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2008年2月23日 (土)

新千歳空港の場合(その1)

Clearance1 2月16日午前10時33分ごろ、北海道・新千歳空港の B 滑走路 ( 二本あるうちの東側、長さ3000 メートル )で、羽田行き日本航空 502便 ( ボーイング747―400型機、乗員乗客 446人 )が、管制官の許可を得ずに離陸の滑走を始めました。

同じ滑走路上には、着陸したばかりの別の旅客機がいたため、管制官が離陸中止を指示し、502便は緊急停止しました。当時の B滑走路は視界が 約500 メートルで、ほとんど前が見えない状態でした。

Uranai 金野内蔵氏の占いによれば、今回の インシデント ( Incident 、出来事 ) の責任の所在は、機長が九割であり、管制官にも一割の責任があると出たそうです。

[ 1:管制指示への復唱の欠如 ]

今回の インシデント は まかり間違えば、 カナリア諸島における濃霧の テネリフェ空港で起きた死者 583名という、航空史上最悪の航空事故のような事態が起きるところでした。詳しくは

http://good-old-days.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/index.html

を クリックして2007年5月29日の ブログ、「 6352対762 」 を御覧下さい。
その教訓から従来からの管制承認 ( ATC Clearance ) の復唱だけでなく、離陸、着陸許可、滑走路の横断許可、滑走路の手前で待機、離陸位置に進入して待機などの安全に直接かかわる重要な管制許可、管制指示は、要点を必ず 「復唱する」、「復唱させる」 習慣が確立しました。

ところで去年の10月23日に関西空港で起きた危険な事態と、今回の新千歳空港の件は共通の原因がありましたが、パイロットによる管制交信の聞き違えと、管制指示が パイロットに正確に伝わったかどうかの確認を、管制官が怠った結果でした。詳細は下記 ブログ、2007年10月23日の 「 管制官にも責任 」 を参考にしてください。

そこには ロサンゼルス国際空港における管制官と パイロットとの、多忙な交信の遣り取りがありますが、パイロットが 「 Clear for take-off 、Delta1484 、デルタ航空1484便は離陸支障なし 」のように、安全上重要な部分には自機の コールサイン ( 呼び出し符号 )を付けて、簡潔に 「 復唱する 」 様子が分かります。

http://good-old-days.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/index.html
 
Brunway 新千歳空港における交信 テープの内容が公表されず、断片的で しかも内容の異なる新聞報道に頼るしかありませんが、管制官が 502便に、( 離陸許可が出たら )速やかに離陸できるよう 「 準備せよ 」 と書いた新聞もあったし、別の新聞では 「 予想せよ 」 と書いていました。

写真は空港の北側から撮ったものですが、今回の インシデントは赤矢印の滑走路で起きました。滑走路標識が通常の白色ではなくオレンジ色で塗装してあるのは、積雪地帯の特徴です。 

金野氏によれば航空管制の交信は英会話ではなく、簡潔、明瞭な符丁のやりとりだそうですが、管制交信の内容を推測してもらうと、以下のようになるのだそうです。

管制塔: Japan Air 502, succeeding traffic is 6 miles on final , taxi into position runway 1 R. Stand-by (もしくは、 Expect )immediate take-off , landed aircraft still on the runway,

[ 日航502便、後続機は最終着陸経路の 6 マイルにあり、滑走路 1 ライト ( 磁方位 10度の右側滑走路 ) に入り 離陸位置につけ、即時離陸の準備をせよ ( または予想せよ )、 着陸した飛行機が滑走路を走行中 ]。

パイロット:Japan Air  502,  roger (  日航502便、了解 )
この交信の後に、機長は離陸を開始しましたが、正しい復唱は

Japan air 502, taxi into position . ( 日航502便、滑走路に進入し、離陸位置につく )

でしたが、こう復唱すれば機長も自分の誤解に気付く はずでした。無線交信を担当したのは見習副操縦士でしたが、だからこそ指導に当たる機長や、操縦室の後席に座って バックアップが役目の正規の副操縦士は、見習いの一挙手一投足、や交信内容に注意を払うべきでした。

Chitoseap1 金野氏によればこの見習副操縦士は 「 ラジャー・パイロット 」 に違いないとのことでしたが、ラジャー ( Roger ) とは航空管制用語で 「 了解 」 の意味だそうです。

彼が管制指示の復唱をしなかったのは英語の指示が理解できず、復唱したくても  「 できなかった 」 からであり、多分機長が了解しているに違いないので、自分が理解していなくても ラジャー 「 了解 」 を送信した無責任さからでした。そういう 未熟な副操縦士 ( 見習 ) のことを皮肉と軽蔑を込めて、 ラジャー・パイロットと呼ぶのだそうです。

管制塔からの送信内容が理解でききなければ、上の写真にある管制塔に 「 Say again 、もう一度言ってくれ」 を言い、「 恥を忍んで ( ? ) 」 何度でも聞き返すことが、無線交信を担当する彼の職務であり、事故防止のうえからも基本的でなことでした。

機長も管制指示の最も重要な部分の 「 スタンバイ 、Stand-by  ( 準備せよ、別の新聞記事では予想せよとあるので、その場合の英語は Expect )」 を聞き逃してしまい、次に続く 「 Immediate take-off 、即時の離陸 」 だけを聞いたことから、離陸を開始した責任は重大でした。( 続く )

2008年2月16日 (土)

名前だけの管理職

Takano ハンバーガーチェーン 「 日本 マクドナルド 」 の熊谷店 ( 埼玉県熊谷市 ) 店長、高野広志さん ( 46 ) が名前だけの管理職にされ、時間外手当を支払われないのは違法だとして、同社に未払い残業代や慰謝料など計 1,350万円の支払いを求めた訴訟を起こしました。東京地裁は1月28日に、マクドナルドに対して 約 755万円の支払いを命じましたが、裁判官は 「 職務権限や待遇から見て、店長は管理監督者に当たらない 」 と理由を述べました。

金野内蔵氏から聞いたところによれば、これと似たような管理職制度の悪用事件が、かつて航空業界にもあったそうです。当時政府が半分以上の株式を所有していた、半官半民の日本航空では官僚主義と 親方日の丸 ( 中国語で、鉄飯椀 )  つまり所属する会社はつぶれず、従って メシを食いはぐれることは決して無いという意識から、社内には 宿痾 ( しゅくあ、長年続く持病 ) ともいうべき 労使紛争が絶えませんでした

そこでは労働組合が七つもあり、スチュワーデスの客室乗務員組合も、労働側と会社側の二つの組合に分かれていました。

当時多発した乗員組合の抜き打ち時限 ストに対処するため、日本航空は昭和45年 ( 1970年 ) 八月に、機長全員を管理職に発令するという前例の無い計画を実施し、事実上機長の組合活動を封じ込めました。

そのため機長全員が乗員組合から離脱し スト権も剥奪されて、乗員組合は副操縦士だけの組合となりましたが、会社の狙いどおりに組合の弱体化が進み、会社の意向を受けた第二組合も誕生しました。

Jalnewderi この労務対策がもたらしたものは、飛行機の運航中に最も大切な機長、副操縦士間の意志の疎通を欠く事態であり、乗員同士の不信感の造成、協調性の喪失、人心の荒廃でした。

職場における不協和音が パイロットの精神状態にも悪影響を及ぼし、その結果いわゆる JAL の 「 連続飛行機事故 」 が起きましたが、写真は インド、ニュー・デリー郊外の ジャムナ河畔にある、不可触賤民 ( アンタッチャブル ) の部落に墜落した機体の、垂直尾翼に描かれた 鶴のマークですが、事故の多さから 死の鳥 と言われました。

負傷者が出ただけの小事故を除いて、死者が出た大事故だけを挙げますと、

1:昭和47年6月 ( 1972年 ) インド、ニューデリー墜落事故、死者、86名

2:同年11月、モスクワ、シェレメチェボ空港、副操縦士の操作ミスで墜落、死者、62名

3:昭和 52年 ( 1977年 ) 1月、アンカレージ、DC-8型貨物機の機長の酒酔い操縦で、離陸直後に墜落、死者、5名

4:同年9月、クアラ・ルンプール、高度の確認をせずに墜落、死者、34名

5:昭和57年 ( 1982年 )、羽田空港、精神病の機長による意図的墜落、死者24名

6:昭和60年 ( 1985年 )、御巣鷹山墜落、死者、520名

が起きましたが、六件の大事故の死者の合計は 731名 で、その同じ期間に、全日空では昭和46年 ( 1971年 ) に宮城県雫石 ( しずくいし ) 上空の航空路で起きた、戦闘訓練中の自衛隊ジェット機との空中衝突で、死者162名の事故を出して以来、今日に至るまで三十年以上死亡事故は ゼロでした。

あまりの事故の多発に日航の社長が何人も交代し、運輸省高級官僚の天下りや社内の主流派でした労務畑出身者からではなく、民間人の社長を据えた結果、機長の総管理職制度は廃止され、機長も機長組合を作ることになりました。

Crm かつては船長と同様に、機長といえば飛行機や乗客の安全に対して全責任を負う反面、機内では絶対の権威と指揮権を持ち、副操縦士以下は徒弟制度における徒弟 ( とてい、親方のもとで技術を習得する でっち小僧 ) 的存在で、 「 カラスは白い 」 と機長がいえば、 「 白い 」 といわざるを得ませんでした。

写真の自信に満ちた機長は、計器板の下部に足を乗せてふんぞり返っていますが、副操縦士もこのような態度を取れるわけでは決してありません。 同じ パイロットでも 半人前 ですから。

しかし二十年以上前から、操縦室内で職務をおこなう人々の能力を有効に発揮させ、活用することこそ、人的 ミスを無くし飛行機の安全性向上につながるとする、 CRM ( Crew Resource Management 、乗組員の人的資源を有効活用する運用技術 )  の考えが生まれました。

Four_stripes 機長は乗客の安全に対して最終的責任を負うものの、もはや徒弟制度における封建的親方ではなく、部下の持つ能力を引き出して安全運航に役立てる マネージャー や、 コーディネーター ( Coordinator 、調整者 ) としての能力が不可欠になり、それを持つことが機長としてのあるべき姿になりました。

2008年2月 9日 (土)

デスの職業病

[ 腰痛 ]

Bijina 金野内蔵氏から聞いたところによれば、スチュワー「 デス 」 の職業病といわれているのが腰痛だそうです。

今では死語になりましたが昔は女性を形容する言葉に、 「 髪は カラスの濡れ羽 ( ば )色、腰は柳腰 ( やなぎごし ) 」 というのがあり、美人画に描かれた女性は細い腰と決まっていました。

辞典の大辞林によれば、 「 カラスの濡れ羽色 」 とは 真っ黒で青みのある、つややかな髪のことであり、 「 柳腰 」 とは細くて、しなやかな腰で、多くは美人のたとえ とありました。

腰痛が 「 デス 」 の職業病になるに伴い、鶴丸航空では 「 デス 」 の採用試験に一時期 運動能力 テストを実施しましたが、これにより腰痛患者の予備軍と目される 「 やなぎ腰 」 の応募者を排除し、石臼 ( いしうす ) 型や ビヤ樽型の体形所有者を、優先採用したのかどうかは不明です。

Cart 機内 サービスの際には食事の トレー ( Tray 、お盆 ) を満載した、 三十 キロの重量にもなる ミール ・ カート ( Meal cart  ) や、飲み物、 アルコール類を乗せた リカー ・ カート( Liquor cart ) を客席の狭い通路を押して移動したり、中腰になって ミール ・ カートから食事の トレイ を何十回も取り出し、また収納する作業が腰痛の原因になるといわれています。

通路に敷いた絨毯 ( じゅうたん ) の上で、 カートを移動させるのは体力が要る仕事だそうですが、さらに上空では機体が水平ではなく、通路に傾斜があり機首の方が高くなっているからです。上層風の影響を考えない場合には、ジェット機の特性として飛行高度が高くなればなるほど、空気密度が小さくなり、従って空気抵抗も少ないので、燃料消費が少なくて済みます。

そのために長距離を飛行する場合には、現在の機体重量で上昇可能な、なるべく高い高度を飛ぶために、 飛行中に燃料を消費し機体が軽くなるにつれて、パイロットは段階的に、より高い高度へと ステップ・アップします。そのような高度では飛行機が水平飛行をしていても、機体は水平ではなく、やや機首上げ姿勢になっていて、その量は飛行機の性能、機体重量、飛行高度などにより異なりますが、おおまかにいえば、一度~三度程度になります。

777300 以前縄文航空では トライスターという 三発機を使用していましたが、この機体は空力特性から他機に比べて巡航中の 機首上げの量が多く、 「 デス 」 の間で 「 エル ・ テン (  ロッキード 1011 型機 ) に乗ると疲れるのよねー 」 という評判の飛行機でした。写真はボーイング 777-300 型機、乗客定員 248 ~ 524 名。

ピッチ・アップの量が、二~三度の傾斜などたいした角度ではない、とお考えの方に質問しますが、飛行機が進入着陸する際の降下角度 ( 軌跡 ) は、地面に対して何度だと思いますか?。正解は次項の膀胱炎の中にあります。

[ 膀胱炎 ]

膀胱は当然男性にも女性にもありますが、膀胱炎にかかるのは圧倒的に女性が多いといわれています。その理由は構造的に女性の尿道が 約四 センチと短いために、細菌が膀胱に侵入し易いからだそうです。

[ ところで進入着陸する場合に、飛行機の地面に対する降下角度は、飛行機のタイプ、大きさ、計器進入着陸、目視進入に関係なく、二度半~三度が標準です。]

Lav1 その昔、鶴丸航空のある 「 デス 」 が膀胱炎になりましたが、彼女によれば、飛行中にトイレに行きたくなっても トイレが乗客で混雑するために、我慢せざるを得ない状態だったので、それが原因だとするものでした。会社に膀胱炎を公務傷病と認定するように要求しましたが、会社が認めないので民事裁判を起こしました。

この裁判の結果がどうなったのか知りませんが、乗務中の尿意の我慢が原因で、膀胱炎になるとは聞いたことがありませんでした。ちなみに医学書によれば膀胱炎の原因の大部分は、大腸菌などの細菌の侵入によるとあったので、毎日の セレモニー ( Ceremony、行事 ) 終了後における、後始末の方法に問題があったようです。

2008年2月 2日 (土)

鐵道博物館

子供の頃は電車の運転手になるのが夢でした私は、東京の神田須田町 ( 電器街、秋葉原の南側 )万世橋のそばにあった交通博物館には、子供の頃に何度も通いました。そこが平成18年5月で閉館になり、埼玉県の大宮市に移転するというので、閉館の一ヶ月前にも大阪から上京して訪れました。

ちなみに大阪の弁天町にも 「 交通科学館 」 という鉄道関係の博物館がありますが、大阪環状線の全線開通を記念して昭和37年 ( 1962年 ) に開館したものだそうです。平成18年度の入館者数は 23万5千人でした。

1月26日  ( 土曜日 ) に所用で上京したついでに、翌27日の日曜日には、去年の10月に オープンしたばかりの鉄道博物館に行きましたが、10時開館なので10時半に博物館に着くと、入館券売り場には既に数百人の人の列ができていたのには驚きました。寒空の下での長時間の順番待ちを諦めて、U ターンして大阪に帰りました。

Iriguchi ところが帰宅した翌日の28日に、「 山のいも 」 女房の親戚の人が亡くなったという知らせがあったので、女房のお供をして 29日にまた飛行機で上京しました。埼玉県内の ホテルに 二泊し、女房が葬式に行っている間に鉄道博物館に行きましたが、平日のため空いているだろうとの予想は見事に外れました。

Konzatsu 聞くところによれば 土 、日の入館者は 一万二千人程度、平日は 三千人が訪れるとのことでしたが、あいにく定休日 ( 火曜日 ) の翌日ということで、先日の日曜日ほどではありませんでしたが、かなりの入館者数でした。ガードマンによれば休館日の翌日なので、四千~五千人は来るだろうとのことでした。

Fuji 鐵道博物館内の展示車両は 36 両もあり、日本最大の模型鐵道 ジオラマや、五種類の運転 シミュレーターなどがありましたが、お目当てのものは 一時間から 一時間半待ちの状態でしたので、見るのを諦めました。写真は当時の日本を代表した 特急富士 の 一等展望車です。

混雑はそれだけでなく館内の食堂も順番待ちの長蛇の列、弁当を買うのも長い列で、結局昼食を食べたのは食堂が空いてきた二時過ぎでした。 

教訓 次回からは コンビニなどで弁当を購入し、それを持参して入館し、許可された展示車両の座席で、あたかも旅の途中で駅弁でも食べるようにすることです。

Deadsection しかし七十五才の年齢まで知らなかった鐵道に関することを、数多く知ることができたので良かったと思いました。日本の鐵道では架線の電源に、交流区間と直流区間があり、その境界点がいくつもありますが、そこには 「 デッド・セクション ( Dead section ) 」 と呼ばれる無通電区間が存在します。

その区間の架線の状態がどうなっているのか疑問に思っていましたが、それを知ることができたし、鐵道輸送が蒸気機関車から、電化による電気機関車輸送に代わった 当初の理由 についても、これまで誤解していました。

その理由とは第一次大戦 (1914~1918年) の好景気により、日本国内では ( 産業用に ) 石炭の需要が急速に高まったので、石炭の消費を抑制するために、蒸気機関車から電気機関車に切り替えることにしたのであり、輸送力増強や高速化といった輸送効率の向上の為に、鉄道の電化が行われたと思っていたのは 間違いでした

大正14年 ( 1925年 ) に東海道本線の電化が始まりましたが、当時の日本の技術力では幹線用の高出力の電気機関車を製造することができなかったので、イギリス、アメリカから電気機関車を輸入しました。

ちなみに私が学生時代の昭和27年 ( 1952年 ) 当時の東海道本線は、東京から静岡県の浜松まで電化されていましたが、それから先はすべて蒸気機関車が牽引していました。大津と山科の間にある新逢坂山トンネル ( 2325 メートル ) を夏に通る際には、窓を閉めるのを忘れると煤煙が車内に入ってきたので、慌てて閉めましたが、大阪まで急行列車で十二時間かかりました。

Senmen 蒸気機関車による旅は決して快適なものではなく、主な駅の ホーム には必ず洗面施設があり、煤煙で汚れた顔を洗う長距離旅行者の姿が見られました。特に トンネルの多い区間を走る路線では、夏など乗客の顔 や 白い シャツが煙で黒くなるので 「 カラス列車 」 とも呼ばれました。当時 駅の ホームにあった洗面所は写真のような立派なものではなく、小学校の洗面所のように、蛇口だけが 10個近く並んでいました。

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