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2008年4月26日 (土)

不時着 ( 水 )、( その1 )

不時着  ( 水 ) とは飛行機が緊急事態に遭遇した場合に、通常では着陸しない場所に、
1 : 意図的に
2 : 飛行機が コントロール ( 制御 ) 可能な状態で
3 : 着地や、着水することをいいます。

Jaldc862 昭和 43年 (1968年 ) に起きた日航機 ( DC-8-62 ) の サンフランシスコ湾への着水事故は、濃霧の滑走路へ I LS ( Instrument Landing System 、計器着陸装置 ) を使い進入中に事故が起きました。( 以下、写真は クリックで拡大 )

アメリカの  N T S B   (国家運輸安全委員会 ) の事故報告書によれば、機長が飛行計器の正しい使用法を知らなかったのと、滑走路を視認するまでは進入限界高度の 211 フィート  (  64 メートル ) 以下に高度を下げてはいけないにもかかわらず、それを守らなかったのが事故原因でした。

Sfoils 機長は I LS の電波に乗った  「 つもり 」 で着陸のために高度を下げていきましたが、実際には電波に乗ってなく、しかも高度計への注意を怠ったために、気が付いた時には滑走路から 5 キロ も手前の湾内に着水してしまったのでした。

これは意図的に着水したわけではないので、不時着水の範疇には入りません。写真は サンフランシスコ  国際空港で、事故機は赤矢印の コース で着陸するはずでした。

金野内蔵 氏から聞いた話によると、縄文航空では以前は西海岸にある サンディエゴ、後に サンフランシスコ を基地にして、B-727 の飛行訓練を米国の航空会社に委託した時期がありましたが、チェック ・ パイロット ( Check Pilot 、査察操縦士、乗員の実地試験や審査をおこなう パイロット ) をしていた金野 氏は、サンフランシスコ 空港には詳しいのだそうです。

Sfonewspaper 空港の東側から進入する I LS コース は陸地の近くを通り、そこの水深が幸運にも  3 メートル しかなったので、着水した日航機は車輪が海底に着き機体は沈没せずに済み、乗客の脱出も無事におこなわれました。

この事故に対して 旧航空庁長官から天下りをした日航の松尾社長は、 「 神業 ( かみわざ ) の上手な着水だった 」  と機長をほめましたが、他社の パイロット からは、「 神業で事故を起こしたのか?。 」 と嘲笑されました。

写真は当時の サンフランシスコ の新聞に掲載されたもので、乗客も沈まない飛行機からの脱出で余裕たっぷりでした。

ちなみに航空輸送の安全維持を担当する、アメリカの F A A  ( Federal Aviation Administration 、連邦航空局 ) の機体の構造に関する規則によれば、飛行機は乗客のすべてが安全に脱出できる十分な間、浮かんでいるように設計する必要がありましたが、後述する パンナム の B-377 型機の場合には、着水から 11 分後に沈没しました。

B737ditch エンジン故障、燃料切れなどの緊急事態から不時着 ( 水 ) する民間航空の ジェット 機は毎年のようにありますが、その中で陸上飛行機が意図的に水上に不時着水することを、航空用語では デッチング ( Ditching ) といいます

これまで トランス ・ パック  ( trans Pacific 、太平洋横断 ) 飛行や トランス ・ アトランティック ( trans Atlantic 、大西洋横断 )飛行をするような国際線の飛行機が、洋上に不時着水した例などは、めったにありませんでした。

Stratocruiser 昔 プロペラ 機の時代の昭和  31 年 ( 1956年 ) に、パンアメリカン 航空の ボーイング 377 型 ストラト ・ クルーザー ( Strato-cruiser ) が 、サンフランシスコ  と ハワイ の中間地点で第 1 エンジンが故障し、その後さらに第 4  エンジン が故障しました。

当時 北緯 30 度、西経 140 度の太平洋上の地点には、気象の定点観測をおこなうと共に、 ハワイ と北米西海岸の都市とを結ぶ航空路を頻繁に飛行する航空機の為に、無線電波を発射して航法を援助し、緊急時における航空機の S A R  ( Search And Rescue 、捜索救助 ) も兼ねて、米国沿岸警備隊の 気象観測船 ( Ocean Weather Station Vessel  ) が常時待機していました。

Panam943 故障機は夜明けまで船の上空で旋回を続け、明るくなってからその船の傍に不時着水して、乗客乗員  31 名全員が救助されました。

沿岸警備隊の船上から撮影した不時着水の実写  フィルムを、アメリカ 海軍飛行学校かどこかで不時着水教育の際に見せられましたが、長距離を飛ぶ民間航空の プロペラ 機が、洋上に不時着水した際の唯一の映像でした。

当時の プロペラ 機には自動車と同様に  ピストン ・ エンジンを搭載していましたが、一説によれば現在の ジェット ・ エンジン は、ピストン ・ エンジン に比べて  50 倍も信頼性が向上 しているそうで、太平洋を横断する ジェット 旅客機が洋上に不時着水した例などは、それ以後 50 年以上も聞いたことがありませんでした。( 続く )

2008年4月19日 (土)

イモ ( 芋 ) を掘る

Datsurinx ある年の冬に積雪の札幌千歳空港に着陸し、旧旅客 ターミナルに向けて地上滑走をしました。駐機場内 に入り所定の ゲートに曲がる手前で、強い横風にあおられて機体が ズルズルと圧雪と氷の上を、風下側へ横滑りを始めました。旧 ターミナル前の駐機場が、少し傾斜があったことも重なったのでした。

機首車輪の ハンドルを回して機体を中心線に戻そうとしましたが、機首車輪が横を向いたままで滑り、方向維持ができませんでした。金野氏は危険を感じてその場で飛行機を止めて駐機 ブレーキを掛け、 エンジンを停止しました。

社内無線で  タグ ( Tug、牽引車  )  を呼び、それ以後は牽引されて無事に 到着 ゲートに入りましたが、整備士からの連絡によれば、左の主車輪があと 1メートルで舗装部分から外れて脱輪するところでした。

Imodoro 昔の パイロットは滑走路や誘導路から飛行機がはみ出したり脱輪したりすることを、 イモ ( 芋 ) を掘る といいましたが、車輪や機体が泥に埋まり、その救出作業には泥まみれになるからであり、車輪により掘り返された跡が、イモ を収穫した後の畠の畝 ( うね ) のようだからでした。イモ を掘った パイロットは、仲間うちで物笑いになることは間違いありませんが、上の写真はその恥ずかしい現場です。

Ancapjpg 昭和  52 年 ( 1977 年 ) の初めのこと、北米 アラスカ州南部にある アンカレージ ( Anchorage ) 空港で、鶴丸航空の飛行機が雪と氷に覆われた誘導路を走行中に、強い横風にあおられて横滑りし、イモ を掘るどころか、誘導路わきにあった高さ 約 4 メートルの傾斜面を下まで滑り落ちてしまいました。

戦後の日本に アメリカから紹介された数多くの技術の中には、油田火災を注水により消火するのではなく ダイナマイトで吹き消す方法、高層 ビルの解体では各階の支柱に ダイナマイトを仕掛け、時間差を付けた発破をおこない ビルの自重を利用して全壊させ、解体する方法、空気袋 ( Air Bag ) を使用して飛行機を持ち上げる方法などがありました。

Abagh アンカレージ空港で誘導路から滑落した飛行機を救出するために、実際にどんな方法をとったのか知りませんが、常識的にはまず機体重量を軽くするために、燃料 タンクから燃料を全部抜き取ることから始めます。

Lift3ls 恐らく傾いた機体の翼の下に空気袋 ( 圧搾空気で膨張させ、1個で 20 トン ~ 60 トンまでの重量を持ち上げる ) を何個か入れて膨らませ、地面との隙間を作り、機体下部に何本もの スリング ( Sling、釣り索 ) を通して起重機で機体を地面から持ち上げて、泥に埋まった車輪や エンジンを掘り出したに違いありません。

Yukiimo その年の 10 月に アンカレージ空港に行くと、滑落した機体を引き出すために、わざわざ作った道路が誘導路に沿って残っていましたが、鶴丸航空は飛行機の修理代を含めて、イモ 掘りのためにかなりの出費をしたはずでした。

B737indon 世界の航空界ではその後も イモ を掘る パイロットがあとを断ちませんが、イモ 掘りは雪の中でも、真夏でも季節、時間を問わずにいつでも起きますので、飛行機に搭乗の際は、くれぐれも御用心を!。

Kankyaku イモ を掘るには場所を考える (?) 必要があります。この写真は南米   エクアドルの首都 キト (  Quito )  の空港で スペインの イベリア航空の飛行機が イモ を掘りをした現場ですが、開発途上国のため救出作業に必要な起重機などの機材の不足、及び エンジン 交換などの機体整備能力の不足から、復旧にかなりの日数が掛かりました。

2008年4月12日 (土)

前車の轍 ( てつ )

Wadachi 古いことわざに 「 前車の轍  ( てつ ) を踏む 」  というのがありましたが、轍 ( てつ ) とは  「 車のわだち 」 のことであり、現代風にいえば 「 タイヤの跡 」  のことです。直訳すれば 「 前を行く車の、タイヤの跡をたどること 」 ですが、ことわざの意味とは 前の人の失敗を、あとの人が同じように繰り返すこと への 戒めです。

Whiteout 昭和 47年 ( 1972年 ) のある冬のこと、朝一番の便で羽田を離陸し札幌千歳空港の雪に覆われた滑走路に着陸しましたが、降雪の中で白一色の滑走路への着陸操作は、ホワイト ・ アウト ( 視界が白一色で陰影がなく、高さや方向などが一時的に、識別不能となる現象 ) という言葉があるように、滑走路の末端を通過してからの最終段階で肉眼による高度の判断が 、通常よりも難しいことです。

そういう場合には I LS ( I nstrument Landing System  、計器着陸 システム ) の電波に、飛行機の オートパイロット ( 自動操縦装置、機種により 2 ~ 3 組装備 )  を カップル ( Couple 、並列に接続 ) させて、 コンピュータ を互いに クロス ・ チェック ( Cross Check ) させながら、安全に自動着陸することが可能ですが、その当時の オートパイロット には自動着陸性能がありませんでした。

滑走路上には金野 氏の飛行機よりも 10 分前に着陸した鶴丸航空の DC-8 の 「 車輪の跡 」 が 、雪の上に クッキリとついていましたが、降雪のために ターミナルビルや管制塔が見えないほど視界が悪かったので、その 「 車輪の跡 」 を忠実にたどって滑走路から雪で白い誘導路へと走行しました。

Josetsu ターミナルへの走行途中で ふと見ると左側に黒い物が点々と誘導路上に並んで見えましたが、誘導路の中心線のように見えました。中心線が 二本あるのか (?)、瞬間そう思いましたが そんな馬鹿なことがあるはずがありません。

DC-8 の機長が雪に覆われた誘導路の右端を中心線と間違えて走行していたので、右側車輪は当然 誘導路から脱輪して走行したことになります。その車輪の跡を何も考えずにたどっていた金野 氏は、あわてて正規の誘導路の中心に戻りました。

Jaidc8 鶴丸航空の飛行機が DC-8-50 型と小型で軽かったこと、金野 氏の飛行機も 178 人乗りの B-727 型で同じ程度の小型機だったことと、誘導路を造成する際に舗装した部分の外側の地面も硬く展圧されていて、しかも冬の北海道のために地面が固く凍っていたことなど幸運が重なり、雪の上を脱輪走行しても車輪が土に埋まらずに済みました。

それからの数日間は フライト ・ バイオレーション  ( Flight Violation 、 航空法違反 ) で、航空局から呼び出しが来るかもしれないと思い金野内蔵 氏は ヒヤ ヒヤ したそうですが、何も言われずに済み ホット しました。着陸後も激しく降り続いた雪で、 「 脱輪の跡 」 が多分消えてしまったのかもしれません。前車の轍 ( てつ ) を踏む失敗を、身をもって体験したのは最初で最後でした。

Datsurin ところで脱輪といえば金野内蔵 氏の老妻である金野内子 ( ないこ ) さんも  40 年前に車の運転免許を取ったそうですが、運動神経が鈍い彼女は、自動車教習所で運転講習を受ける際に、所内の コースで何度も脱輪を繰り返しては、その度に補習を受けていました----8 回 も ? 。

しかも自動車教習所に通うまでは長年便秘症に悩んでいましたが、教習所に通うようになると便秘が治ったどころか、「 神経性の下痢 」 になったそうです。便秘にお悩みの方は、車を 一度脱輪させると治るかもしれません ( ? )。

2008年4月 5日 (土)

鎮魂録

[ 大阪・伊丹空港 ]
Gmallarda その昔、寒さが原因で離陸直後に墜落した事故が大阪伊丹空港でありました。昭和 39 年 ( 1964 年 ) 2 月のこと、大阪 ( 伊丹 ) 空港発徳島行きの日東航空の グラマン ・ マラード が、離陸直後に エンジン ・ トラブルのため、滑走路端から 約 1,000 メートルのところにある畑に不時着して、後に爆発炎上しました。

飛行機の レシプロ ・ エンジン ( Reciprocating Engine 、往復機関 ) には、GD I ( Gasoline Direct Injection 、直噴 エンジン ) が開発される以前の自動車 エンジンや現在の バイクと同様に、空気を吸入する際に ガソリンを気化して エンジンに送り込む、気化器 ( キャブレター、Carburetor ) がありました。

事故当時は雪が降る天候であり、気化器に送る空気を予熱 ( Pre Heat ) しなかった為に、気化器に着氷した ( キャブ ・ アイス を生じた ) のが原因でした。

飛行機には パイロット 2 名、スチュワーデス 1 名、乗客 7 名の合計 10名が乗っていましたが、そのうち 乗客 1 名、スチュワーデス 1 名の計 2 名が死亡しました。事故機に乗務していた スチュワーデスの麻畠美代子さん ( 京都市出身 ) は、墜落直後乗客の救出と避難誘導に尽力し、一旦は機外に脱出しましたが、乗客の 1 人が機内に取り残されたために救出しようと機内に戻ったところ、漏れた ガソリンに引火して機体が爆発して 殉職しました。

Miyoshih20 彼女の勇敢な行為を称えるために、六甲山の高山植物園の南側を通る六甲山の縦走路の傍に、美代子から名前を取った みよし観音像 が建てられています。

金野 氏も若かりし頃は登山が趣味でしたので、六甲全山縦走大会  (兵庫県 ・ 明石に近い 須磨の浦 から 宝塚まで 九つ の山越えをして尾根道、 56 キロ を制限時間内に歩く  ) に参加して、13 時間で走破しましたが、 事前の トレーニングでそこを通る際には、同業者 ( ? ) として何度もお参りしました。

[ モスクワ ・ シェレメチエヴォ空港 ]

Dc8jal 今から 30 年以上前の昭和 47年  ( 1972 年 )11月のこと、日本航空 446 便の DC-8 型機 が モスクワの シェレメチエヴォ 国際空港を離陸した直後に、高度 100 メートル から失速し、滑走路の端から 150 メートルの地点に墜落した事故がありましたが、離陸してからわずか 30 秒後のことでした。

Seatmental この事故により乗客乗員 76 名中  62 名が死亡しましたが、運航乗務員は 6 名全員が死亡しました。しかし スチュワーデスは 7 名中死亡したのは僅か 2 名であり、死亡率は 36 パーセントでした。

スチュワーデスを除く乗員乗客の死亡率は 82 パーセントであり、そこには大きな差がありましたが、その理由とは前方からの衝撃に対して安全な、後ろ向きに座る スチュワーデス / スチュワード 用の座席のせいでした。

写真は毎回の離着陸に際して緊急事態への対応を、頭の中で再確認 ( Mental Review ) しているところ。

本で読みましたが、アメリカ大統領専用機の エアーフォース ・ ワン では、大統領の座る座席は離着陸時に後ろ向きに固定するそうですが、私が海上自衛隊で乗務した対潜水艦哨戒機でも、航法士 ( ナビゲーター )、レーダー ・ マン など クルーの座席は、離着陸時には後向きに固定しました。

Spoiler 事故原因は副操縦士が離陸後に車輪を上げる際に、誤って スポイラー ( Spoiler 、着陸後 ブレーキ の効果を高めるために、翼に立てて揚力を急速に失わせる抵抗板 ) を立てた為でしたが、ここでも エンジンの防氷装置が OFF ( 使用しない )  になっていたことを、ソ連 ( 当時 ) の事故調査報告書で指摘されました。

操縦席の頭上 パネルに装備された、 エリア ・ マイク ( Area Microphone ) が拾った  C V R  (  Cockpit Voice Recorder ) の記録によれば、

離陸直後の機長の声 : 「 ヤッコラ さ 」、
機長の声 : 「 オイ、それは何だ 」、
副操縦士の声 : 「 すみません 」、

金野 氏から聞いた話によれば、大学で 2 年後輩の M 君が交代  ( OFF  Duty ) パイロットとして、離陸時に操縦室後部に乗っていたそうですが、気の毒にも事故で亡くなりました。彼は スチュワーデスと社内結婚し、たしか子供が 2 人いたはずでしたが、その子も今では 40 才前後になっているはずです。

飛行機事故は絶対に起こしてはならないと、退職後も思う次第です。

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