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2007年7月26日 (木)

事故原因は英語力

Aviancajfk 平成2年(1990年)1月25日午後9時34分頃、南米 コロンビアの首都 ボゴタ ( Bogota ) にある エル・ドラド ( El Dorado、黄金郷 ) 国際空港から、メデリンを経由して ニューヨークに向かっていた アビアンカ ( Avianca ) 航空(本社:コロンビア、ボゴタ )の 52便 、ボーイング707が、ニューヨークの J・F・ケネディー空港に着陸進入中、空港の北約 24  キロメートルの 地点に、燃料切れのため墜落しました。

Avianca 事故機には運航乗務員 3名、客室乗務員 6名、乗客149名の計158名が搭乗していましたが、乗員 8名、乗客 65名の 73名が死亡し、81名が重傷を負い、4名が軽傷を負いました。墜落しても燃料タンクが空の状態でしたので、機体は爆発炎上せず、不幸中の幸いでした。

Avianca2 事故機は濃い霧のため、合計 77分間も空中で旋回を続けながら天候回復と着陸の順番待ちを続けました。その結果代替空港の ボストンに行く予備燃料が無くなり、パイロットは燃料切れの危険性を十分認識していたにもかかわらず、緊急事態を宣言 しなかったために、管制上の優先権を与えられず、二度目の計器進入をしましたが、高度500フィート (150 メートル) 以下で ウインド・シアに遭遇した為に、着陸を断念して急上昇しましたが、その際に燃料が全て無くなり エンジンが停止して墜落しました。

NTSB ( 米国 国家運輸安全委員会 ) の結論によれば、
1:燃料切れの事態が予想されたにもかかわらず、パイロットが緊急事態の宣言 ( Declare Fuel Emergency  )を、最後まで航空管制機関にしなかったこと。

2:事故機の クルーは優先着陸 ( プライオリティー ランディング、 Priority Landing  ) を要求したが、スペイン語では緊急事態のつもりでも、国際民間航空機関 ( I CAO ) が定めた英語の管制用語では緊急事態の意味はなく、単に着陸を優先するように要求したに過ぎず、クルーの英語力の不足が指摘された。

3:事故機の パイロットの中で、英語を少ししか話せない副操縦士を除き、英語が分かる者は誰もいなかった。( 母国語は スペイン語 )

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国際民間航空機関 ( I CAO ) によると、1976~2000年までの 24年間に、英語の理解が欠けていたことが原因となった空中衝突などの事故で、全世界で約 1100人が犠牲になりました。

日本では英語力不足が直接事故につながった事例は報告されていませんが、これまで管制官の英語力を継続的に チェックする仕組みはなく、国交省は大事故を未然に防ぐためにも世界の航空管制の 「 公用語 」 である、英語の能力を問う試験を課す方針を固めました。

対象は全国すべての民間空港の航空管制官ら約  2,400人で、不合格者は業務に就けないそうで、早ければ8月に導入され、3年に1回の実施を目指すとのことでした。

Ekimaeryuu パイロットにも社内で英語の能力試験をするようですが、私は退職していて良かったと思いました。なぜなら勤務の合間にでも、この看板の所へ、通うことになったかも知れませんので。

2007年7月21日 (土)

濡れた滑走路

ブラジルの サンパウロ発7月17日の ロイター電によれば

Genba2 7月17日午後6時50分(日本時間18日午前6寺50分)ごろ、サンパウロ中心部の コンゴニャス空港で、乗客・乗員176人を乗せた サンパウロ行きの TAM 航空の エアバスA320型機が着陸に失敗し、機体は滑走路を オーバーランして、左方向に大きくそれて空港脇の一般道を突っ切り、空港外の建物に激突して炎上した。死者は200人近くに達する模様、事故当時、現場では雨が降っていた。

とありました。写真はクリックで拡大。
ブラジルの航空会社といえば昔から バリグ ( Varig )・ブラジル航空が有名でしたが、経営不振で破産状態となり 去年安売り航空券の会社へ買収され、日本へは来なくなりました。A320tam 今では TAM  ( Transporters Aereos Meridionais )  が ブラジル最大の航空会社となり、国内線で約 5割、国際線で約 6割の シェアを持っています。この会社も平成8年(1996年)に サンパウロ市内の住宅地に墜落し、乗客・乗員 96人が全員死亡する事故を起こしました。写真は同社の今回の事故機と同じ型の、エアバス320型機。

サンパウロの市街地東部にある、 コンゴニャス 空港は国内線と近距離国際線用で、ブラジルでもっとも過密な空港として知られ、パイロットからは滑走路が 1,940 メートル X 幅 45 メートルと ジェット機にとっては短く、 滑り易いと指摘する声が度々あがっていました。

Jikosanpa 限られた情報しか得られない現段階で 事故原因を推測するのは早すぎますが、雨が降る天候で着陸機が オーバーランをしたと聞けば、パイロットなら事故原因は滑走路上の水による ハイドロプレーニング ( Hydroplaning )現象か、ウインドシアー  (  Wind Shear 、低高度における風向風速の急変 ) による接地点 ( Touchdown point )の オーバーの可能性を疑います。ウインドシアーについては随筆集の 48:ダウンバースト ( 下降噴流 ) で説明していますので、下記をお読み下さい。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/down-b.htm#shinnyuu

1:ハイドロプレーニング現象

ハイドロプレーン ( Hydroplane ) とは、本来 水中翼を持つ高速滑走艇のことですが、この現象は昭和30年代の半ば ( 1960年代 )から航空関係者の間で問題視されはじめ、その後かなり遅れて自動車関係者にも注目されるようになりました。

Hydro4 水で濡れた滑走路を飛行機が高速で走行すると、滑走路面と飛行機の タイヤとの間に水が  「 クサビ状 」 に入り込み、そのため タイヤが滑走路面から浮いた状態になり摩擦力が失われ、ブレーキが利かなくなり、機首車輪の方向維持性能も失われます。

ダイナミック ( 動的 )・ハイドロプレーニング現象が起きる速度には、以下の計算式があります。

V=9 x [ P の平方根 ]


但し V:は現象が起きる速度で、単位は ノット。
P:は主車輪の タイヤの空気圧で、単位は PSI (  Pound per Square Inch、一平方 インチ当たりの圧力で、単位は ポンド  )

エアバス 320 型機と大きさが近い B 757 型機を例にとると、タイヤ圧を 144 PSI と仮定すれば、ハイドロプレーニング現象が起きる速度は、9  x  [ 144の平方根 ] であり、9 x 12=108 ノット(秒速  54 メートル、時速 194 キロメートル )となります。この速度以上で起きることになりますが、しかし一度 ハイドロプレーニング現象が起きると、その速度以下にまで続くのです。

2:グルービング ( Grooving 、 ミゾ 切り )

この現象を防ぐにはどうすれば良いのでしょうか?。1970年代になって滑走路面に ミゾを切り、排水性を向上させる方法が外国で考えられました。グルーブとは溝 ( ミゾ ) のことですが、雨が多い日本の殆どの空港では、滑走路表面の コンクリートに細かく  ミゾ を切り、滑走路面の排水を良くし、濡れた滑走路での タイヤの摩擦性能の向上に役立てています。アメリカでは雨がほとんど降らないアリゾナ州、ニューメキシコ州などの砂漠地帯があるせいか、大小合わせて 1,600の飛行場のうち、ミゾが切ってある Grooved Runway があるのは800箇所です。

Grooved ミゾ を切る方向は滑走路の横方向ですが、一例としては ミゾの深さが 4 ミリメートル、幅が 4 ミリメートル、ミゾの間隔は 25 ミリ程度あります。ちなみに滑走路の横断面は平ではなく、 キャンバー( Camber 、中央が高く両端が低い傾斜 )が付けられているので、滑走路に降った雨は ミゾ を伝わって両端に排水され、滑走路面に水がたまり難くなります。雨の日に空港の誘導路や駐機場の表面が水で テカテカ光っていても、グルービングされた滑走路面には水がなく、黒く見えます。

サンパウロの市内近郊には空港が三個所あり、今回事故が起きた コンゴニャス (  Congonhas )空港には 二本の滑走路がありますが、その内の一本について最近滑走路を舗装し直したものの、グルービングは施工されませんでした。そして事故の数日前にも二機が滑り易い滑走路から逸脱しましたが、さいわいにも負傷者は出ませんでした。

 

2007年7月16日 (月)

台風の思い出

Meue 先日 日本を襲った大型で強い台風4号は鹿児島県の大隅半島に上陸し、各地に多くの土砂災害、交通機関の混乱をもたらしました。一時は紀伊半島に上陸の恐れもあったために、関西空港や伊丹空港、神戸空港では夜間駐機させる予定の数多くの旅客機を避難させなければならず、運航関係者は大変だったと思います。

気象衛星 「 ひまわり一号 」 が打ち上げられたのは、昭和52年(1977年)7月のことでしたが、アメリカの デルタ・ロケットに積んでもらい、ケネディー宇宙 センターから打ち上げられました。ちなみに  「 ひまわり一号 」 から 五号までが気象衛星で、六号、七号は多目的衛星です。

Wb29 ところで気象衛星が使用される以前は、どのようにして台風の位置を知ったのかご存じですか?。その当時は西太平洋では グアム島北部にある アンダーセン空軍基地から、第二次大戦で使用した B-29爆撃機を改良した WB-29 気象偵察機  ( Weather Reconnaissance ) が、毎日 タイフーン・ハンター( Typhoon Hunter )と呼ばれる任務に従事し、台風のありそうな空域を レーダーで探し、あるいは台風の眼の中に突入し、ドロップ・ゾンデを投下して、その中心気圧、最大風速を測定したのでした。

Mea いくら頑丈な機体を持つ軍用機といえども、積乱雲 ( 入道雲 ) の中では猛烈な上昇、下降気流、ヒョウ( Hail stone )に遭遇する危険があったので、パイロットとしてはかなり度胸の要る任務であったと思います。写真は WB-29 の後継機である WC-130、ハーキュリーズから撮影した台風の眼で、その周囲は野球の スタジアムや大劇場の観客席のように、高い積乱雲の壁に覆われていたそうです。

Mee しかし飛行機による観測は一日一回であり、当時は富士山頂に気象 レーダーがあっただけでしたので、台風の位置や中心気圧、移動の方向や速度などの情報はあまり正確ではありませんでした。写真は台風の眼にある スタジアム ( 円形競技場 ) の一部。

今から40年近く前の昭和43年 (1968年)頃のこと、台風が大阪付近を通過したことがありました。前述のごとく当時は気象衛星の 「 ひまわり 」 が無く、気象 レーダーによる情報がほとんど無い時代でしたので、台風の情報は限られたものでした。大阪伊丹空港には十五機近くの飛行機が夜間駐機していましたが、夜になってから急に台風の接近を知り、他の空港 ( 北海道の千歳 ) へ飛行機を避難させる、タイフーン・エバキュエイション ( Typhoon Evacuation 、台風避難 ) をすることが決まりました。

ジェット機の偉い機長から順番に計器飛行方式で離陸しましたが、プロペラ機の新米機長でした私の番が近づく一時間後には雨風がますます激しくなり、私の二機前に離陸しようとした機長が、横風が強く危険を感じて離陸を中止しました。 結局私を含めて四機が台風から逃げ遅れてしまい、空港の広い駐機場内で台風を凌 ( しの ) ぐことになりました。

F27s 飛行機は風を真正面から受ける分には どんな強い風に吹かれても安全上支障がないので、エンジンを回転させたままで、一晩中飛行機の機首を常に風上に向けるように努めました。着陸灯を時々点灯させては雨脚を見て風向を知り、エンジンの回転を上げては徐々に変化する風向に合わせて、機首を風上に移動させました。写真は ターボ・プロップ機の F-27。

風雨が強くなり風速が 60ノット( 毎秒30メートル )を超えるようになると、パーキング・ブレーキ ( 車の駐車ブレーキと同じ ) を緩めると、エンジンを アイドリングさせていた ターボ・プロップ機の機体が、風圧で ズルズルと後戻りしたのには驚きました。空港測候所によれば、その夜の最大風速は 40メートルでした。

五時間ほどで強風の ピークは過ぎましたが、すると整備員が風雨の中を夜食用に おにぎりを車で運んできてくれたのには感謝しました。早速機内の厨房施設でお湯を湧かしてお茶を作り、副操縦士と一緒に文字通りの深夜に夜食を摂りました。地上で エンジンを回しながら台風を凌いだのは、三十六年間の パイロット生活でたった一度だけでしたが、今となっては良い思い出になりました。

2007年7月11日 (水)

パイロットの英語

北京発 6月19日付けの ロイター電によれば、 

Airchina_1 中国民用航空総局は19日、航空英語能力が国際基準に達している同国の パイロットは全体の10%未満であることを明らかにした。当局は パイロットに英語力改善の努力を奨励しているものの、一部の パイロットは積極的な姿勢を見せていないという。

これに対し、航空当局の高官は同局のウェブサイトで、「 パイロットの英語力向上の要請は、国際民間航空機関 ( ICAO ) が正式に決定したもの 」 と指摘。さらに「 間違った考えを持っているパイロットは幻想を捨てるよう望む。先延ばしにしたり他人に頼ることなく、英語を学ぶ現在の好環境を生かし、職責を果たして欲しい 」と述べた。

同局によると、英語試験をパスした パイロットの数は 651人 ( 8.1パーセント ) にとどまり、約8000人が不合格だった。

とありました。
国際線を飛ぶ パイロットの間では良く知られていることですが、中国国際航空の飛行機には、パイロットの他に通信士も乗務しています。機内で何を仕事にするのかといえば、国際線を飛ぶ場合に管制塔からの英語による管制指示を、 パイロットに通訳するのが役目だそうです。

中国では中国機に対する管制指示は全て中国語を使用し、外国機に対してのみ英語で指示を出します。つまり中国国内を飛ぶ限り中国人 パイロットは英語を使う必要がまったくないので、国内線を飛んで飛行経験を積んだ パイロットが国際線を飛ぶことになると、英語で苦労することになります。

Airf では フランス語の普及、拡大に日頃から異常な熱意を示す、 フランスではどうでしょうか?。かつて エアーフランスが所属の パイロットに対して、もはや英語は航空業界の共通技術言語であるとして、フランス国内における管制塔との交信に 『 英語だけの使用 』を求めたことがありました。しかし パイロット組合も、航空管制官の組合も  航空界からの フランス語追放   にこぞって反対したために、会社は二週間後に主張を取り下げました。

Dogoru パリの シャルル・ドゴール空港などでは、管制塔とフランスの航空会社の パイロットとの交信には、約半分近くが英語を使用していますが、国際民間航空条約機構 (ICAO、International Civil Aviation Organization )の規則では、 管制用語は英語又は母国語とする と決められています。写真の青い尾翼は、シャルル・ドゴール空港に駐機中の全日空機。

日本では航空会社の パイロットは英語を使い、セスナの宣伝飛行などの使用事業の パイロットや、陸上自衛隊の パイロットは日本語を使用する場合が多いようです。

ところで 金野内蔵氏から聞いた話によれば、昭和40年代の初め、縄文航空にも英語のできない戦前からの ベテラン と称された パイロットがいて、その人たちと一緒に飛ぶと管制塔からの指示を,いちいち通訳する必要があったそうな。ある時英語がうまくない爺さん パイロット同士で ホンコンに飛んだ時のこと、管制塔の指示が聞き取れずに、 セイ アゲイン( Say again 、もう一度言ってくれ ) を連発しために、ホンコンの航空局から名前を挙げて、「この パイロットは英語力に問題があるので、 ホンコンに来てくれるな 」 と言われたとかいう  ウワサがあったらしい。

2007年7月 6日 (金)

高所恐怖症のパイロット

大分県九重 ( くじゅう ) 町に昨年 『 九重、夢の大吊り橋 』  ができるまでは、茨城県常陸太田市の龍神峡にある、『 龍神大吊り橋 』  ( 長さ 375メートル、高さ100メートル )が日本一の吊り橋で、奈良県の中央部、十津川(とつかわ)村にある 『 谷瀬 ( たにせ ) の吊り橋 』 が 二番目といわれていました。

Yumeturi 昨年10月30日に完成した  『 九重、夢の大吊り橋 』 を、開通一ヶ月後に訪れましたが、住民の日常交通用の吊り橋ではなく、観光名物にするための吊り橋に過ぎず、谷の向こう側には人家もありませんでした。吊り橋の長さは 390メートル、高さは 173メートルで、毎日一万人以上の人が 五百円を払って渡りに来るので、九重町は笑いが止まらないと聞きました。休日には 1~2時間待ちの状態だそうです。写真はクリックで拡大。

ところで昭和29年(1954年)に作られた 『 谷瀬の吊り橋 』 は、文字通り生活の為の吊り橋であり、しかもその架橋費は公的資金に頼らず、対岸にある集落の人が一世帯当たり 三十万円という当時の大金を負担して、長さ 297.7メートル、高さ 50メートルの吊り橋を建設したのだそうです。

Tanise2 ある時 パイロット仲間で温泉旅行に行くことになり、数台の車に分乗して和歌山県南部にある川湯温泉に行きましたが、その途中にある 『 谷瀬の吊り橋 』 に立ち寄りました。皆で渡ることにしましたが、幅が 八十センチの板の上を歩くのですが、下がよく見えるし、吊り橋がゆらゆら揺れました。ところが 十五メートルも歩かない内に、一人の パイロットが   「 もう駄目だ 」  と言ったかと思うと、立ち止まってしまいました。

下を見ると眼が回りそうで歩けないというのです。仕方がないので仲間の一人が戻って彼に自分の肩をつかませて、一歩ずつ歩かせて無事に戻りました。 パイロットのくせに高所恐怖症であることを皆から笑われましたが、空の上では少しも怖くないのだそうです。

ある心理学の本によれば、直接あるいは間接的に地面とつながりがあると高所恐怖症が起きるが 、つながっていなければ起きないとありました。 そういえば飛行機の中で、外の景色を見て高所恐怖症になった乗客の例などは、これまで聞いたことがありませんでした。

Taminaru ところで高所恐怖症の人は、スチュワー「 デス 」 にはなれません。
「デス」 の最大の任務は保安要員としての役目であり、飛行機が不時着した場合などに、乗客を安全に脱出させ、避難・誘導することは最も重要な仕事です。 大型 ジェット機の客室の床は地上から約 三 メートル (一階の屋根の高さ ) であり、ジャンボの 二階席の床ともなると、六 メートル ( 二階の屋根の高さ )以上あります。写真は成田空港のターミナル・ビルの二階から撮ったものですが、ジャンボジェット 機の二階席の高さがこれよりも高いことが分かります。

Raft 緊急時に乗客を速やかに脱出させるには、機体の出入り口から滑り台 ( エスケープ・スライド、Escape  Slide ) で脱出させますが、 乗客を滑り台で脱出させる為には、スチュワー「デス」 自身もその経験がなければ勤まりません。ある時 「デス」 の訓練生の中に高所恐怖症の人がいて、乗員訓練 センター内にある実機の胴体に似せて作られた 六 メートルの高さの滑り台から、足がすくんで、どうしても滑り降りることができませんでした。 彼女は 「デス」 の適性に欠けるとして、訓練中止となり解雇されました。

2007年7月 1日 (日)

運動神経とは無関係

操縦適性とは不思議なもので、運動神経が発達している者の方が パイロットに向いているように思われますが、実際はそうではなく実は無関係なのです。見るからに スポーツ万能 タイプで実際に運動能力の高い人がいましたが、飛行訓練が始まると パイロットの適性が無いということで、訓練の途中から エリミネート( Eliminate 、排除 )されました。

Akabou_1 その一方でこれまで運動とは無縁の学生生活を送り、海上自衛隊の幹部候補生学校に入学した際には、泳げない 「 赤帽 」 の人がいました。「 赤帽 」 とは泳げない人が水泳訓練の際に被る赤い帽子のことですが、泳げない海上自衛官などあってはならないことなので、起床後からすぐに水泳の特別訓練があり、しごかれた結果、夏の終わりには遠泳ができるまでになりました。本来左の写真の頃から水泳を習うべきでしたが---。

彼は後に米海軍の パイロット・コースに留学し、無事に パイロットの資格を取りましたが、二人の息子は共に航空大学校に進学し、一人は鶴丸航空の パイロットに、もう一人は縄文航空の パイロットになりました。ここで言いたいことは操縦適性と運動神経とは別物であること、そして操縦適性にはほんの少し遺伝的要素があるのかな?、という気がしました。

ではどういう性格の人が パイロットに不向きであるかを、私の独断で述べてみますと、神経質な人、几帳面な人、まじめで緊張する クセのある人は、どちらかといえば パイロットには不向きです。人は緊張すると手足の筋肉が自然に硬直し、柔軟性を失うので、三舵(水平尾翼、垂直尾翼、主翼、の後縁にある補助翼)を両手、両脚を使い コントロールする操縦操作が スムーズにできなくなるとか、修正操作を オーバー・コントロールする傾向があります。

Keiki さらに緊張すると、前回述べた視野の狭窄 ( きょうさく ) が起きて一点集中の傾向が強くなり、計器類の スキャン ( Scan、頻繁な チェック、眼の動き) が遅くなります。

訓練によりこの傾向はある程度改善されますが、おのずと限界があり、社会生活の上でむしろ好ましい部類に属する性格も、パイロットになるには マイナスの面があります。

Kakucho ところで羽田空港では四本目の滑走路が二年後(2009年)に完成予定ですが、そうなると現在の羽田の離発着回数が、一時間当たり29便から40便へ増え、年間発着回数も 29万6千回から、滑走路新設で 約 1・4倍の 40万7千回に増えることになります。発着枠の増大に備えて各航空会社では、今から パイロット、スチュワーデスの増員に迫られています。

スチュワーデスは国家資格も国家試験も無いので、養成には時間が掛かりませんが、問題は パイロットで、機長になるには副操縦士として 15年程度の経験が必要ですが、その上団塊の世代の機長 クラスが毎年百人近く退職するのと重なり、現在のように子会社で働くのではなく、会社自体で働く パイロットの定年を、六十五才まで延長するなどの対策が必要になります。

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