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2007年7月16日 (月)

台風の思い出

Meue 先日 日本を襲った大型で強い台風4号は鹿児島県の大隅半島に上陸し、各地に多くの土砂災害、交通機関の混乱をもたらしました。一時は紀伊半島に上陸の恐れもあったために、関西空港や伊丹空港、神戸空港では夜間駐機させる予定の数多くの旅客機を避難させなければならず、運航関係者は大変だったと思います。

気象衛星 「 ひまわり一号 」 が打ち上げられたのは、昭和52年(1977年)7月のことでしたが、アメリカの デルタ・ロケットに積んでもらい、ケネディー宇宙 センターから打ち上げられました。ちなみに  「 ひまわり一号 」 から 五号までが気象衛星で、六号、七号は多目的衛星です。

Wb29 ところで気象衛星が使用される以前は、どのようにして台風の位置を知ったのかご存じですか?。その当時は西太平洋では グアム島北部にある アンダーセン空軍基地から、第二次大戦で使用した B-29爆撃機を改良した WB-29 気象偵察機  ( Weather Reconnaissance ) が、毎日 タイフーン・ハンター( Typhoon Hunter )と呼ばれる任務に従事し、台風のありそうな空域を レーダーで探し、あるいは台風の眼の中に突入し、ドロップ・ゾンデを投下して、その中心気圧、最大風速を測定したのでした。

Mea いくら頑丈な機体を持つ軍用機といえども、積乱雲 ( 入道雲 ) の中では猛烈な上昇、下降気流、ヒョウ( Hail stone )に遭遇する危険があったので、パイロットとしてはかなり度胸の要る任務であったと思います。写真は WB-29 の後継機である WC-130、ハーキュリーズから撮影した台風の眼で、その周囲は野球の スタジアムや大劇場の観客席のように、高い積乱雲の壁に覆われていたそうです。

Mee しかし飛行機による観測は一日一回であり、当時は富士山頂に気象 レーダーがあっただけでしたので、台風の位置や中心気圧、移動の方向や速度などの情報はあまり正確ではありませんでした。写真は台風の眼にある スタジアム ( 円形競技場 ) の一部。

今から40年近く前の昭和43年 (1968年)頃のこと、台風が大阪付近を通過したことがありました。前述のごとく当時は気象衛星の 「 ひまわり 」 が無く、気象 レーダーによる情報がほとんど無い時代でしたので、台風の情報は限られたものでした。大阪伊丹空港には十五機近くの飛行機が夜間駐機していましたが、夜になってから急に台風の接近を知り、他の空港 ( 北海道の千歳 ) へ飛行機を避難させる、タイフーン・エバキュエイション ( Typhoon Evacuation 、台風避難 ) をすることが決まりました。

ジェット機の偉い機長から順番に計器飛行方式で離陸しましたが、プロペラ機の新米機長でした私の番が近づく一時間後には雨風がますます激しくなり、私の二機前に離陸しようとした機長が、横風が強く危険を感じて離陸を中止しました。 結局私を含めて四機が台風から逃げ遅れてしまい、空港の広い駐機場内で台風を凌 ( しの ) ぐことになりました。

F27s 飛行機は風を真正面から受ける分には どんな強い風に吹かれても安全上支障がないので、エンジンを回転させたままで、一晩中飛行機の機首を常に風上に向けるように努めました。着陸灯を時々点灯させては雨脚を見て風向を知り、エンジンの回転を上げては徐々に変化する風向に合わせて、機首を風上に移動させました。写真は ターボ・プロップ機の F-27。

風雨が強くなり風速が 60ノット( 毎秒30メートル )を超えるようになると、パーキング・ブレーキ ( 車の駐車ブレーキと同じ ) を緩めると、エンジンを アイドリングさせていた ターボ・プロップ機の機体が、風圧で ズルズルと後戻りしたのには驚きました。空港測候所によれば、その夜の最大風速は 40メートルでした。

五時間ほどで強風の ピークは過ぎましたが、すると整備員が風雨の中を夜食用に おにぎりを車で運んできてくれたのには感謝しました。早速機内の厨房施設でお湯を湧かしてお茶を作り、副操縦士と一緒に文字通りの深夜に夜食を摂りました。地上で エンジンを回しながら台風を凌いだのは、三十六年間の パイロット生活でたった一度だけでしたが、今となっては良い思い出になりました。

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コメント

鹿屋基地のP2V対潜哨戒機は、台風が来ると八戸基地へ避難したと兄貴に聞きましたが、あれがタイフーン・エバキュエイション ( Typhoon Evacuation 、台風避難 )だったのですね。
初めて聞く用語でした。
ところで、今日の新聞にシャープがB787の液晶ディスプレーを納入すると、全面広告を出していましたね。
液晶のシャープといわれながら、あまり実績が無かったみたいなので、よほど嬉しかったのでしょうか。
よくお世話になった、航空オタクの甥も喜んでいると思います。しかし、単身赴任で液晶工場勤務とか聞いています。

私も海上自衛隊にいた当時は八戸から鹿屋や岩国、航空自衛隊の美保に タイフーン・エバキュエイション をしたことがありました。ただ美保基地には、P2V-7に使用する ハイ・オクタン価 115/145の燃料が無かったので、予め燃料 タンクを満 タンにして行く必要がありました。

その当時羽田を除く殆どの民間空港の運用終了時刻 ( 門限 ) が 19時半~20時前後でしたので、夜の タイフーン・エバキュエイションをする際は自衛隊や米軍と、民間機が共用する飛行場( 福岡、千歳 )に行くことになりました。

シャープの液晶の件はよかったですね。

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