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2008年1月25日 (金)

乗組員の職業病

Photo 昭和40年 ( 1965年 ) 当時、日本航空では国内線に プロペラ機の DC-4 や国際線から転用した DC-6B を使用し、全日空では ターボ ・ プロップ機  ( ジェットエンジンで プロペラを回す方式 ) の  F-27 や、戦後初の国産旅客機である YS-11 を使用していました。

プロペラ機の飛行高度は現在の ジェット機が飛ぶ高度の 三分の一 から 半分程度で、 せいぜい 三千~五千 メートル前後でしたが、飛行機が降下を開始する度に、スチュワー「 デス 」 が アメ玉や チューインガム を乗客に配っていました。その理由は客室の与圧性能が低く、飛行中の客室の気圧と地上との気圧の差が大きいので、耳が痛くなるのを防ぐためでした。

パイロットや 「 デス 」 が罹る 職業病の一つに 「  航空性中耳炎 」 がありますが、私も何度か罹ったことがありました。 会社ではこの病気は クルー( 乗組員 ) に対しては、公務傷病扱いになっていて、有給の病気休暇がもらえました。

[ 鼓膜の内外にかかる空気圧 ]

Komakujikan1 地上では耳の鼓膜の外側には大気の 「 一気圧 」 がかかりますが、鼓膜の内側 ( 内耳 ) にも鼻の孔から耳管を通って空気が通じています。つまり鼓膜  ( Ear Drum ) が正常に働くためには、両側の気圧が同じでなければなりません。

ところで耳管の構造は、内耳  (  鼓膜の内側  )  の空気圧が高い場合には、耳管を通って圧力 が自然に鼻に抜けますが、逆の場合には鼻から 耳管を通じて内耳には、空気の圧力が自然には抜けにくい構造になっています。そのため飛行機に乗って耳が痛くなる現象は、常に降下の場合にのみ多く起きます。

鼻風邪を引いた場合など副鼻腔炎などを起こすと、鼻の粘膜の炎症が耳管にも及び、鼻と  「 鼓膜の内側 」 を結ぶ耳管の粘膜が腫れて一部が狭くなり、甚だしい場合には空気が通じなくなる耳管の狭窄 ( きょうさく )、つまり耳が詰まる現象が起きます。

通常はあくびをする時のように大きく口を開けて、耳管の空気の通りをよくしたり、息を吸い込んでから口を閉じ、鼻をつまんで内耳に圧力を掛ける 「 バルサルバ法 」 を行い、耳抜きをします。普通はこれで簡単に鼓膜の内外の圧力差を無くすことができますが、アメを舐めたり チューインガムを噛んだりして、アゴを動かすのも良い方法です。

[ 耳詰まりの症状 ]

Onnakanja 上空で耳詰まりが抜けないままで地上に降りると、鼓膜の外側には大気の 一気圧が作用しますが、内側には高空における客室の ( 例えば )  0.8気圧の 低い空気圧が閉じ込められたままのため、鼓膜の内外に圧力差を生じ、圧力の低い内側に向かって鼓膜が押されことになり 耳が痛くなります。そのままにしていると鼓膜が赤く充血し、数日後には甚だしい場合は内耳に液が滲み出てきて鼓膜の内部に水が溜まり、ポチャポチャ 音がするそうです。

[ 治療法 ]

そうならない前に耳鼻科に行くと、私も経験がありますが、鼻から金属製の細い パイプを耳管に入れて、加圧した空気を送り狭窄  ( きょうさく )  した耳管を強制的に開かせて、鼓膜にかかっていた 「 負圧 」 を取り除く 「 耳管通気法 」 の治療をします。これにより内耳の圧力が一時的に大気圧より高くなっても、自然に空気が鼻に抜けるので問題はありません。

Gaijinkanja 金野氏から聞いた話によれば、ロンドン行きの便で 「 デス 」 の一人が、降下の際に耳詰まりを起こしたことがあったそうです。到着後 耳鼻科の医者に行き、英語で イヤー・ブロック ( Ear Block )  という耳詰まりを、耳管通気法で治療してもらい、三日後には一緒に飛んで帰ったとのことでした。風邪気味で飛行機に乗るのは、耳詰まりを生じ易いのでご用心を。

2008年1月19日 (土)

突発性難聴のこと

我が家の 「 山のいも 」 女房は 朝、昼の テレビの ワイドショウはもちろんのこと、歌謡番組もよく見るので、芸能界の情報は実によく知っています。

Hamasakia 彼女によれば 最近 「 浜崎 なにがし 」 とかいう女性歌手が、突発性難聴になって片方の聴力を失ったとのことでしたが、金野内蔵氏の家の近くに住む 六十才代の女性二人も最近 突発性難聴になり、一人は片側の聴力を完全に失い、もう一人の人は全快しました。

金野氏によれば、彼自身も 二十年近く前に、突発性難聴に罹ったのだそうですが、彼の場合は以下の状況でした。

大晦日に 二泊三日の フライトから帰宅すると、 女房に荷物持ちを命じられて車で スパーへ買い物に行きました。めぼしい荷物を車に運び彼女が更に買い物をする間は、車の中で ラジオを聞いて待っていました。

Rajioka 女房が買い物を終えて車に戻ると、ラジオの音が大きいと言いながら音量を絞りました。夜になって居間の コタツ で テレビを見ていると、彼女から再度 テレビ の音が大きいと注意されました。金野家の テレビでは通常は画面に出る音量の目盛りを 「 17 」 にしていましたが、注意された時には目盛りが 「 22 」 になっていたそうです。

飛行機が高空に上昇するにつれて客室の気圧が低くなるので、鼓膜が一時的に外側に膨らむような感じがしますが、左の鼓膜がそれと同じような感じが常時したそうです。

女房は NHK の紅白歌合戦が大好きなので、紅白が嫌いな金野氏は居間の指定席を明け渡し、自分の書斎に場所を変えました。静かな場所で何の気なしに、腕時計の秒針の動く音を左耳で聞こうとしましたが、音が全く聞こえませんでした。慌てて右耳を確かめると、こちらは正常に カチカチの音が聞こえてきました。これはえらいこっちゃ、片耳では パイロットを失業だぁ

そこで大晦日の夜に耳鼻科の外来診療をしてくれる病院を電話で探すと、兵庫県尼崎市の医療 センターには休日診療所があり、年末年始も毎日九時から翌朝六時まで、休日診療していることを教えてくれました。

午後九過ぎに車の通行も極端に少なくなった国道を、尼崎市 水堂町三丁目へと車を走らせましたが、休日診療所は大晦日だというのに、赤ん坊や小さい子供の外来患者で一杯でした。

Kensas 待たされてから検査室で聴力検査を受けた結果は、左耳はほとんど聞こえないが、右耳は正常でした。耳鼻科の医師から告げられた病名は突発性難聴  [ Sudden Deafness 、突然の聾 ( ろう )]  であり、厚生省 ( 当時 ) 指定の難病で原因は不明、従って治療法も手探りとのことでした。写真は検査 ブース ( Booth ) ですが、この防音箱 ( ? ) の中で、低音は125 ヘルツ ( HZ ) から高音の 8000 ヘルツ ( HZ ) までの範囲で、各周波数段階での聴力の検査を受けました。

内耳器官の炎症治療に有効とされる ステロイド剤の点滴を受け、飲み薬をもらいましたが、明日 ( 元日 ) の朝 九時に兵庫県西宮市 武庫川町にある、兵庫医大病院の耳鼻科で受診できるように手配してもらい家に帰りました。その途中で車の ラジオから除夜の鐘の音が、「 片方の耳 」 だけに聞こえてきました。

Tentekia 会社を休んで 七日間病院に通い点滴と飲み薬をもらいましたが、治療の開始が早かったことで聴力の回復も早く、耳鳴りなどの後遺症もなく幸運にも聴力は正常に戻りました。機長に対して半年ごとに行われる厳重な航空身体検査にも合格し、定年まで飛行機を飛ぶことができました。

最初に述べた片側の聴力を完全に失った女性の場合は、耳がおかしいのを 一週間以上放置していたとのことで、聞こえなくなってから 三週間入院しましたが、手遅れで聴力は元には戻りませんでした。突発性難聴は 「 聴覚の神経を冒す病気 」 なので、聴力に異常を感じたら、金野氏の場合のように一刻を争って耳鼻科の医師の所へ行くことです。

「 浜崎なにがし 」 の件も、本人や周囲の人の 健康管理についての怠慢から、歌手の生命である大事な聴力を半分失いましたが、この事態は貴方にとっても他人事ではなく、 原因不明の病気なので 「 明日は我が身 ? 」 かも知れませんよ。

2008年1月12日 (土)

目明きの、 ヘレン・ケラー

私は生来音痴なので カラオケで歌える歌といえば、子供の頃に覚えた軍歌と 「 北国の春 」  しか、 レパートリー がないので、 「 山のいも 」 女房に馬鹿にされています。

Daiku なにしろ彼女は以前から地域の コーラス・グループに所属して毎週一回練習していますが、彼女の自慢話によれば、その昔 ベートーベンの交響曲 第九番 ニ短調 作品125 の 第四楽章  「 歓喜の歌 」を 、 「 ドイツ語 」 で合唱したことがあるのだそうです。

知らない人がこれを聞けば、 ドイツ語を含む外国語の素養が十分にあると思われるでしょうが、海外旅行の際に使う 「 山のいも 」 女房の得意な英語といえば、 ディスカウント ( まけろ ) 、モア・ディスカウント ( もっと まけろ ) だけでした。

彼女を連れて何度も外国へ個人旅行に行きましたが、日頃の心臓の強さから外国でも ものおじしない態度で、身振り手振りに英語の僅かな単語、それに 「 日本語を交えて 」 買い物をして、不自由を感じていませんでした。彼女いわく、 「 私の言うことが分からないのは、相手が悪いと思えば、なんともないよ 」 でした。

ところで彼女の語学力とは アメリカの 盲 ・ 聾 ( ろう ) ・ 唖 ( あ ) ・ の 三重苦の聖女  ヘレン・ケラー ( Helen Keller  、1880~1968年 ) と同じで、英語が、読めない ・ 聞こえない ・ 話せない状態でしたが、それでは 第九の 「 歓喜の歌 」 の合唱の際に ドイツ語はどうしたのかと聞くと、譜面に カタカナを記入してそれを読んで歌ったと平然と答えたので、女は 「 度胸 」 と感じました。

日本では ベートーベンの 交響曲 第九番の演奏は暮れの風物詩になっていますが、外国ではそうではありません。この曲が日本で最初に演奏されたのは 大正七年 ( 1918年 ) 六月一日のことでしたが、演奏者はなんと ドイツ人捕虜たちであり、場所は彼等を収容していた俘虜 ( 捕虜 ) 収容所の中でした。

Shuyosho 第一次世界大戦の際にドイツの租借地でした中国の青島 ( チンタオ ) には 五千人近い ドイツ兵がいましたが、捕虜のうちの 千名を徳島県板野郡坂東町檜 ( 現在の鳴門市大麻町檜 ) にあった 「 板東俘虜収容所 」 に大正六年 ( 1917年 ) から大正九年 ( 1920年 ) 年まで収容しました。

収容所長 松江大佐の寛大な方針により両国の文化、技術交流や、音楽活動が盛んで、捕虜たちによる 「 徳島 オーケストラ 」 や、「 エンゲル・オーケストラ 」 、さらには吹奏楽を中心とする 「 シュルツ・オーケストラ 」 もあって、板東だけでも 百回以上の コンサートが開かれましたが、第九の演奏会もその延長上でした。

Dai9atochi 軍楽隊長 ハンゼンの指揮で 「 M・A・K ( 沿岸砲兵隊 ) オーケストラ 」 が収容所内で、八十人の合唱団の賛助出演を得て、べートーベンの 「 第 九 」 を全曲演奏したのだそうです。

歩いて四国遍路をした際に、霊場 一番札所の霊山寺から 二番札所極楽寺に向かう途中から少し外れた所に、板東俘虜収容所の跡地がありましたが、団地の公園になっていて、左側の柱には ベートーベン、 「 第九 日本初演の地 」 と書いてありました。

では日本人による初演奏はいつかといえば、徳島に遅れること七年後の 大正十四年 ( 1925年 ) 十一月の東京音楽学校 ( 現東京芸大 ) の定期演奏会でした。日本でなぜ 第九を年末に演奏するようになったのかといえば、いろいろな説がありますが、そのうちの一つに 正月の 「 餅代稼ぎ 」 とする説もありました。

昭和六十年 ( 1986年 ) 頃までは クラッシクの演奏会に客が集まらず、交響楽団の団員は正月の 餅代にも事欠く有様だったのだそうです。そこで考え出されたのが合唱団を含む多くの演奏者が参加できる 第九の演奏で、それが多くの交響楽団の間に広がっていったというものです。

うーむ、 モチ代稼ぎとは説得力がありますなぁ !。

2008年1月 5日 (土)

年末年始、雑感

おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

Katagawa 皆さんは年末年始をどのように過ごされましたか?。年末年始を海外で過ごしたり、飛行機で帰省された方もおられたと思いますが、航空会社にとっては年末年始は かき入れ時ですが、夏休みほどではありません。

その理由は高速道路の渋滞状況と同じで、年末は下り便が混雑し、年明けから上り便が混むという 主に片道しか混まないので、売り上げ額は思ったよりも増えないのです。

パイロットを含めて航空会社の従業員とは、入社した時から土曜、日曜、春休み、夏休み、年末年始など、他人が遊ぶ時ほど忙しくなる因果な商売なのですが、私が現役の頃には 元日に休むことができたのは、三年に一度の割合でした。

そのかわりに年末年始 ( 29日 ~ 3 日 ) に出勤した人には、一日当たり 一万円の特別出勤手当が付きました。

新聞広告などで正月を ホテルで過ごす プランをよく見ますが、年間に 120日から 135日を国内、海外の ホテルで過ごす パイロットからすれば、正月や クリスマス を都心の ホテルで過ごすと、 どこが良くて何が面白いのか理解に苦しみます。

ところで昭和47年 ( 1972年 ) に沖縄が日本に復帰した後も、 沖縄では日本本土の テレビ映像を リアル・タイムで見ることができなかったため、大晦日の NHK の紅白歌合戦の テレビ映像を録画した テープを、元日の朝の沖縄行きの飛行機に積んで運びました。

その結果沖縄では 24時間遅れの元日の夜に 紅白の テレビ放映があり、沖縄泊まりの乗員は紅白歌合戦を二度見ることになりました。

Nttoki 本土の テレビ映像がリアルタイムで見られるようになったのは昭和51年  ( 1976年 )  からで、中継用の マイクロ ・ウエーブ回線が鹿児島から視達距離  (  Line of Sight  ) の島伝いに沖縄本島まで完成したからでした。

ホンコンも日本の放送衛星が打ち上げられるまでは同じ状態でしたし、成田を朝 10時発の ホンコン行きの飛行機に、新聞の朝刊を毎日 貨物として大量に搭載して、ホンコンの日系企業や、邦人宅に 午後から夕方にかけて配る サービス会社がホンコンにありました。

ところでNHK の紅白を、私は 二十年以上見ていませんが、年を取ると 「 子供 」 が飛んだり跳ねたりする 「 学芸会 」 や、老いが目立つ ナツメロ 歌手の歌に対する興味が無くなったからでした。最近の テレビは お笑い芸人と称する大人が 「 悪ふざけ 」 をする、下品な白痴番組が多すぎます

Fujisawa そこで年末年始は テレビを見るよりも、市の図書館から借りてきた藤沢周平の時代小説を読むことに決め、除夜の鐘を聞きながらも読みました。彼はすこし暗い陰のある作品を書きましたが、十年まえに亡くなりました。

元日には ウイーン ・フィル ( Vienna Philharmonic Orchestra )の ニューイヤー  ・ コンサートがありましたが、今年はあることを発見しました。それは女性の演奏家が、オーケストラの中にいたことです。

ウイーン・フィルは長年受け継がれて来た 自分達の 「 音 」  の伝統を守るため、 ウィーン音楽院出身の演奏家しか採用しない、 女性演奏家は採用しない、 使用する楽器は、オーストリア製のものに限る、現在の メンバーによる直接の指導を受けた演奏家に限る、 などとしてきました。

Josei しかし 150年にわたる 女性差別、有色人種差別の伝統  が国際的に非難されたので、1997年に初めて女性演奏家を受け入れ、2002年には小沢征爾が ウイーン・フィルとは近い関係にある ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任しました。

毎年の ニューイヤー・コンサートを注意して見た限り、これまで女性演奏家の姿は見当たりませんでしたが、今年初めて ハープ の前で バイオリンを弾く女性がいたことを確認したので、デジカメで証拠写真を撮りました。 女性不在の宮廷音楽士の流れを汲む伝統も、少しずつ変化してきました。

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