« 機内の煙で死亡 | トップページ | エアショウ 、その一 »

2007年9月 4日 (火)

開隊五十周年

Seimon 若かりし日の昭和33年(1958年)に、当時 25才でした私は アメリカ海軍飛行学校を卒業し、帰国直後に パイロットとして最初に赴任したのが、青森県八戸市にある海上自衛隊八戸航空基地でしたが、開隊の翌年でした。

Ooidou その基地では九月一日に開隊五十周年の催しがあるというので、平泉の中尊寺の金色堂など、東北の観光旅行を兼ねて八戸市を訪れることにしました。写真の建物は金色堂をすっぽり覆う   [ 覆い屋 ] ( おおいや ) で、中に金色堂がありました。

開隊五十周年の行事については、下記を御覧下さい。自衛隊 ホームページ の画面上を クリックすれば、拡大、縮小します。

http://www.mod.go.jp/msdf/hatinohe/info/kichisai/memorial50.gif

私が老妻と結婚して初めて所帯を持ったのは八戸市でしたが、昭和35年 (1960年) のことでした。俗に十年 ひと昔といいますが、四十年以上も経つと市内の様子も大きく様変わりしてしまい、昔あった商店も ビルも道路も姿を変えていて、私達が最初に住んだ 二軒長屋があった所は広い道路になっていました。

南こうせつ作曲の 「 神田川 」 http://www.momo-mid.com/mu_title/i_kandagawa.htm

の歌詞ではありませんが、当時 安月給の二等海尉 ( 中尉 ) が住んだ家は二間しかなく、風呂も無かったので、北国の冬の寒い中を女房と二人で近くの銭湯にかよいましたが、今ではその辺りは マンションや ビルが建っていて、銭湯があった場所もさっぱり分かりませんでした。銭湯だけでなく、音楽喫茶、バー、飲み屋、デパートなど、過去の記憶をたどりつつ市内を探し歩きましたが、四十七年も経つと商店をはじめ、昔を偲ぶ手掛かりはすっかり消え失せました。独身時代、新婚時代を過ごした思い出の多いこの町を訪れることは、もう二度とないでしょう。

F16 お目当ての航空自衛隊の アクロバット・チーム 「 ブルー・インパルス ( Blue Impulse、青い衝撃 )」 の演技飛行に先立ち、隣の米軍三沢基地からやってきた F-16 による アクロバット 飛行がありました。バーティカル ( Vertical 、垂直 ) 系の マニューバー( Maneuver 、運動 ) が多く、アフター・バーナー ( After Burner、ジェットエンジンの再燃焼装置 ) を使用して、地響きするような轟音を出しての垂直上昇は迫力満点でした。(写真はF-16)

F-16 は エアー・ショウ ( Air Show ) 用の機体ではなく実戦用の機体のために スモーク発生装置がなく、小型 デジカメの液晶画面を見ながら  シャッターを押す方法では、動きの速い機体の写真撮影は無理で、ファインダーで目標を捕らえる カメラが適していました。

Wa 宮城県の松島基地に所属する ブルー・インパルスの使用機は T-4 という中間練習機のため、アフターバーナーが無いためか (?) バーティカル系の  マニューバーが少なく、もっぱら編隊による旋回で見せ場を作っていました。

昭和39年 ( 1964年 ) の十月十日、東京 オリンピック開会式の際には、スタジアム上空で オリンピックにちなんだ、五輪の輪を スモークで描いて喝采を浴びましたが、今回も スモークで大空に六つの輪を描き、基地を訪れた 二万人の観衆から一斉に拍手が湧きました。

Flight6 翌九月二日は八戸市の 18 キロ 北にある米軍三沢基地の航空祭も見る予定でしたが、朝から雲が低く雨降りのため、アクロバット飛行は無理と判断した結果、三沢へ行く予定を変更して仙台に行きました。ここでは雨は降らず、民謡、斉太郎節 ( さいたろうぶし ) にもある、

http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/saitarabushi.html

松島のサーヨー瑞巌寺 ( ずいがんじ ) ほどの寺もないと エー

の瑞巌寺を久し振りに訪れ、松島湾内を観光船から見物しながら 塩竃 ( しおがま ) まで行き、仙台に泊まって翌日 四日ぶりに兵庫県に帰りました。

シルバー回顧録へ戻るにはここをクリック

« 機内の煙で死亡 | トップページ | エアショウ 、その一 »

コメント

ちょっと残念な結果でしたね。
40年も経ってしまうと大きく様変わりしてしまうでしょうね。

僕は・・・そういえば、40年同じ所に住んでいますが、40年前からあるもの・・・・ウチと、数件の家、学校くらいでしょうか。

学校は増築や、体育館、プールなどどんどん増えていますけれどね・・・・

言われてみて・・びっくりしました(笑)

八戸基地訪問の目的のひとつは、昭和37年2月6日に 対潜水艦哨戒機 P2V-7 が海に墜落する事故が起き、顔見知りの隊員 十二名が殉職しましたが、その慰霊碑に参拝することでもありました。我が家の息子 が誕生したのは奇しくも事故当日でしたが、あれから四十五年が経ちました。

八戸市は イカ 釣り船などの単なる漁港でしたが、昭和37年に施行された新産業都市建設促進法に指定された為に、港湾が整備され、工場誘致も進み、産業が大きく発展したために、市内の変化も目を見張るものがありました。

あの事故は、兄が同型機CO-PILOTでしたので、当然よく覚えています。
海面すれすれはオーバーにしても、イルカが交尾しているのが見えるなどと、岐阜の方言で手紙に書いたりしてしてあったので、低空を長時間飛行することは知っていました。
八戸基地は、台風避難のときなどに何度か行ったようですが、たしか三沢に良く似ていて間違えそうになったとか言っていました。

その、およそ半年後にP2Vの内部を隅々まで見学できるとは、夢にも思いませんでしたが、兄も新婚半年目くらい、同じく新築ですが2軒つづきの隊員向けの借家で、今で言う1Kだったと思います。

9月3日前後に、鹿児島の大画面Macなど何人かの人が、P2V墜落・奄美、海上自衛隊機墜落事故,蘭館山、くれないの塔、氏名などのキーワードでアクセスしてきていましたので、この記事の紹介や非公開アルバムの公開などと、過去ログを私のblogに投稿しましたので、よろしくお願いします。

八戸基地では隊内にあった BOQ ( 独身将校宿舎 ) では飲酒ができない等、規則に縛られ窮屈なので、そこには入居せずに、独身 パイロット五名で旧米軍の官舎を一軒借りて住み、炊事、掃除、洗濯、の婆さんを住み込みで雇って、優雅に暮らしました。

結婚してから官舎に入るには、階級の上位者はすぐに入居できましたが、私のような下っ端の二尉では順番待ちをさせられました。しかし半年~一年後には、官舎に入居することができました。

低空飛行については、電波高度計の高度目盛りを 100フィート ( 30メートル ) に セットして飛行し、それより少しでも高度が下がると電波高度計の赤色警報灯が点灯しますが、それを点灯させたり消灯させたりして飛行しました。

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 開隊五十周年:

« 機内の煙で死亡 | トップページ | エアショウ 、その一 »