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2008年8月16日 (土)

夏がくれば

Ozegahara .「 夏がくれば思い出す はるかな尾瀬 遠い空---。 」 という歌詞で始まる 「 夏の思い出 」 という歌がありますが、昭和 24 年 ( 1949 年 ) に作られた ラジオ歌謡で、 江間章子 ( えま しょうこ ) 作詞、中田喜直 ( よしなお ) の作曲で 二人とも既に亡くなりました。

毎年お盆の季節になると航空関係者にっとっては、昭和 60 年 ( 1985 年 ) 8 月12 日に 死者 520 名 を出した、日航 ジャンボ機の御巣鷹山事故のことが思い出されます。

Ireihi それより 8 年前の昭和 52 年 ( 1977 年 ) には、大西洋上の カナリア諸島にある テネリフェ 空港で、濃霧の中で 二機の ジャンボ機が衝突し、死者 583名 という世界最大の飛行機事故が起きましたが、日航機の事故はこれに次いで世界第  2  の事故でした。しかし単機による事故では、世界最多の犠牲者となりました。写真は御巣鷹山の慰霊碑。

その御巣鷹山の事故から今年で 23 年が過ぎましたが、遺族には長い年月だったと思いますが、私にはもう 23 年も過ぎたのか という気がします。

ところで事故機の T 機長は私より 3~4 歳才ほど年下で、海上自衛隊の S 2 F  ( トラッカー )  の元  ・  副操縦士でしたが、機種は異なるものの同じ航空基地に勤務したこともあり、話をしたことはありませんが顔は知っていました。

事故当時は機長見習いを指導する立場の機長でしたが、C V R  ( 操縦室内の録音装置、Cockpit Voice Recorder ) の会話を聞く限り、4 系統の全ての油圧を失い、コントロール不能になった機体の操縦を機長見習いである副操縦士に任せ、自分は頭を上げろ、下げろ、エンジンの パワー ( 出力 ) を増やせ、絞れなどと指示をしていました。

Uraga4 当時,、羽田空港から大阪方面に向かう飛行機の出発経路は、「 Uraga  4  Departure, Yokosuka Transition 、( 浦賀 4 ディパーチャー  ・  横須賀 トランジション ) 」 で したが、湘南にある 江ノ 島 を右下に見ながら相模湾を浜松に向けて飛行中に、緊急事態が起きま した。 図 は 事故機 の 墜落 するまでの 航跡。

Biyoku 日航 123 便の後に離陸して福岡に向かっていた全日空の某機長は、出発経路が  「 HANEDA Reversal Nagoya Transition. ( 羽田 リバーサル、名古屋 トランジション ) 」 であり 日航機とは経路が異なったものの、垂直尾翼の上半分が欠けた事故機の姿を遠 く に発見しま した。 「 お いあの飛行機を見ろ、変な形を しているぞ !。」  

Hisan 緊急事態が起きた 初期 や 中期 ならばともか く、海上から群馬県と埼玉県境にある 山岳地帯 に飛行機 が入り 込み、危険 な 状態になっていたのに、5 2 0 人の 乗客 の 命 を預 かる機長 と して、副操縦士に指示するのを止めに して  「  I h a v e   C o n t r o l 、(  私 が 操縦 する ) 」 を言 い、自分で 操縦桿 を握 り、自分で エンジン 出力 の コントロール を、なぜ しなかったので しょうか?。

方向舵 が 利 かな く ても、左 右 に 二 つ ずつ ある  エンジン の アシンメ トリック ・ パワー ( A s y m m e t r i c   P o w e r 、エンジン の 出力を 左右非対称 に 使用 )  すれば緩やかな 旋回 は可能 であ り、山岳地帯ではなく、海上に向けて変針できたのではないかと、私 には疑問が残 ります。

[ 衝突前の録音 ]

下記は衝突までの 1 分間の C V R の録音ですが、Air Disaster.Com の画面につながり、不愉快な部分が録音にあることを承知する旨の、 「 I Accept -Start Download 」 をクリック して お 聴き下さ い。

気圧低下の警報音が鳴る中 で、頭 ( 機首 ) 上げろ、パワー などと 副操縦士に指示を して、G P W S  ( G r o u n d   P r o x i m i t y   Warning System 、対地接近 警報装置 ) が 作動 し、プ ル ・ ア ッ プ ( P u l l   U p 、機首を上げよ ) の合成音が繰り返されるうちに、最後に機長の声で  「 アー  だめ 」  が入り録音が途絶えま した。

 

https://www.youtube.com/watch?v=1pWT-4-qK-0

Pressurebulkhead この事故の原因は昭和 53 年 ( 1978 年 ) に、大阪空港で起きた機体の尻餅事故の際に生じた、機体最後部の圧力隔壁 ( Pressure Bulkhead ) に生じた亀裂の修理 ミ ス によるもので した。この傘状のもの( クリックで拡大 ) で  1 平方 インチ当たり、8.6 ポンド ( 3.9 キロ ) の客室の与圧を保っています。

ボーイング 社から 派遣 された整備士が、寸法足 らずの修理材を使用 して 手抜き修理をおこない、 日航の整備関係者がそれを見逃 し 、当時の運輸省航空局検査課の検査官も 機体修理 に 合格の メクラ 判  を押 したのが 原因で した。

ノ  ン   ・ キャリア 組の T  検査官は事故後に 服毒自殺 を しま したが、残 された 遺書には群馬県警の取り調べが  「 き つ い 」  からと あったものの、自分の検査 ミ ス により 5 2 0 名の人命が失われたことへのお詫びは、まった く 書 いてありませんで した。

官僚の 無謬性 ( むびゅうせい、過ちを犯 さず、 たとえ 犯 しても 絶対に認めない ) 死んでも---とする態度そのもので した。彼の上司である検査課長、技術部長、航空局長などの キャリア 組は、彼 だけに責任を負わせると、監督責任を問われることもな く、出世の階段を何事もなかったように昇 りま した。

事故原因についても航空事故調査委員会の出 した結論とは別 に、巷 ( ちまた ) では米軍、自衛隊の ミサイル 命中説、無人偵察機との衝突説 などいろいろあ り、その中には事故調査委員会の結論に異議を唱えた、元 ジャンボ  ・ ジェット の 機長 が書いた本までありま した。

諸説の中には、 パイロット の立場 からは首をか しげた く なるものもありま したが、客室内部の与圧が急激に失われたとする件につ いては、異論が出たのも 一応理解できま した。

Ozenumah 最後に夏の思い出の歌を聴きたい人は下記を クリック  してください。この歌ができた直後の 昭和 25~26 年当時、栃木県の高校 に在学中 だった私は、隣 りの 県にある 尾瀬 を 二 度訪れま した。

https://www.youtube.com/watch?v=P4y3hiZfx5E

ホームページ シ ル バ ー 回 顧 録  に戻るには http://www.rose.ne.jp/~ooha/

を クリック。

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コメント

私も、なぜ、機長が「I have」しなかったのか?は疑問に思います。人間パニックになればどうなるかはわかりません、だけれども、あれだけの時間があったのであれば、どこかで気がついてもよかったのかもしれません。

上野村へは一度行って見たいと思っています。まだまだ、物見遊山でいく場所でないので、遠慮しています。

私自身、この年の春に結婚してますので、この年数だけヨメと一緒にいることがわかって、いつまでも忘れません。

先日、クライマーズハイという映画も見ました。ちょっと期待はずれでした。藤岡体育館も一度行きたいと思う場所です。飛行機が落ちるのはある意味仕方ありません。落ちないにこしたことはありませんが、墜落後の動きはあれでよかったのでしょうか?

お亡くなりになった皆様には、まだ23年なんでしょうね。ご冥福をお祈りします。

この件は C V R ( 操縦室内の音声録音 ) が公表された当時から、多くの機長から指摘され、疑問視されていま したが、標高 1,600 メートルの山に衝突するまで、機長自らが操縦に当たらなかった理由を、誰もが理解できませんで した。

墜落現場が確認でき、燃えている現場付近に ヘリコプター から 医療救助隊員を吊り降ろすことは可能だったにもかかわらず、夕闇を理由に自衛隊が しなかったことは残念で した。

救助に積極的でなかったといわれても、弁解の余地はありません。

遭難現場が確定されない段階で車輌を連ねて群馬県境へ向かった陸上自衛隊の部隊では、司令部との連絡用に公衆電話用の10 円玉を袋一杯持って行きま した。

司令部と 短波無線で連絡がとれる 通信車輌が、一台も無かったからで した。戦争を しない陸上自衛隊の、お寒い通信装備の状況で した。

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