六十才のデス (その一)
航空界では スチュワーデスのことを長年 業界用語で 「 デス 」 と呼んできましたが、昭和六十年 (1985年 )に施行され、以後何度も内容が改正、強化された男女雇用機会均等法により 看護婦が看護師と改名されたように、全日空系では C A ( キャビン・アテンダント )、その他では F A ( フライト・アテンダント )などと呼ぶようになりました。
全日空の社内報によれば 九月二十九日に、東京客室部所属の塩飽 ( しわく ) 弘子 スチュワー「 デス 」( C A ) が、全日空としては初めて 六十才の定年まで飛び続けました。以前の ブログ ( 2006年9月3日 ) で 日本航空の永島玉枝 スチュワー「 デス 」 が日本で初めて 六十才の定年まで飛んだことを書きましたが、女性が 六十才まで乗務を続けることは、肉体的にも精神的にも並々ならぬ苦労があったに違いありません。
塩飽 ( しわく ) デスが入社したのは大阪万博の前年の、 昭和四十四年 ( 1969年 )のことでした。金野氏が海上自衛隊から中途入社したのは昭和四十年 (1965年 ) のことで、三年後に機長になり、定年退職したのは平成五年 (1993年) でした。つまり彼女とは二十四年間同じ会社でそれぞれ、パイロット ・ 「 デス 」 として乗務したことになります。
しかし思春期以降 女性に モテタ 経験が一度もなかった金野氏は、結婚してくれる女性がいれば 顔なんか無くてもよい と思い、実家がある栃木県の山奥の村で採れた ( 山の いも ) 娘 にお願いして、ようやく嫁に来て頂いたようなわけでして!、ハイ。
そういう事情でしたが室生犀星 ( むろう・さいせい ) の有名な詩に 「 ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しく うたふもの 」 というのがありますが、金野氏にとって 高根の花の 「 デス 」 などは諦めの境地から 遠きにありて思う だけで、 観察や記憶の対象にはならず、おそらく過去に何度も一緒に乗務したに違いない 塩飽 「 デス 」 の顔写真を見ても、さっぱり記憶に残ってないとのことでした。もしかしたら 加齢により、とうとう認知症が発病したのかも知れません?。
「 デス 」 の数も今でこそ外国籍や、ロンドン、上海など外国基地所属の 「 デス 」 を含めて、会社に 四千五百人程度はいるものの、その当時はせいぜい 二~三百人程度でした。
当時結婚適齢期にあった副操縦士の中には、飛行機の機体構造や、緊急時の操作手順などに関する知識欲は無いくせに、 「 デス 」 に対する情報収集意欲だけは非常に旺盛で、 ヒマさえあれば これはと思う 「 デス 」 の出身校、家族構成、趣味、性質、外見による バストの 大 ・ 中 ・ 小 の評価に至るまで熱心に ノート に控えるなど、個人情報の収集、研究をしていたのがいました。金野氏も今になっては 「 デス 」 について もっと関心を払い、顔を記憶しておけばよかったと後悔したそうです。( 続く )
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コメント
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こんにちは
小学校6年生の夏休みに、阪急園田駅前の園和小学校へ転校してきて、伊丹の飛行場へ自転車ですぐ行け、俄然航空ファンになったのですが・・・
担任の先生が塩飽先生でした。
色浅黒く眼光鋭どかったので、きっと瀬戸内海の海賊の子孫だと、いまでも勝手に思っています。
投稿: Y.S | 2007年11月27日 (火) 19時34分
ごぶさたしております。
東京にいた息子が大阪に転勤になり、阪急園田駅と園田競馬場の中間にある園田三丁目にしばらく住んでいたので、園田競馬の開催日には道路が混雑したのを覚えています。
ところで塩飽と聞いて海賊を連想するあたり、しろうと とは思われず、備讃瀬戸 ( びさんせと、備前と讃岐との間の多島海 ) などを ヨットで航海した経験でも おありですか。
投稿: Y.O. | 2007年11月27日 (火) 20時59分
備讃瀬戸の経験はありませんが、小型船舶免許の実地試験を幹部候補生学校横の江田島湾?で何日か練習して、宇品港経由宮島往復を海図とコンパスのみで航行したことがあります。
周囲がぜんぶ島々で航路がわからず往生しまた。
国産のレジャー用GPSはSONYが初めて市販した年だったと思います。
信頼性の点で、湾岸戦争で多数米兵が使用したというマゼラン製をアメリカ(WestMarine)から通販で買いました。
ずいぶん円高でしたので(一時80円台)、国内で17~18万のものが6~7万円で買えたと思います。
その後のケータイなど、急速な普及にはおどろきました。
投稿: Y.S | 2007年11月29日 (木) 14時28分