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2007年9月 9日 (日)

エアショウ 、その一

F9fcougar アメリカで アクロバット飛行の エアショウ ( Air Show ) といえば、海軍の ブルー・エンジェルスと空軍の サンダーバード が有名ですが、私が初めて ブルー・エンジェルス( Blue Angels ) の エアショウを見たのは、1957年 ( 昭和32年)のことでした。写真は過去に ブルー・エンジェルスで使用された機体の展示飛行。

その年の一月に渡米して パイロットの訓練を受けたのは、米国 フロリダ州 ペンサコラにある海軍飛行学校でした。そこは海軍 パイロットの クレイドル ( Cradle、揺りかご ) ともいわれ、パイロットを志す者は必ずそこで基礎飛行訓練を受け、そこからより高度な訓練を受ける為に、アラバマ州、テキサス州にある訓練基地へと巣立って行きました。

Sharmanfield 衛星写真は NAS ( Naval Air Station )Pensacola ( ペンサコラ海軍航空基地 ) のものですが、そこにある シャーマン飛行場に ブルー・エンジェルスの本拠地がありましたが、現在もあるはずです。飛行場の右側には飛行学校の教育施設、宿舎などがあり、右上に見えるのは基地の専用 ゴルフ コースです。

ブルー・エンジェルスが当時使用していた機体は、F9Fー8 クーガー( Cougar )でしたが、その翌年、二度目に エアショウを見た時には、F-11F ( タイガー ) に変わっていました。

Pensacola_175 ブルー・エンジェルスの飛行隊に所属する パイロットの数については、2003年 (平成15年)の データによれば、アクロバット飛行の パイロットが 219人、フライト・リーダー( 編隊指揮官 )が 29人いましたが、女性の パイロットは 7人でした。

つまり ブルー・エンジェルスには数多くの アクロバットチーム ( 恐らく15組程度? ) があり、毎年三月から十一月までの エアショウの シーズンになると、全米各地へ出向いて行き、年間 七十回以上もの エアショウをおこない、 千五百万人の見物客を楽しませる仕組みでした。写真は2005年 ( 平成17年 ) に、ペンサコラ基地で催された際のもの。

ブルー・エンジェルスの パイロットになる要件としては、CQ ( Carrier Qualification 、空母の着艦資格 )を持ち、ジェット戦闘機の現役 パイロットであり、飛行時間 1,350時間 以上が必要です。パイロットの任期は二年で、その後は通常の軍務に復帰しますが、パイロットの平均年齢は三十二才です。

ブルー・エンジェルスの パイロットたちが、戦闘機の パイロットにとって必需品である Anti-G suits ( 耐 G 服 )を着用せずに 、アクロバット飛行をすることを今回初めて知りましたが、航空自衛隊の ブルー・インパルスではどうしているのでしょうか?。

加速度である G につて簡単にいいますと、バケツに水を入れて円を描くように速く振り回すと、中の水はこぼれませんが、加速度 ( 遠心力 ) が作用するからで、その大きさを Gravity  ( 重力 ) の頭文字から G で表します。

Gforces_2 人間の心臓と脳は約 40 センチ離れており、通常の生活環境では水銀柱 29 ミリの圧力差になります。しかし急旋回や宙返りなどの際に 仮に重力の五倍の加速度  ( 5 G ) が掛かるとすれば、その間隔は 200 センチと同等の影響を与え、圧力差では水銀柱 145 ミリに相当します。つまり、パイロットの通常の血圧を120 ( 水銀柱 120 ミリの意味 ) とすれば、脳の 位置では水銀柱 120-145=-25 ミリの マイナスの値になり、体内の血液は加速度 ( 遠心力 ) により下半身に滞留し 脳に血液が流れ難くなります。絵図は クリックで拡大。

私も アクロバットの飛行訓練の際に宙返りをしましたが、宙返りの基本とは 同一垂直面上で円を描くことです。自機の航跡による気流の乱れが後にしばらく残り、その中では機体が揺れるため、宙返り終了時に機体が揺れれば同じ垂直面での軌跡をたどった証拠であり、「上出来 」 で、揺れなければ 「 失敗 」 です。

2 G~3 G の重力が掛かると脳の貧血により視野が狭くなり周囲が灰色に見える 「 グレイ・アウト 」 や、さらに加速度が加わると目の前が真っ暗になる ブラック・アウト になります。

今まで述べたのは体が操縦席の座席に押し付けられる 「 プラスの加速度、( +G ) 」 についてですが、最も不快な感じがするのは、体が座席から浮き上がる 「  マイナスの加速度、( -G ) 」 を受けた場合です。その際には目の前が夕焼け空の様に真っ赤に見える レッド・アウト になりますが、前述した絵図にある体内の血液が下半身にではなく、今度は 「 頭に のぼる 」 からです。

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コメント

最近航空雑誌を見ることはほとんどありませんが、確認のため手許に20年くらい前の2冊ほどの「世界航空機年鑑」(航空情報臨時増刊)を置いています。
Blogを拝見して、1冊(1988年版)を手に取ると偶然ブルーエンジェルスのF/A-18で、3枚目の写真とほぼ同じ角度で1機のみのクローズアップでした。
この機体はMacのフライトシュミレーターでもよく遊び、はじめてヘッドアップディスプレーの概念を知ったと思います。

それより珍しいのは1枚目の写真で、ヘルキャットやベアキャットがブルーエンジェルスで飛んでいたとは知りませんでした。

三代目はやはりグラマンのパンサーのようですが、この機体は朝鮮戦争当時の伊丹空港が米海軍機主体でしたので、コルセアなどとともによく見ました。1950年~1951年頃の伊丹は、コルセアのタッチアンドゴー訓練が頻繁にあって、ちょうど我が家(当時は阪急園田)の真上低空を着陸態勢で飛行するので、ガラス戸がビリビリと震えました。自転車ですぐなのでよく伊丹へ米軍機を見にいったものです。

今回あらためて1957年上映、マーロン・ブランド/
ナンシー梅木の「サヨナラ」をDVDで見ているのですが、マーロン・ブランド(空軍F86のエースPILOT)が前線から呼び戻されて伊丹にDC-3から降り立つシ-ンががありました。確信は無いですが、本当の伊丹のような気がしています。

「サヨナラ」上映の同じ年に、日本人がブルーエンジェルスを見たり、ペンサコラでアクロバット飛行の訓練をしていたことは、想像もできなかったことで驚くべきことだと思っています。


[追記]
なお「サヨナラ」で、マーロン・ブランドが乗るタクシーに日産のノックダウン方式でない戦後初の乗用車、ダットサン1000cc(オースチンのあとで初代ブルーバードの前のタイプ)が真っ赤な塗装で出てきますが、1962年鹿屋基地を訪れたとき、兄の友人の水島さん(その後JAL国際線機長)が当時では珍しく中古を持っていて、手動スタート用のクランクのケッチン?で腕を骨折していたため、片腕ギプスのまま乗せてもらいました。
右手でギアチェンジしていたので、骨折は左手だったと思います。
ぼくが1960年に関目で運転免許を取得したときの試験車もこの車でした。

水島さんは私よりも二期後輩で、P2V-7に乗務していたので顔は知っていました。昭和50年代に横浜東急ホテルで話をしたことがありましたが、その当時彼は DC-8 でアンカレージの駐在をしていました。

こんにちは
最新のペンサコラの記事がありました。

ペンサコーラ海軍航空博物館
ー Home of the Blue Angels ー
http://www2g.biglobe.ne.jp/~aviation/pensacola.html

ペンサコラに海軍航空博物館ができたことは、覚えています。海上自衛隊に在職中の昭和三十八年の春にお触れが回ってきて、ペンサコラの海軍飛行学校に留学した者は、百 ドル 寄付しろということで、寄付しました。

博物館は1963年 (昭和三十八年) 六月八日に オープンしましたが、私は訪れたことはありません。

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