乗り物の等級
太平洋戦争以前の鉄道省の列車(現在のJR)には、一等車、二等車、三等車の三区分がありましたが、概略の運賃としては 二等は三等の二倍、一等は三等の四倍でした。
大阪では環状線の弁天町に交通科学博物館がありますが、東京では神田須田町( 旧中央線万世橋駅跡地 )に交通博物館( 旧鉄道博物館 )があり、その前の広場には日露戦争当時の旅順港封鎖作戦で戦死した軍神、広瀬中佐(と杉野兵曹長)の銅像が敗戦まで建っていました。写真はクリックで拡大。
子供の頃鉄道 マニア でしたので何度も訪れた鉄道博物館が、埼玉県 さいたま市に移転のため平成18年5月14日で閉館になるというので、その一ヶ月前に上京して訪れましたが、昔の一等車の車体には白い帯が、二等車には青い帯が、三等車には赤い帯が引いてありました。敗戦後に私が見た一等車の白帯の所には、進駐軍専用車と書かれていました。
ところで講和条約発効後の昭和27年(1952年)に運航を開始した日本航空では、外国からリースした中古の機体とノースウエスト航空の乗員による委託運航でしたが、 客室はモノクラス( Mono Class、単一 )制でした。その後昭和29年に国際線の運航を始めましたが、米人 パイロットによる運航で、後に ファーストクラスと コーチ( Coach、エコノミーと同じ )クラスの 二 クラス制になりました。
昭和45年(1970年)に ジャンボジェット機が就航し航空大量輸送時代が始まると、国際線ではかつての列車の二等に相当する ビジネスクラスが誕生して、三クラス制になりましたが、国内線については昭和60年(1985年)11月に ANA が スーパーシートを設定するまでは、なぜか モノクラス 制が続きました。その理由は戦後の左翼主義者たちが主張した「 悪平等の思想」 から、乗客に等級を付けるのはけしからんというので、青函連絡船(青森ー函館)を除き、列車の二等車も グリーン車 などと名称を変えていました。写真は ANA のスーパーシート の展示。
JAL の スーパーシートは ANA に遅れること四ヶ月で設定されましたが、今年の十月から JAL は国内線にも ファーストクラスを設定する予定です。現行の スーパーシート・プレミアム(東京ー大阪片道、25,000円)の料金に対して、いくらの上積み料金にするのか興味があるところです。
世界の航空界における最近の傾向としては ファーストクラス を設定しない航空会社が増えましたが、僅か十二名前後の乗客の為に、四人もの スチュワーデス を割り当てて手間が掛かる サービスをするよりも、その分を ビジネスクラスの座席に変更して稼いだ方が、採算上有利と判断した結果でした。
参考までに成田発着の航空会社では、ノースウエスト、コンチネンタル、デルタ、カンタス、エアーカナダ、ルフトハンザ、アエロフロートロシア航空などの主要航空会社には ファーストクラスの設定がなく、アリタリアの ヘルシンキ 行き、スカンジナビアの コペンハーゲン行きにも ファーストクラスの設定がありません。中国の各都市行きの便でファーストクラスがあるのは、唯一地元の中国国際航空( Air China )だけで、韓国のソウル行きでもファーストクラスがあるのは、大韓航空と北米から成田経由のユナイテッドだけです。
さらに格安 チケット や団体旅行の ツアー料金の乗客と、正規の エコノミー料金を支払う客の座席を区別したり、あるいは ビジネスクラスと エコノミークラスの中間に、プレミアム・エコノミーとか エコノミー・プラスなどと称して少し高めの料金設定をする会社もあります。提供される食事は エコノミークラスと同じですが、座席の前後の間隔が少し広いのだそうです。写真は通常のエコノミー席。
聞くところによれば縄文航空では、 エコノミークラスの座席間隔は 86 センチ、ビジネスクラス では160 センチ、そして ファーストクラスでは 211 センチだそうです。
この数字を見るだけで各座席の快適性を容易に想像できますが、縄文航空の ファーストクラスでは カプセル状の独立した座席で、15 インチの モニター付き、完全水平( Full Flat )の状態で休むことが可能です。
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