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2007年12月29日 (土)

患者輸送 ( その2 )

[  患者の帰国輸送 ( Stretcher repatriation ) ]

金野内蔵氏から聞いた話によれば、ある年の冬のこと北米の ニューヨークから成田まで ストレッチャー ( 簡易 ベッド ) で、寝たきりの患者を輸送することになりました。

飛行計画の段階で運航管理者から得た情報では、ストレッチャーによる患者輸送があり、付き添いは 2 名で、うち 1 名は アメリカ人の看護婦で フライト ・ ナース ( Flight Nurse 、飛行看護婦  )  の資格を持つとのことでした。

Medicalrepatriation_2

出発準備の為に飛行機に搭乗すると、既に エコノミー  ・ クラスの機体右側窓際に装備された ストレッチャーには  50 才台の日本人の男性患者が寝ていて、奥さんと アメリカ人看護婦が添乗していました。

機内点検の際に患者の顔を チラット見ると、いわゆる 「 ガン相 」 をしていて、素人が見ても長くは生きられそうにもない様子でした。なお写真では患者が丸見えですが、実際は カーテンで視線をさえぎることができます。

向かい風の強い冬期のため成田までは 14 時間かかりましたが、その間機内では 栄養補給 ・ 水分補給と痛み止めの点滴を連続して看護婦がおこなっていたそうです。

Kyukyusha 成田到着後は機側から ハイ  ・  リフト  ・  トラックで地上に降ろし、C I Q ( Customs、 Immigration、Quarantine 、税関 ・ 入国審査 ・ 検疫 ) の手続きを書類審査で済ませてから、待機していた救急車で神奈川県内の自宅に移動しました。

成田到着後 スチュワーデスから聞いた話によれば、患者は ニューヨークに長年住んでいましたが手遅れの 膵臓 ガンになり、日本で死にたいので帰国したのだそうです。

派手な色を塗った車体が飛行機の床の高さの地上高  3 メートルまで上昇し、ストレッチャーの積み降ろしをしました。

ところで前回述べた オシム元全日本 サッカーチーム監督の病状が回復に向かったそうですが、手足に 「 運動障害 」 が残ったのかどうかは現段階では不明です。

仮定の問題ですが脳梗塞を患い入院していた彼が、もし寝たままの状態で 旧 ユーゴスラビア連邦で、現 ボスニア ・ ヘルツェゴビナ ( Bosnia Herzegovina ) にある故郷の サラエボ ( Sarajevo ) に帰るとしますと、選択肢が三つあります。

[ その 1、医療輸送専用機の チャーター ]

Kikai 日本には無いと思いますが、世界には患者の海外輸送を専門におこなう飛行 サービス会社が数多く存在していて、24 時間対応しています。

小型の専用 ジェット機を所有し、フライト  ・ ナース ( Flight Nurse 、飛行看護婦 ) の資格を持つ看護師や、必要な場合には医師も添乗します。

チャーター費用は飛行距離や必要とする サービスの内容により大きく変わりますが、千万円単位の費用が掛かります。

Assist 利点としては乗り継ぎなどの時間が節約できること、病院の I CU  ( 集中治療室 ) 並みの機内看護が飛行中も可能なことで、顧客になるのは外国で重病や 大 ケガ をした富豪 ・ 企業の現地駐在員 ・ 外交官本人や、それらの家族たちです。

[ その 2、国際線機利用による輸送 ]

金野氏の例のように目的地に直行できる場合にはこの方法が費用の面で格安ですが、成田から サラエボには直行便を運航する航空会社が無いので、乗り継ぎになります。

Saraebo 一例として成田から  オシム氏の故郷である サラエボに患者を運ぶ場合を考えますと、成田発11 時 50 分の全日空 285 便 ( オーストリア航空 052 便との共同運航 ) の ウイーン ( Vienna ) 行きに乗ると、11 時間 10 分後に現地時間の 16 時に ウイーン国際空港に到着します。

そこから サラエボ ( Sarajevo ) までは日に 2 便しか出ていないので、乗り継ぎの時間待ちを 4 時間することになります。

ウイーン発  20 : 05 分の オーストリア航空 759 便に乗ると、1 時間 15 分後の  21 時 20 分に サラエボに到着します。つまり成田から サラエボまでの所要時間は、乗り継ぎを含めて 16 時間近く掛かります。これは寝たきりの患者にとっても、かなり辛いことです。

費用としては簡易 ベッドを装備すればその分の座席が使用できなくなるので、 正規運賃の最大 9 人分、最小でも 6 人~8 人分が必要です 。ストレッチャー設定の事前連絡調整や乗り換えの手続き、C I Q  ( 税関 ・ 出入国管理 ・ 検疫 )  などの書類関係は、専門の国際輸送 サービス会社に依頼して、その道の  プロが担当することになります。

[ その 3、医療 エスコー ト・ サービス ]

患者の回復が順調で車椅子による移動が可能な状態になった場合には、旅行中の万一の事態に備えて看護師、医師などの医療 スタッフによる、メディカル ・ エスコート ・ サービス ( Medical Escort Service  ) を依頼することができます。

当然のことながら日本人患者には、日本語を話せる医療 スタッフが当たります。

Airescort 多くの航空会社では ファースト ・ クラスの座席は フル ・ フラット ( 完全水平 ) が可能なので、ストレッチャー無しでも患者の肉体的負担は少なくて済みます。

費用としてはファースト ・ クラスの人数分の座席料金 プラス、医療 スタッフの帰りの航空券、ホテルの宿泊費、それに医療 スタッフの 資格 ・ 職務 により所属基地を出てから戻るまで、人件費が 1 人 1 日当たり、5 千 US ドル ( 40 万円 ) から、1 万 US  ドル ( 80 万円 ) 程度必要になります。

かなりの出費ですが、小型 ジェット機を チャーターするよりもはるかに経済的で、そういう事態を カバーする保険もあります。

今年も皆様から ブログに訪問していただき、ありがとうございました。2007 年の ブログもこれで終わりですが、どうぞ良い年をお迎え下さい

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2007年12月22日 (土)

患者輸送 (その1)

Oshimu サッカー日本代表の監督をしていた イビチャ・オシム ( 66 ) 氏が、11月16日に千葉県内の自宅で急性脳こうそくで倒れ、同県浦安市の順天堂大浦安病院の脳神経内科・脳神経外科に緊急入院しました。集中治療室  ( ICU ) で治療を受けていましたが、12月5日に意識が回復したとのことでした。しかし歩けるような状態ではありません。

この例に限らず国内旅行中に発病したり事故に遭うなどして、寝たきりの状態のままで、旅先から帰宅せざるを得ない場合があります。

Daitaikotsu 金野氏から聞いた話によれば、ある年の二月に大阪から札幌の雪祭りを見物に行った七十才台の男性が雪道で滑って転倒し、大腿骨 ( だいたいこつ ) 骨折の重傷を負いました。
この ケガは高齢者が転倒した際に多く発生するそうですが、骨を接合する為には専用の チタン製の金具を埋め込んで、ネジ ( スクリュー ) で固定し、さらに ギブスを股の付け根から  「 くるぶし 」 までするそうです。となると歩行はもちろん、排尿などもままなりません。上はレントゲン写真。

Kanjiki 慣れない雪道を底が平らな皮靴で歩いて滑ったのが原因でしたが、そういう事故が雪国以外から来た観光客に多いので、冬になると札幌空港の売店には靴に ゴム・バンド で着脱可能な 「 滑り止め 」 を売っていました。

金野氏が一昨日、大阪-東京間を所用で日帰りした際に見た機内の カタログ誌に、同じような種類で スノウ & アイス・ウォーカーという名前の  「 滑り止め 」  商品の広告写真がありました。

ところで骨折患者は状態が安定した 二週間後に札幌空港から直行便で大阪伊丹空港に帰ることになりましたが、旅客機の客席には ストレッチャー( Stretcher、 簡易 ベッド )を装備することが可能になっています。窓側にある座席 前後 三列を平に寝かせてその上に専用金具を組み立てて キャンバス製の ストレッチャーを、固定するのです。その為には窓側から横に並んで三席ある座席も使用できなくなるので、当然その分を含めて最大で 九人分の運賃を支払う必要があります。

つまり札幌-大阪伊丹間の片道料金 35,000円 掛ける九名= 315,000円 であり、そのうえ病院から札幌空港までと、伊丹空港から病院までの民間救急車の費用も必要ですが、その費用は葬儀の霊柩車 ( れいきゅうしゃ ) 並みに高額です。救急車で駐機場に入り、飛行機に乗る際には通常 機内食、飲み物、サービス用品の搭載に使用する機体最前方右側の ドア ( R-1、ドア ) から機内に入りますが、 ハイ・リフト・トラックで  ストレッチャーごと、 三 メートル以上の高さまで持ち上げます。

さらに駐機場は立ち入り制限区域なので、緊急時以外は空港事務所へ事前申請の手続きが必要になります。

雪道での転倒による ケガだけでなく、冬は本州から パウダー・スノウ  を求めて滑りに来る スキーヤー、スノウ・ボーダーの骨折、衝突によるケガも多く、ストレッチャーによる患者輸送の機会が増えます。旅先で骨折などの ケガをすると輸送費を含めて、 なにかと 「 もの入り 」 です。

Stretcher1 英語の ストレッチャー ( Stretcher ) とは患者を運ぶ担架  ( たんか ) のことですが、座席に設置した ストレッチャーも担架のようなものであり、寝心地が良い ベッドではありません。前述のごとく 金属製の パイプ に キャンバスを張っただけなので、患者の肌にはキャンバス布地が当たります。そこで毛布、シーツなどを一枚下に敷いて患者を寝かせます。

フトン代わりに上にも毛布を一枚掛けますが、担架 ( たんか ) には枕など無いので機内の膝掛け毛布を畳んで代用にします。写真では頭の部分を高くしてありますが、完全水平にもなります。

これで ベッド は出来上がりですが、周囲の乗客からの好奇の視線を遮るために周囲に カーテンを張ります。九人分の座席には狭いながらも座れるスペースができるので、付き添いの家族や、重病人の場合には看護師、医師が添乗する場合があります。

では遠く海外から日本へ、あるいは日本から海外に、寝たきり状態の患者を運ぶにはどうするのでしょうか?。( 続く )

2007年12月15日 (土)

共犯者の デス

Nathanroad ホンコンは平成九年 ( 1997年 ) に中国に返還されるまでは、百五十七年間 イギリスの植民地でした。その住民は ホンコン人と呼ばれていて、宗主国の イギリス人をはじめ ホンコン在住の イギリス連邦( The British Commonwealth ) 諸国 ( カナダ、ニュージーランド、オーストラリア など ) の人々よりも、低く扱われていました。写真は繁華街を通るネーザン通り。

ホンコンに本拠地がある キャセイ・パシフィック航空ではその当時、人件費が安い ホンコン人の スチュワー「 デス 」 を雇っていましたが、ホンコン人の パイロットは一人もいませんでした。メシ運びの給仕人には採用するが、将来 イギリス系の乗客、乗員に対し指揮権を持つ機長に、植民地の住民をさせてはならない。これが長年の植民地政策に基づく、イギリス人の考え方でした。

Uradoori 金野内蔵氏によればその昔、成田基地所属の 「 デス 」で、ホンコン人と結婚した B子さんがいました。彼女がどのような経緯で結婚したのか分かりませんが、彼女の夫は観光客相手の貴金属、土産物の店を、観光客が多く集まる九龍 ( Kowloon ) 地区の 尖沙咀  ( ツィム・シャ・ツイ、Tsim Sha Tsui ) にある繁華街の ネーザン通りから裏通りに入った所に、小さな店を構えていました。

Ruibiton 成田から ホンコン便の乗務は、現在では往復の飛行時間が 七時間半の日帰り便ですが、その当時は片道だけを飛ぶ ホンコンの泊まり便でした。 デスは外国の化粧品を買ったり、ホンコンの最高級 ホテルである ペニンシュラ・ホテルの 一階  (  イギリス流の表現では グラウンド・フロア )  にある ルイ・ビトンなどの ブランド店で、 バッグなどの ブランド物を買う者もいました。当時は日本で買うよりも、二割も安く買えるという買い物天国でした。

ところで デス同士のうわさ話で B子 元 デスの店に行けば、貴金属製品が安く買えるらしいという情報が流れ、金の ネックレスや指輪などをその店から買って帰る デスがいました。その店では貴金属製品以外にも象牙でできた彫り物や、大理石の花瓶、中国の山水画の掛け軸などがあり、乗員の中にも土産に買って帰る者もいました。、

Yubiwa ところが  パイロットの C さんは愛妻の為に金の指輪をその店で買い求めましたが、奥さんが喜んでその指輪をはめていたところ、二ヶ月も経つと指輪の所々に金色が剥げてきて黒い地金が現れて来たのだそうです。まんまと偽物の金の指輪を買わされたのでした。

D 副操縦士は高価な象牙の彫り物を買って帰りましたが、骨董品に詳しい近所の人に見せたところ、ひと目で  プラスチック製だといわれました。象牙にしては重さが軽いし手触りが違うとのことで、 教えられたままに半信半偽で目立たぬ箇所を削り取り、火に近づけると プラスチックが焦げる際の独特の刺激臭がしました。詳しい人によれば、象牙であれば タンパク質が焦げる臭いであり、爪や髪の毛を焦がす臭いと同じとのことでした。

結局その店から買った商品はほとんどが偽物でしたので、それ以後はその店で買い物をする デスも乗員もいなくなりました。B子 元 デスはそれまで一緒に働いていた職場の同僚に、平気で偽物を売りつけては 大金を稼いでいました。彼女は亭主に仕込まれたのか (?) 知りませんが 中国人や ホンコン人と同様に、だます方よりも、だまされる方が悪いとする倫理観の持ち主でした。

ところが悪事は長続きしないもので、一現 ( いちげん ) の観光客を相手に偽物を売っていた店の経営がうまく行かなくなり、一年半で店を畳むことになましたが、B子 元 デスも日本語を話す利用価値を失った為に亭主から使い捨てにされ、離婚して日本に帰ったらしいとの ウワサでした。

Yamasato1 ところで気が強い  「 山の いも女房 」 どの に 尻の下に敷かれている金野氏に、ホンコンで何を買ったのか尋ねたところ、 「 山 いも女房 」 は栃木県の 僻地 ( へきち ) で育っただけに、金の指輪や ネックレスなどの装身具にはさっぱり興味がなかったので、何も買わなかったとのことでした。 「 不幸中 」 の さいわい と言うべきでした。

2007年12月 8日 (土)

なお子 デス

昭和四十年代のこと、会社に なお子という スチュワー「デス」がいましたが、今回は彼女のことです。当時の パイロットの勤務形態は 四・一・四・二 といって、四日勤務すると一日休み、四日勤務で二日休み で休日は月に 十日でしたが、現在の国内線では 三・一・三・二 に変わっています。

デス の勤務形態は知りませんでしたが、なお子 デスとは偶然にも一緒に乗務する機会が多かったので、 デス の顔や名前に無関心だった金野内蔵氏も、なお子 デスのことだけは記憶していたのだそうです。それに当時は私鉄の駅近くに スチュワーデス寮があり、金野氏もその近くに住んでいたので、駅前の商店街で顔を見たことがありました。そのうちに彼女は退職しましたが、うわさによれば タイ人と結婚して タイに渡ったとのことでした。

Orientaru ある年に女房の実家から母親を呼び小学生だった 二人の子供の世話を頼んで、夫婦で タイと マレーシアに海外旅行に行きましたが、団体旅行ではなくいつものように個人で飛行機、ホテルの手配をする個人旅行でした。タイでは サービスが良いので国際的にも有名な オリエンタル・バンコック・ホテルに泊まることにしましたが、 チェックインのためにフロント・デスクに行くと、そこには なお子  デスがいたので、金野氏も彼女も驚きました。

彼女は タイ人の夫の世話で オリエンタル・ホテルに勤務し、接客係 アシスタント・マネージャーをしているとのことでした。このホテルでの チェックインの手続きは高級 ホテルらしく各自の客室でおこなう仕組みで、部屋に行くと南国特有の良い香りのする蘭が飾られ、テーブル上の フルーツ・バスケットには果物が山盛りにされていました。すると バトラー ( Butler、執事 )が マネージャーからの メッセージと、ボーイが ウエルカム・ドリンクを持って部屋に来ましたが、バトラーはこの部屋の担当だと自己紹介をしました。

Tai3dan なお子  デスの メッセージには エアライン・ディスカウント ( 航空会社の従業員割引 ) よりも更に割引して、部屋代を半額にしますと書いてありました。当時の部屋代がいくらだったか忘れましたが、その頃は  「 バンコクの帝国 ホテル 」 といわれていたので、現在の貨幣価値に換算すれば 一泊四万円程度はしたはずです。三泊したので なお子 デスのお陰で、ホテル代をかなり節約することができました。( 感謝 )

Chaopra この ホテルは チャオ・プラヤ川に面して建てられた ホテルですが、もともとは川を上り下りする旅人の船宿として建てられたものだそうで、ホテルのすぐ前には船着き場があり、対岸への渡船は宿泊客には無料でした。あれから四十年近く経っているので なお子 デスも仕事を辞めた年齢と思いますが、バンコクの地にしっかりと根を下ろして生き続けることでしょう。彼女に限らず外国人と結婚して世界各地に行き、そこで生活の根を下ろした 「 大和なでしこ 」 の姿を各地で見ましたが、その精神力の強さ、行動力には脱帽しました。

2007年12月 1日 (土)

六十才の デス ( その二 )

Setochuuou 前回は塩飽 ( しわく ) デス が六十才まで飛び続けたことを書きましたが、塩飽という名前を聞くと、海事関係者であれば、瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島 ( しわくしょとう ) や塩飽水軍を連想します。塩飽諸島とは岡山県と香川県に挟まれた西備讃瀬戸 ( にしびさんせと 、備前と讃岐 ) に浮かぶ、大小合わせて二十八の島々からなり、本島 ( ほんじま ) が中心です。赤の矢印は本州と四国を結ぶ三本の橋の一つである瀬戸中央自動車道で、黄色の矢印は江戸時代に塩飽勤番所があった本島です。塩飽 ( しわく ) の名前の由来については、

その一、「 塩焼く」 説
古くは万葉集に 「 藻塩 ( もしお ) 焼く 」 とあるように、古代の製塩法は海水に浸した 海草の ホンダワラ を乾燥させるという工程を繰り返して、塩分濃度を高めた鹹水 ( かんすい、塩辛い水 ) をつくり、最後に土器で煮詰めて塩を採るというものでした。塩田による製塩法は、奈良時代後期に始まったと考えられています。

その二、「 潮湧く」 説
二十八もある島々の間を流れる潮流が潮の干満により速くなり、あたかも潮が湧き立つようなので 「 潮湧く 」 と名付け、そこから塩飽 ( しわく ) になったとするものです。

Shirai ところで 「 デス 」 出身の関西の有名人には尼崎市長の白井・文  ( しらいあや、旧姓 久保田 )  さんがいますが、金野氏は彼女とも昭和五十四年 ( 1979年 ) から平成二年 ( 1990年 ) まで十年間、同じ大阪伊丹空港基地に所属していたために、何度も一緒に乗務したはずでした。しかし前述の如く女性に モテナイ 男の代表格でした金野氏は、女性の顔にはさっぱり関心がなかったので、会社の忘年会の席で同僚から 久保田 ( 現 白井 ) さんが最初に尼崎市の市会議員になった話題が出ても、 どんなこ ( 娘 ) だったのかさっぱり見当がつかなかったそうです。

Seremoni パイロットや  デス  が定年退職する最後の飛行を ラスト ・ フライトといいますが、金野氏の場合は めっぽう気が強い  山 いも 女房 どのを客席に乗せて、成田から ホンコン泊まりの フライトをしたそうです。

四大卒業後 三十八年間  デス  として飛び続けた塩飽  デス の ラスト ・ フライトの出迎え セレモニーには、百名以上の  デス  が集まり、後輩の  デス  たちから沢山の拍手と花束をもらっていました。

なお当日は 羽田 と上海の新しい 空港 ( 虹橋空港 ) とを結ぶ 初便の出発 セレモニー があったために、 深く切れ込んだ スリットのある チャイナ・ドレス を身にまとった 豊かな肢体の後輩  デス たちも出迎えました。

Oshitone 彼女が入社した当時の  デス  の定年は、江戸城大奥の おしとね 辞退 と同じ 三十才でしたが、その後 段階的に延長され、今では 六十才となりました。しかも昔は未婚が絶対の条件でしたが、現在では結婚している  デス  は当たり前で、子持ちや、なかには孫持ちの グランマ ( Grand -ma、お婆ちゃん ) デス もいる ご時世になりました。

Kotobuki ちなみに彼女の総飛行時間は 二万三千五百十二時間四十七分で、一日 二十四 時間飛び続けたとして 九百八十日の間 飛び続け、飛行距離にすると地球を 四百七十 周したことになるそうです。日本航空の永島さんと同様に 、塩飽 ( しわく ) さんも 十人並み以上の容姿でしたが、家庭に入る幸せよりも  デス  の仕事を続けることを選び 独身を通しました。退職後の人生が幸せであるように、陰ながら祈ります。

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