« 乗組員の職業病 | トップページ | デスの職業病 »

2008年2月 2日 (土)

鐵道博物館

子供の頃は電車の運転手になるのが夢でした私は、東京の神田須田町 ( 電器街、秋葉原の南側 )万世橋のそばにあった交通博物館には、子供の頃に何度も通いました。そこが平成18年5月で閉館になり、埼玉県の大宮市に移転するというので、閉館の一ヶ月前にも大阪から上京して訪れました。

ちなみに大阪の弁天町にも 「 交通科学館 」 という鉄道関係の博物館がありますが、大阪環状線の全線開通を記念して昭和37年 ( 1962年 ) に開館したものだそうです。平成18年度の入館者数は 23万5千人でした。

1月26日  ( 土曜日 ) に所用で上京したついでに、翌27日の日曜日には、去年の10月に オープンしたばかりの鉄道博物館に行きましたが、10時開館なので10時半に博物館に着くと、入館券売り場には既に数百人の人の列ができていたのには驚きました。寒空の下での長時間の順番待ちを諦めて、U ターンして大阪に帰りました。

Iriguchi ところが帰宅した翌日の28日に、「 山のいも 」 女房の親戚の人が亡くなったという知らせがあったので、女房のお供をして 29日にまた飛行機で上京しました。埼玉県内の ホテルに 二泊し、女房が葬式に行っている間に鉄道博物館に行きましたが、平日のため空いているだろうとの予想は見事に外れました。

Konzatsu 聞くところによれば 土 、日の入館者は 一万二千人程度、平日は 三千人が訪れるとのことでしたが、あいにく定休日 ( 火曜日 ) の翌日ということで、先日の日曜日ほどではありませんでしたが、かなりの入館者数でした。ガードマンによれば休館日の翌日なので、四千~五千人は来るだろうとのことでした。

Fuji 鐵道博物館内の展示車両は 36 両もあり、日本最大の模型鐵道 ジオラマや、五種類の運転 シミュレーターなどがありましたが、お目当てのものは 一時間から 一時間半待ちの状態でしたので、見るのを諦めました。写真は当時の日本を代表した 特急富士 の 一等展望車です。

混雑はそれだけでなく館内の食堂も順番待ちの長蛇の列、弁当を買うのも長い列で、結局昼食を食べたのは食堂が空いてきた二時過ぎでした。 

教訓 次回からは コンビニなどで弁当を購入し、それを持参して入館し、許可された展示車両の座席で、あたかも旅の途中で駅弁でも食べるようにすることです。

Deadsection しかし七十五才の年齢まで知らなかった鐵道に関することを、数多く知ることができたので良かったと思いました。日本の鐵道では架線の電源に、交流区間と直流区間があり、その境界点がいくつもありますが、そこには 「 デッド・セクション ( Dead section ) 」 と呼ばれる無通電区間が存在します。

その区間の架線の状態がどうなっているのか疑問に思っていましたが、それを知ることができたし、鐵道輸送が蒸気機関車から、電化による電気機関車輸送に代わった 当初の理由 についても、これまで誤解していました。

その理由とは第一次大戦 (1914~1918年) の好景気により、日本国内では ( 産業用に ) 石炭の需要が急速に高まったので、石炭の消費を抑制するために、蒸気機関車から電気機関車に切り替えることにしたのであり、輸送力増強や高速化といった輸送効率の向上の為に、鉄道の電化が行われたと思っていたのは 間違いでした

大正14年 ( 1925年 ) に東海道本線の電化が始まりましたが、当時の日本の技術力では幹線用の高出力の電気機関車を製造することができなかったので、イギリス、アメリカから電気機関車を輸入しました。

ちなみに私が学生時代の昭和27年 ( 1952年 ) 当時の東海道本線は、東京から静岡県の浜松まで電化されていましたが、それから先はすべて蒸気機関車が牽引していました。大津と山科の間にある新逢坂山トンネル ( 2325 メートル ) を夏に通る際には、窓を閉めるのを忘れると煤煙が車内に入ってきたので、慌てて閉めましたが、大阪まで急行列車で十二時間かかりました。

Senmen 蒸気機関車による旅は決して快適なものではなく、主な駅の ホーム には必ず洗面施設があり、煤煙で汚れた顔を洗う長距離旅行者の姿が見られました。特に トンネルの多い区間を走る路線では、夏など乗客の顔 や 白い シャツが煙で黒くなるので 「 カラス列車 」 とも呼ばれました。当時 駅の ホームにあった洗面所は写真のような立派なものではなく、小学校の洗面所のように、蛇口だけが 10個近く並んでいました。

シルバー回顧録へ戻るにはここをクリック

« 乗組員の職業病 | トップページ | デスの職業病 »

コメント

本来、男の子は生まれながらに全員「鉄ちゃん」というのは本当みたいですね。
1952年頃は、夏休みと冬休みは中津川で過ごすのが慣わしでしたので、関西本線経由中央本線をよく利用しました。東海道線をあまり使わなかったのは、空いているからか、ひょっとすると少し速かったのかな?
中央線はトンネルが多く、煤煙の臭いを思い出しました。中津川の駅に着くと鼻は真っ黒、ちょっとした駅のプラットフォームには白いタイルで蛇口が並んだ洗面所が必ずありましたね。


敗戦直後の昭和21年 ( 1946年 ) 当時、群馬県の高崎と栃木県の小山を結ぶ両毛線では、客車の代わりに屋根付きの貨車で人を運んでいました。

貨車の扉は開けたままで、人が落ちないように腰の高さに横に一本の材木が固定されていましたが、蒸気機関車に近い貨車に乗ると、煙だけでなく細かい石炭ガラも、貨車の中に入ってきました。

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 鐵道博物館:

« 乗組員の職業病 | トップページ | デスの職業病 »