目明きの、 ヘレン・ケラー
私は生来音痴なので カラオケで歌える歌といえば、子供の頃に覚えた軍歌と 「 北国の春 」 しか、 レパートリー がないので、 「 山のいも 」 女房に馬鹿にされています。
なにしろ彼女は以前から地域の コーラス・グループに所属して毎週一回練習していますが、彼女の自慢話によれば、その昔 ベートーベンの交響曲 第九番 ニ短調 作品125 の 第四楽章 「 歓喜の歌 」を 、 「 ドイツ語 」 で合唱したことがあるのだそうです。
知らない人がこれを聞けば、 ドイツ語を含む外国語の素養が十分にあると思われるでしょうが、海外旅行の際に使う 「 山のいも 」 女房の得意な英語といえば、 ディスカウント ( まけろ ) 、モア・ディスカウント ( もっと まけろ ) だけでした。
彼女を連れて何度も外国へ個人旅行に行きましたが、日頃の心臓の強さから外国でも ものおじしない態度で、身振り手振りに英語の僅かな単語、それに 「 日本語を交えて 」 買い物をして、不自由を感じていませんでした。彼女いわく、 「 私の言うことが分からないのは、相手が悪いと思えば、なんともないよ 」 でした。
ところで彼女の語学力とは アメリカの 盲 ・ 聾 ( ろう ) ・ 唖 ( あ ) ・ の 三重苦の聖女 ヘレン・ケラー ( Helen Keller 、1880~1968年 ) と同じで、英語が、読めない ・ 聞こえない ・ 話せない状態でしたが、それでは 第九の 「 歓喜の歌 」 の合唱の際に ドイツ語はどうしたのかと聞くと、譜面に カタカナを記入してそれを読んで歌ったと平然と答えたので、女は 「 度胸 」 と感じました。
日本では ベートーベンの 交響曲 第九番の演奏は暮れの風物詩になっていますが、外国ではそうではありません。この曲が日本で最初に演奏されたのは 大正七年 ( 1918年 ) 六月一日のことでしたが、演奏者はなんと ドイツ人捕虜たちであり、場所は彼等を収容していた俘虜 ( 捕虜 ) 収容所の中でした。
第一次世界大戦の際にドイツの租借地でした中国の青島 ( チンタオ ) には 五千人近い ドイツ兵がいましたが、捕虜のうちの 千名を徳島県板野郡坂東町檜 ( 現在の鳴門市大麻町檜 ) にあった 「 板東俘虜収容所 」 に大正六年 ( 1917年 ) から大正九年 ( 1920年 ) 年まで収容しました。
収容所長 松江大佐の寛大な方針により両国の文化、技術交流や、音楽活動が盛んで、捕虜たちによる 「 徳島 オーケストラ 」 や、「 エンゲル・オーケストラ 」 、さらには吹奏楽を中心とする 「 シュルツ・オーケストラ 」 もあって、板東だけでも 百回以上の コンサートが開かれましたが、第九の演奏会もその延長上でした。
軍楽隊長 ハンゼンの指揮で 「 M・A・K ( 沿岸砲兵隊 ) オーケストラ 」 が収容所内で、八十人の合唱団の賛助出演を得て、べートーベンの 「 第 九 」 を全曲演奏したのだそうです。
歩いて四国遍路をした際に、霊場 一番札所の霊山寺から 二番札所極楽寺に向かう途中から少し外れた所に、板東俘虜収容所の跡地がありましたが、団地の公園になっていて、左側の柱には ベートーベン、 「 第九 日本初演の地 」 と書いてありました。
では日本人による初演奏はいつかといえば、徳島に遅れること七年後の 大正十四年 ( 1925年 ) 十一月の東京音楽学校 ( 現東京芸大 ) の定期演奏会でした。日本でなぜ 第九を年末に演奏するようになったのかといえば、いろいろな説がありますが、そのうちの一つに 正月の 「 餅代稼ぎ 」 とする説もありました。
昭和六十年 ( 1986年 ) 頃までは クラッシクの演奏会に客が集まらず、交響楽団の団員は正月の 餅代にも事欠く有様だったのだそうです。そこで考え出されたのが合唱団を含む多くの演奏者が参加できる 第九の演奏で、それが多くの交響楽団の間に広がっていったというものです。
うーむ、 モチ代稼ぎとは説得力がありますなぁ !。
« 年末年始、雑感 | トップページ | 突発性難聴のこと »
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
はじめまして、こんにちは。
「集団疎開」で検索したところ、御サイトにたどり着きました。
わたくしは昭和48年生まれの34歳、丁度団塊ジュニアの世代です。
祖父は軍隊の将校上がりで命を失う事はなかったものの、親類に戦災や徴兵先で失った者が大勢おり、祖母と古いアルバムを開いてはこの子はビルマで亡くなった、この叔母は空襲で亡くなった等を聞き、当時の親族の胸の内を思うと居た堪れない想いにかられます。
「戦争を知らない子供たち」という歌がありましたが、私たち世代以降は「戦争を知らないことすら知らない」世代だと思います。
大東亜戦争については諸説ありますが、自分の今の知識で思うのは、世界史の経緯から当時、日本として致し方のない外交手段であったと認識しております。それは祖父も存命の折わたくしに話しておりました。
ですがどういった経緯であれ、戦中戦後を過ごされた方々のご苦労は言葉に言い尽くせないものであり、私たち世代の平穏はその御苦労の上に成り立っているものであるという事を決して忘れてはならない事と思い、折に触れ機に触れ知る機会を増やして行き、父や祖父母の世代への尊敬の念を忘れてはならぬと心に命じております。
祖母にそういった事を話しますと、「わたしたちはもう、戦争時代の事は思い出したくないからはなしとうないし、あんたがそういう気持でいてくれるだけで十分やから、それで暗い気持ちにならんでほしいと思う。」と言いますが、たくさんの方々の御苦労の上に安穏に暮すのは申し訳なく思いますし、その想いを受け継ぐ事が、自身の人生の骨格にもなると思っており、御サイトの戦中、戦後の思い出は深く読ませて頂きました。
つい先日産経新聞の松下幸之助の回顧録において、「日本がすぐに降服せず戦い続けたからこそ、アジアの諸国が独立出来たのだ」と幸之助が言っていたのだと読みました。
戦中戦後の方々の大変なご苦労の上に、今の平和が成り立っていること、決して忘れてはならぬとの思いがさらに強まりました。
今後も御サイトにお邪魔させて頂き、回顧録ブログをじっくり読ませていただきます。
どうか、斜陽、などと仰られずに次世代に受け継ぐとの思いをもって頂きたく思います。作者様は西日などではなく、力強い夏の太陽に感じられます。
どうぞこれからもわれら次世代にご指導ご鞭撻くださいませ。よろしくお願いします。
投稿: CY | 2008年1月12日 (土) 13時29分
管理人に対する激励のお言葉、ありがとうございます。私はまもなく 七十五才になりますが、体の健康が続くかぎり、また認知症が起きない間は インターネットで、自分なりの情報を発信して行きたいと思っております。今後も お立ち寄りをお待ちしております。
投稿: Y.O. | 2008年1月12日 (土) 17時51分
本年もよろしくお願いします。
ところで、最近でも奥様はこのブログに目を通すとか、ご子息から内容についてチラリとお聞きになるとかいうことは無いのでしょうか?
(そういえば、我が家も全く無関心ですが・・・)
青島といえば、最近よく青島や北京へ出張する(殆ど毎週)倅に、正月に聞いた話では、北京はずいぶん良くなったが、オリンピックの会場にもなる青島なのに、まだまだぼったくりタクシーの横行など酷い状況で「オリンピック大丈夫かな~」と呆れています。
投稿: Y.S | 2008年1月13日 (日) 15時01分
こちらこそよろしくお願いいたします。
ところで 「 山のいも 」 女房は インターネットどころか、携帯電話で メールも送れない レベルですし、我が家の娘も息子も父親に似て口が堅い ( ? ) ので、ブログの内容を女房に漏らすことはありませんので、その点は安心です。
私は青島 ( チンタオ ) に行ったころはありませんが、十五年以上前から北京の タクシーの中には料金 メーターに細工をしていて、ボタンを隠れて押す度に 料金表示の数字が、一元ずつ上がるのがありました。 日本の夕日新聞などの左翼系 マスコミは、中国人の ズルサについて中国に遠慮して記事にしませんが、「 だます者よりも、だまされる方が悪い 」 とする、倫理観を持つ人種であることを肝に銘じる必要があります。
投稿: Y.O. | 2008年1月13日 (日) 16時51分