上海 などの海外基地の「外人デス」(イギリスだけでなく、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、中国などの多国籍集団)を含めて、約四千五百人(短期契約社員を含む)いるそうです。

外人「デス」は新人から訓練してようやく一人前に使えるようになると、その経歴を利用して 一ドルでも給料が高い航空会社があれば、すぐに ジョブ・ホッピング(転職)するのが普通です。日本で日本人「デス」を求人する外国航空会社でも、新人よりも即戦力になる「デス」の経験者を優先して雇うといわれています。

2007年5月 1日 (火)

乗り物の等級

太平洋戦争以前の鉄道省の列車(現在のJR)には、一等車、二等車、三等車の三区分がありましたが、概略の運賃としては 二等は三等の二倍、一等は三等の四倍でした。
Hirose 大阪では環状線の弁天町に交通科学博物館がありますが、東京では神田須田町( 旧中央線万世橋駅跡地 )に交通博物館( 旧鉄道博物館 )があり、その前の広場には日露戦争当時の旅順港封鎖作戦で戦死した軍神、広瀬中佐(と杉野兵曹長)の銅像が敗戦まで建っていました。写真はクリックで拡大。

Hakutaisha_1 子供の頃鉄道 マニア でしたので何度も訪れた鉄道博物館が、埼玉県 さいたま市に移転のため平成18年5月14日で閉館になるというので、その一ヶ月前に上京して訪れましたが、昔の一等車の車体には白い帯が、二等車には青い帯が、三等車には赤い帯が引いてありました。敗戦後に私が見た一等車の白帯の所には、進駐軍専用車と書かれていました。

ところで講和条約発効後の昭和27年(1952年)に運航を開始した日本航空では、外国からリースした中古の機体とノースウエスト航空の乗員による委託運航でしたが、 客室はモノクラス( Mono Class、単一 )制でした。その後昭和29年に国際線の運航を始めましたが、米人 パイロットによる運航で、後に ファーストクラスと コーチ( Coach、エコノミーと同じ )クラスの 二 クラス制になりました。

Sps1 昭和45年(1970年)に ジャンボジェット機が就航し航空大量輸送時代が始まると、国際線ではかつての列車の二等に相当する ビジネスクラスが誕生して、三クラス制になりましたが、国内線については昭和60年(1985年)11月に ANA が  スーパーシートを設定するまでは、なぜか モノクラス 制が続きました。その理由は戦後の左翼主義者たちが主張した「 悪平等の思想」 から、乗客に等級を付けるのはけしからんというので、青函連絡船(青森ー函館)を除き、列車の二等車も グリーン車 などと名称を変えていました。写真は ANA のスーパーシート の展示。

JAL の スーパーシートは ANA に遅れること四ヶ月で設定されましたが、今年の十月から JAL は国内線にも ファーストクラスを設定する予定です。現行の スーパーシート・プレミアム(東京ー大阪片道、25,000円)の料金に対して、いくらの上積み料金にするのか興味があるところです。

世界の航空界における最近の傾向としては ファーストクラス を設定しない航空会社が増えましたが、僅か十二名前後の乗客の為に、四人もの スチュワーデス を割り当てて手間が掛かる サービスをするよりも、その分を ビジネスクラスの座席に変更して稼いだ方が、採算上有利と判断した結果でした。

参考までに成田発着の航空会社では、ノースウエスト、コンチネンタル、デルタ、カンタス、エアーカナダ、ルフトハンザ、アエロフロートロシア航空などの主要航空会社には ファーストクラスの設定がなく、アリタリアの ヘルシンキ 行き、スカンジナビアの コペンハーゲン行きにも ファーストクラスの設定がありません。中国の各都市行きの便でファーストクラスがあるのは、唯一地元の中国国際航空( Air China )だけで、韓国のソウル行きでもファーストクラスがあるのは、大韓航空と北米から成田経由のユナイテッドだけです。

Economy さらに格安 チケット や団体旅行の ツアー料金の乗客と、正規の エコノミー料金を支払う客の座席を区別したり、あるいは ビジネスクラスと エコノミークラスの中間に、プレミアム・エコノミーとか エコノミー・プラスなどと称して少し高めの料金設定をする会社もあります。提供される食事は エコノミークラスと同じですが、座席の前後の間隔が少し広いのだそうです。写真は通常のエコノミー席。

Fullflat 聞くところによれば縄文航空では、 エコノミークラスの座席間隔は 86 センチ、ビジネスクラス では160 センチ、そして ファーストクラスでは 211 センチだそうです。
この数字を見るだけで各座席の快適性を容易に想像できますが、縄文航空の ファーストクラスでは カプセル状の独立した座席で、15 インチの モニター付き、完全水平( Full Flat )の状態で休むことが可能です。


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