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2007年11月24日 (土)

六十才のデス (その一)

航空界では スチュワーデスのことを長年 業界用語で 「 デス 」 と呼んできましたが、昭和六十年 (1985年 )に施行され、以後何度も内容が改正、強化された男女雇用機会均等法により 看護婦が看護師と改名されたように、全日空系では  C A  ( キャビン・アテンダント )、その他では F A  ( フライト・アテンダント )などと呼ぶようになりました。

Shiwakua 全日空の社内報によれば 九月二十九日に、東京客室部所属の塩飽 ( しわく ) 弘子 スチュワー「 デス 」( C A ) が、全日空としては初めて 六十才の定年まで飛び続けました。以前の ブログ ( 2006年9月3日 ) で 日本航空の永島玉枝 スチュワー「 デス 」 が日本で初めて 六十才の定年まで飛んだことを書きましたが、女性が 六十才まで乗務を続けることは、肉体的にも精神的にも並々ならぬ苦労があったに違いありません。

Shiwaku1969 塩飽 ( しわく )  デスが入社したのは大阪万博の前年の、 昭和四十四年 ( 1969年 )のことでした。金野氏が海上自衛隊から中途入社したのは昭和四十年 (1965年 ) のことで、三年後に機長になり、定年退職したのは平成五年 (1993年) でした。つまり彼女とは二十四年間同じ会社でそれぞれ、パイロット ・ 「 デス 」 として乗務したことになります。

Yamaimoc しかし思春期以降 女性に モテタ 経験が一度もなかった金野氏は、結婚してくれる女性がいれば 顔なんか無くてもよい と思い、実家がある栃木県の山奥の村で採れた  ( 山の いも ) 娘 にお願いして、ようやく嫁に来て頂いたようなわけでして!、ハイ。 

そういう事情でしたが室生犀星 ( むろう・さいせい ) の有名な詩に  「 ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しく  うたふもの 」 というのがありますが、金野氏にとって 高根の花の 「 デス 」 などは諦めの境地から 遠きにありて思う だけで、 観察や記憶の対象にはならず、おそらく過去に何度も一緒に乗務したに違いない 塩飽  「 デス 」  の顔写真を見ても、さっぱり記憶に残ってないとのことでした。もしかしたら 加齢により、とうとう認知症が発病したのかも知れません?。

「 デス 」 の数も今でこそ外国籍や、ロンドン、上海など外国基地所属の 「 デス 」 を含めて、会社に 四千五百人程度はいるものの、その当時はせいぜい 二~三百人程度でした。

Keikiban 当時結婚適齢期にあった副操縦士の中には、飛行機の機体構造や、緊急時の操作手順などに関する知識欲は無いくせに、 「 デス 」 に対する情報収集意欲だけは非常に旺盛で、 ヒマさえあれば これはと思う 「 デス 」 の出身校、家族構成、趣味、性質、外見による バストの 大 ・ 中 ・ 小  の評価に至るまで熱心に ノート に控えるなど、個人情報の収集、研究をしていたのがいました。金野氏も今になっては 「 デス 」 について もっと関心を払い、顔を記憶しておけばよかったと後悔したそうです。( 続く )

2007年11月17日 (土)

手紙と睡眠薬

昭和五十年 ( 1975年 ) 代といえば海外旅行が盛んになり、東南アジアや韓国には買春 ツアーの団体が押しかけましたが、金野内蔵氏から聞いた話は、その頃のことでした。

あるとき金野氏は地方空港から フィリピンの首都 マニラへ  チャーター便を飛ぶことになりましたが、搭乗してくる乗客を操縦席からみると、ほとんどが男性ばかりの団体でした。マニラまでは 四時間ほどの飛行でしたが、到着後に スチュワーデスから話をきくと、マニラで団体客が降りた後の座席前のポケットには、 「 滋養強精のドリンク剤 」 の空 ビンが多数残っていたとのことでした。

マニラの ホテルに着いてから副操縦士と航空機関士は マニラ市外の観光に行き、金野氏は前にも行ったことがあるので行かずに、一人で市内を散歩することにしました。まず最初に近くにある ホセ・リサール公園に行きました。

Josepark ホセ・リサール ( Jose Rizal )とは、 フィリピンでは誰もが知る独立運動の闘士でしたが、フィリピンを植民地支配していたスペイン当局により逮捕され、1896年に反逆罪で銃殺されましたが、その処刑跡に記念碑が建てられ周囲が公園になっていました。台座の左右に衛兵がいるのが見えます。

Chuusei ここは丁度 ワシントン DC にある アーリントン墓地や、台湾で蒋介石を記念する中正記念堂のように、儀仗衛兵 ( オーナーガード、Honor Guards  ) が二十四時間、交代で立哨警備していました。

公園内を散歩していると、一人の フィリピン人男性が話し掛けてきました。日本に旅行した際に知り合った友人から手紙が届いたが、日本語で書いてあるので読めないで困っている読んでくれないか?、とのことでした。手紙を見せろというと家に置いてきてしまった。ここから直ぐ近くだというので、親切な (?) 金野氏は一緒に男の家に行くことにしました。

ところがすぐ近くのはずの家に行くのに、タクシーに乗ったではありませんか。しかも走って行くと観光客が足を踏み入れない危険地帯の街中に入って行きました。金野氏は危険を感じて タクシーを停め、運転手に料金を支払い、男に 「 You son of a bitch , a Liar 、この ウソ つき 野郎め !」 とどなりつけて下車し、広い通りで別の車を拾い ホテルに戻りました。

Bitcha 「 お前は売春婦の息子だ 」 という表現は、言われた当人と彼の母親の両方を侮辱する最大級の悪口ですが、英語にはこの種の 性にからんだ下品な言葉  ( カスワード、Coarse Words ) や表現がたくさんあります。

顔見知りのホテルの接客係女性 マネジャーの話によれば、狙った カモ ( 観光客 ) を家や コフィーショップ、バーなどに誘い込んで、睡眠薬入りの ジュース、酒類を飲ませて眠らせ、身ぐるみ 剥いで外に放り出す犯罪が マニラ では増えていたそうで、金野氏も危うかったとのことでした。

外国で知らない人が話掛けて来たら、百 パーセント カモを狙う犯罪者だと思って用心することです。

2007年11月10日 (土)

タックル

現在は路線を運休していますが縄文航空ではある時期まで、関西空港から イタリアの北部、アルプス山脈に近い ミラノ へ路線を運航していましたが、関空からは十二時間近くかかりました。

Saigobansan 金野内蔵氏の友人の足野速男氏はあるとき ミラノ 線を飛びましたが、ホテルに着くと現地時間に体を慣らすために、眠らずに一人で外出しました。購入したばかりの デジカメを持って、ミラノの中心にあり、百三十五本の尖塔がある ドゥオーモ (  Duomo 、 大聖堂の意味で 、英語では ドーム、 Dome ) を撮影しに行きました。

ここは レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作 「 最後の晩餐 」 の壁画がある サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ 教会の左側にある修道院と共に、ミラノを訪れた観光客が必ず立ち寄るところです。

Milan_duomo ドゥオーモの東側にある フォンターナ広場 ( Fontana ) で ドゥオーモ博物館をはじめ周囲の建物の写真を撮っていると、二人の イタリア人男性が英語で話し掛けてきました。一人は手に日本製の ヤシカの カメラを持っていて、建物を背景にして自分達の写真を撮ってくれというのでした。ヤシカの カメラとは、足野氏の学生時代からありましたが、あまり写真に詳しくない人が買う カメラでした。二十年以上前に 京セラに買収され、今年になってから 「 ヤシカ 」 の商標は、香港の会社に売却されました。

足野氏は言われるままにその男達の写真を撮りましたが、今度はその男のうちの 一人が足野氏の カメラで写真を撮ってくれることになりました。背景を入れて人物写真を撮る場合には、二~三メートルぐらいの距離で、シャッターを半押しして距離を固定し、構図を決めて撮るものですが、その男は カメラを構えながら 五メートル以上もどんどん離れて行ったのだそうです。

Tackle そこで足野速男氏が カメラを持ち逃げされると判断して走り出すのと、男達が二手に分かれて逃げるのと同時でした。学生時代に ラグビー部に所属していた足野速男氏の スタート・ダッシュが勝り、フォンターナ公園を 五十 メートルも行かない内に カメラを持って逃げる男の足に背後から  タックルして転倒させました。 男の顔面を殴りつけ、ひるんだ男から カメラを取り戻すと、仲間が加勢に来ないうちに走って現場を離れました。

長靴の形をした イタリアは、南に行くほど犯罪が多くなるといわれていますが、観光客相手のひったくり、ジプシーの子供を使った スリ、ぼったくり、 買い物の際の釣り銭のごまかし、ニセ警官、ホテル内での置き引きや、寝台列車内での窃盗などの犯罪が後を絶たず、かつては日本からの観光 ツアーの一行で、犯罪の被害に遭った人が一人もいなければ、そのグループは幸運といわれていました。

ある時日本からやって来た ツアー添乗員が バイクを使ったひったくりに遭いましたが、彼女は用心のために ショルダー・ バッグを 「 たすき掛け 」 にしていたために転倒し、敷石で頭を打って死亡した事件が ミラノで起きました。となると 肩から下げずに、 「 たすき掛け 」 をする方法も考えものです。イタリアを旅行する人はご用心を。

2007年11月 4日 (日)

ノド の渇き

金野内蔵氏から聞いた話によれば、縄文航空の乗員や スチュワーデス が海外に運航宿泊した際に泊まる ホテルは、国内線の場合とは異なり同じ ホテルなのだそうです。国内線の場合は乗員と スチュワーデスを、同じ ホテルになるべく泊まらせないようにする方針だそうですが、その理由は若い (?) 男女が接近し易い環境にいて、間違い (?) を起こさせないための親切な 「 親ごころ (?) 」 からだとも、あるいは高給取りの乗員に対する 「 嫉妬心 」 や、それに基づく 「 嫌がらせ 」 からだともいわれていますが、詳しいことは不明です。

Senu 海外、国内のホテルに運航宿泊をした場合に支給される宿泊日当のことを、ラテン語の 「 一日につき、by the day 」 の意味から パーディアム ( Perdiem ) といいますが、一日に付き いくらというよりも、たとえば現地での滞在時間が十二時間以内はいくら、二十四時間以内はいくらというように、滞在時間で金額が変化しました。その理由は言わずと知れた、現地での食事の回数がからんでくるからです。写真は セーヌ川  ( La Seine )と バトー・ムーシュ ( Bateaux Mouches ) の観光船。

現在の パーディアムについて正確には知りませんが、物価が高い欧米の都市に宿泊する場合は高く、東南アジア、中国の場合は安い金額となりますが、二十四時間以内の滞在であれば 七十 U.S.ドル ( 八千円 ) 前後ではないかと想像します。 これで二食、時には三食食べるとなると、それなりの食事が当時は可能でしたが、不時の支出に備えて、国際的に通用する クレジット・カードを各自が用意していました。

定宿の ホテルには、宿泊する部屋とは別に クルー・ルーム ( 乗員用の談話室 ) を借りていて、ニューヨーク/ワシントン線のように 二泊三日、ロンドン/パリ線のように  三泊五日 ( 成田から十二時間の徹夜 フライト での往復と、現地のホテルで 三泊 )、の乗務 パターンの場合には、二~三組の乗員が同時に ホテルに泊まるので、互いに情報交換、談話の場となっています。

Frencures フランスの パリ でのこと、クルー・ルームの掲示板に、値段も手頃で美味しい フランス料理の店がお勧めに書いてあったので、A 氏は仲間の B 氏と二人でその店に食事に行きました。 ギャルソン  ( フランス語で ウエイターの意味 ) から渡された メニューを見た A 氏は困り果てました。なぜなら メニューがすべて フランス語で書かれていたからで、A 氏が大学でとった第二外国語は ドイツ語であり、B 氏は中国語のため、彼も フランス語がまったく読めないというのです。

そこで腹をくくった A 氏は 当てずっぽうに、 メニューの三箇所を指さして オーダーしました。ギャルソン曰く、「 I suppose You are very thirsty 、たいへん ノド が渇いておられるようで 」。その年の パリ の夏は暑かったので、 A 氏は 「 Yes, I am thirsty  」 と返事をしました。

Nikuryouri B 氏も 運を天に任せて メニューの中ほどのところを 、三箇所指さしました。それに飲み物は二人とも高価なワインではなく、炭酸 ( ガス ) 入りの、 エビアン水 ( Evian avec Gaz ) にしました。のちに運ばれてきた料理をみると、なんと A 氏の前には スープだけが 三皿並び、B 氏には肉料理が 三人前並びました。そこでやむなく 二人で料理を分け合って、食べたのだそうな----!。

ホテルに帰ってから  クルー・ルームの掲示板に、フランス語の メニューしかない、その店のことを書こうと思って お勧め欄をよく見ると、英語の メニューは最後の頁にあるので要注意と書いてありました。ギャフン!!

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