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2008年10月31日 (金)

空気よりも軽い

飛行機の分類法には、大別して空気よりも軽いもの ( Lighter than Air ) と、重いもの ( Heavier than Air ) に分ける方法がありますが、前回述べた表具師幸吉 ( 1785年 ) や ドイツ人の リリエンタールが人類初の滑空飛行 ( 1891年 ) をしたのは、空気よりも重い飛行機 ( 器 ) においてでした。

リリエンタールはその後、様々な タイプの グライダーで多数の飛行実験をおこない、詳細な飛行 データを残しましたが、滑空中に グライダーが突風に遭い、墜落事故のため死亡しました。

[ 空気よりも軽いもの ]

ところで人類が初めて空に浮揚したのは、リリエンタールの初飛行よりも 100年以上前の 1783年 のことでした。南 フランスの バンダロンにある製紙工場を経営する ピエール・モンゴルフィエには、なんと 16人の子供 がいましたが、その中には何番目かの兄の ジョセフ・ミシェルと、弟の ジャック・エティエンヌ がいました。

子供の数については、下記を クリック

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-4.htm#hansaku

ミシェルと エティエンヌの二人は、子供の頃に紙袋に焚き火の煙を入れると上昇することから、煙には物体を浮揚させる力があることを知り、煙を袋に入れる実験を試みました。

紙の代わりに絹や麻などの繊維で球形の大きな袋を作り、袋の口の下で火を焚いて煙が袋から逃げないように袋の表面に紙を貼るなどの加工をしましたが、大きな気球を作れば、重い物体も空中に浮揚させることができることを確信しました。

そこで麻布製の直径 36 フィート ( 約10メートル ) の気球を作りましたが、 6,000 フィート ( 1,800メートル ) の高さまで上昇させることができて、実験は成功しました。

製紙工場を経営する裕福な父親から、資金援助を受けたことはいうまでもありませんが、慎重な彼等は気球による有人飛行の実験をするまえに、羊、アヒル、ニワトリを気球に吊り下げた籠に入れて飛行実験をおこないました。動物たちが生きて地上に戻れば、人類にとって未知の上空でも、酸素欠乏の危険が無いことが確かめられるからでした。

Mongoruba 1783 年 11月 21日に初の有人飛行が行われましたが、なぜか モンゴルフィエ兄弟は気球には乗らずに、他人が乗りました。二人を乗せた気球は高度 100メートルまで上昇し、パリ上空の 9 キロメートルの距離を 25分間掛けて飛行しました。

モンゴルフィエ兄弟は フランスの科学 アカデミーから表彰されましたが、有人初飛行の10日後に、今度は科学 アカデミーの シャルル教授と助手の ロベールが、熱せられた空気による 「 熱気球 」 ではなく、水素で気球を膨張させた 「 ガス気球 」 を作り、パリ市内にある チュイルリー宮殿から出発して  2時間の飛行に成功しました。

その後気球を膨らませるには空気を加熱するよりも、効率的な水素が使用されるようになり、熱気球から水素気球へと技術が進歩しました。

ところで人類初の航空事故 は 1785年に起きましたが、前述した モンゴルフィエの気球に乗り初の有人飛行を記録した  ピラートル・ド・ ロジェが犠牲者でした。彼は フランスと イギリスの間にある ドーバー海峡の横断飛行に挑戦するために、直径 13 メートルの 「 水素気球 」を浮揚力として、その下部に直径 3 メートルの小型の「 熱気球 」を備え、これで高度の上げ、下げを調節するつもりでした。

しかし飛行中に 「熱気球」 が発火し、水素気球に引火爆発した結果、高度 400 メートルから墜落してしまい、二人の搭乗者は死亡しました。

日本陸軍では太平洋戦争末期の昭和 19年 (1944年) 6月から、 風船爆弾の製作を始めましたが、アメリカ本土を爆撃するためでした。丈夫な和紙を  「 こんにゃく糊 」 で貼り合わせた水素 ガス気球 ( 風船 ) 9,300個を作り、それに爆弾、焼夷弾を装備して関東地方の太平洋岸から空に放ちました。

Fuusenbaku

その内 約 300個が ジェット気流に乗って北米大陸の カナダ、アメリカに到達し、山火事を起こしたり爆発しましたが、損害は軽微でした。アメリカが最も恐れたのは、伝染病菌の空からの散布でした。

風船 ( 気球 )は今も情報戦争の道具に使われていて、北朝鮮の金正日 ( キムジョンイル ) 総書記の健康悪化説が伝えられると、今年の 10 月に韓国の民間団体が、その情報を記した 「 宣伝ビラ  」 18 万枚を風船に付けて飛ばしましたが、韓国の東亜日報によれば 「 北朝鮮側で  ビラ  を見て民心に動揺が起きたようだ 」 との情報消息通の話を紹介していました。 

2008年10月23日 (木)

日本初の飛行

堅苦しい成田空港の話が続いたので、今回は日本で最初に空を飛んだとされる男、すなわち浮田幸吉の話です。彼は 1757年に備前国八浜 ( 現、岡山県玉野市八浜町 ) に生まれましたが、幼い時に父を亡くしたので近所の傘屋に引き取られ、傘や提灯張りの技術を身につけました。

のちに岡山の親戚の表具屋へ移り、そこで表具師の仕事を覚えました。仕事の合間に近くの寺の境内で鳩を眺めるのが楽しみでしたが、そこから 「 鳥のように自由に空を飛びたい 」 という空への憧れが生まれました。

そこで幸吉は鳩を捕らえて、羽根の面積、体重などの データを採り、その割合を人間に当てはめて、竹を骨格にして大きな羽根を作りましたが、その際に表具師 ( 布や紙をはって巻物、掛け軸、ふすま などに仕立てる仕事で、経師屋ともいう ) の技術が役立ったことは当然でした。

完成した 「 羽ばたき機 」 を体にくくりつけて、屋根の上から飛び降りましたが、羽ばたきをする時間的余裕もなく地面に落下してしまい、見事失敗しました。

この失敗から人間の腕の筋力が、重さ 50 キロ前後の人を羽ばたいて浮揚させるには弱過ぎることを悟ると、次には 「 羽ばたき 」 をせずに空を飛ぶ トビ に目をつけて、滑空することを考えました。

Kokuki1 そこで滑空機 ( グライダー ) の原型ともいうべき形のものを作りましたが、今度は固定した翼を背中に背負い、両手で尾翼を操作する形式のものでした。飛行実験の場所としては岡山城と後楽園の間にあり、市内を流れる旭川に架かる京橋を選びました。

天明 5年 ( 1785年 )7月 に橋の欄干から飛び降りて滑空を試みましたが、 30~40 メートル滑空し、河原で宴会や夕涼みをしていた人たちの上に落ちてしまいました。

それを見た人達は、妖怪が空からやって来たと大騒ぎとなり、奉行所は、「 人のせぬことをするは、なぐさみといへども 一つの罪なり 」 として、所払い ( その土地からの追放処分 ) となりました。

幸吉はその後、今の静岡市に移り住みますが、安倍川でも グライダー飛行に挑戦しました。ここも所払いとなって、今の磐田市に移りましたが、手先の器用さから時計や義歯作りの職人になり、この地で 91歳で没したとされますが、詳細は不明です。

Kinenhi ところで幸吉の飛行に関しては正確な記録が残されていないために、世界の航空史には記録されていません。有人飛行としては、ドイツ人の リリエンタールが 1891年に滑空機を作り、飛行を試みたとする明らかな記録がありますが、表具屋幸吉が滑空を試みてから実に 106年後のことでした。

近年になって日本における航空界の先駆者としての幸吉の快挙を記念して、初飛行の場所付近に記念碑が建てられましたが、碑文には 「 世界で初めて空を飛んだ 」 表具師幸吉の碑 とありました。

2008年10月18日 (土)

成田空港の現状(最終回)

例によって成田空港周辺の衛星写真を掲載しますが、飛行機から見ると、空港周辺の 標高 43 メートルの北総 ( ほくそう ) 台地 には空港以外は森林がほとんどで、 所々に畑があり、水田は台地の下の谷間に少しあるだけでした 。赤色囲いは ゴルフ場です。写真は クリックで拡大。

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私は青森県八戸市の海上自衛隊八戸基地に所属していましたが、昭和 38 年 ( 1963 年 ) に千葉県 東葛飾郡 沼南町にある海上自衛隊 下総 ( しもふさ ) 基地 ( 船橋市の北 12キロ )に転勤し、二年間そこで過ごしました。

対潜水艦哨戒機の機長として、日常の訓練は銚子の東方の太平洋上でおこないましたが、その往復には北から羽田へ進入する際の航空路の真下を、高度 3,000 フィート ( 900 メートル )以下の低高度で潜り抜けたので、成田周辺の地形は上から見てよく知っていました。

現在成田空港がある三里塚には宮内庁の下総 ( しもふさ )御料牧場がありましたが、放牧された馬や羊がいるかどうか機上から見たものです。

その当時は東京と千葉を結ぶ京葉道路は船橋までしか開通せず、成田に通じる東関東 自動車道も無かったので、道路網の不備から 三里塚周辺には ゴルフ場などありませんでした。

それにしてもこの写真だけでも 八つの ゴルフ場が見えますが、ゴルフ場が造成される場所とは、一般にそれまで利用されていなかった森林や、未開発の土地がほとんどです。

想像でものを言うと叱られますが、もし成田空港が無かったとしたならば、この辺にも現在飛行場の誘導路に隣接する黄色で囲った ゴルフ場が、他にも  2~3 箇所できていたのではないかと思います。

関東地方に住む方は 「 関東 ローム層 」 をご存じだと思いますが、数万年~数十万年前の富士、箱根、赤城、浅間、榛名などの火山噴火により生じた火山灰が堆積風化し、火山灰に含まれた鉄分が酸化してできた赤土の層で、貯水性が劣る土質です

東京周辺にある武蔵野台地と同様に、成田空港がある前述した北総台地は灌漑用の水が乏しいことから、農業には困難な場所で長年手付かずの場所でした。

そのため空港反対派が所有する土地の大部分は、 いわゆる先祖伝来の土地ではなく、昭和 20 年 ( 1945 年 ) の敗戦後に外地から引き揚げて来た人々に対して、当時の宮内省が御料牧場の土地の払い下げをしたので、開墾し農業を始めたものでした。

ところで昭和 22年 ( 1947年 ) から占領軍の指令により全国で農地改革 ( 農地解放 )が始まりましたが、それと同様に、殆ど タダ 同然の安い価格 で、入植者 一戸当たり 1 町歩 ( 約 1 ヘクタール ) を払い下げましたが、成田空港建設計画が始まる僅か 20 年前のことでした。農地改革について知りたい人は下記をクリック。

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/nouchi.htm

さらに昭和 36 年 ( 1961 年 ) 頃から始まった高度経済成長の波に乗り、都市近郊の農村では、男は農業より多くの収入が得られる会社勤めをするようになりましたが、それにより家に残った 母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃんだけの 「 三 ちゃん農業 」 が盛んになり、専業農家は減少しました。

成田市の人口統計を見ても、三里塚闘争で有名な 三里塚地区を含む市内の現在の農家人口は、昭和中期 ( 32 年、1957 年 ) 当時の 三分の 一に減少しています。 にもかかわらず成田空港予定地内の 数軒の農家はなぜ居座り続けるのでしょうか?。

その答えは 公共の利益を完全に無視し、空港建設、拡張に反対し続けることにのみ自己の存在意義を認め、それが生き甲斐だからです

ある空港反対派の 2008 年 8 月の ブログによれば、農業を継続するために農地を守るのではなく、思想的に政治闘争化を続けようとしていました。

                              ---引用開始---

「 空港絶対反対 」  ・  「 農地死守 」  ・ 「 実力闘争 」 の闘争原則と、動労 ( 引用者注、 旧 J R の動力車労働組合のことで、主に電車の運転士で構成する組合 ) 千葉、とともに切り開いた 「 労農連帯 」 の闘いです。

反戦 ・ 反核 ・ 反権力 ・ 反差別の広範な市民運動、住民運動との連帯です。そして全世界の労働者 ・ 農民との国際連帯です。反対同盟は人民の勝利を確信します。

              ---引用終了---。

とありましたが、かつての 「 何でも反対、社会党 ( 現 社民党 ) 」 時代の 労働運動の固定観念 から 哀れなことに一歩も抜け出せずに 、全世界の労働者 ・ 農民との国際連帯などと、 現実とは大きくかけ離れた夢物語、 虚構の世界の言葉遊びに、酔いしれた人の文章でした

せめてもの救いは成田市議会をはじめ県内 27 の市議会、千葉県議会、51 町村議会などが、平成  9 年に成田市内で起きた過激派による、住宅爆破事件で重傷者が出たのをきっかけに、極左主義 ・ 暴力集団の排除 ・ 絶縁を決議したことでした。

成田空港の拡張工事がいつ完成するのか目途がつきませんが、後期高齢者である私の目が黒いうちに、完成願いたいものですが、 ---無理かな ? 。 ( 終わり )

2008年10月11日 (土)

成田空港の現状 (2)

偏向 マスコミは日本の空の玄関、首都空港の滑走路上に反対派の民家や私有地が存在し、滑走路が何十年も使用できないという恥ずべき状態を報道せず、国交大臣の椅子から中山大臣を引きずり降ろして喝采していましたが、果たしてそれで良かったのでしょうか?。

[ 御神木、ごしんぼく ]

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私が現役の頃には誘導路の傍の反対派住民が持つ 「 飛び地 」 には、外人 パイロット達から皮肉を込めて Sacred tree ( セイクリッド ・ ツリー、御神木 ) と呼ばれていた 1本の立木が、野中の一本杉のように立っていました。

そのために滑走路と ターミナル 2 の間を飛行機が地上走行する際には、大型 ジェット機の長い主翼が 「 御神木 」 に当たらぬように大きく迂回して通行していました。

写真で黄色の点線が迂回 ルート、赤い マル 印 が 「 御神木 」 の位置でしたが、現在もあるかどうかは知りません。写真は クリックで拡大。

[ 一坪地主 ]

2006 年11 月21 日の朝日新聞千葉版の記事によると、成田空港内の土地を細分化して所有権登記をした、空港反対派のいわゆる 「 一坪地主 」 の所在を確認するために、成田空港公団から組織を変更した成田国際空港会社( NAA )が頭を痛めているそうです。

土地の収用手続きをしたくても、中には外国に移住した者もいるとか---。

「 一坪地主 」 とは土地登記簿上の名義人 ( 地権者 ) を増やして、土地収用手続きを煩雑化させる目的で作られたものですが、三里塚・芝山連合空港反対同盟が、空港内の地権者から土地を購入し昭和41 年 ( 1966 年 ) に始めました。一時は約 1,260 人におよびましたが、成田空港が開港すると約  400 人に減少しました。

昭和 58 年 ( 1983 年 ) に反対同盟は、2 期工事阻止をねらい再度 「 一坪地主 」 運動を始めた結果、平成7 年 ( 1985 年 )には 約 1,400 人に増えました。

社会党 ( 現社民党 ) も空港反対闘争の一環として、組織的に 「 一坪地主 」運動を推進しましたが、当時の土井たか子委員長も 一坪地主になりました。空港建設に反対し妨害行為をしながら、彼女と社会党 ( 現社民党 )員たちは、訪朝、訪中の度に成田空港から出入国していました。

ある時成田空港へ帰国した土井党首に対して、 カメラの前で テレビ記者からその矛盾点を追求されると、記者を無言でにらみ付けただけで何も答えませんでした。( 正しくは 答えられなかった のでした )

公の立場にある政党の党首が 成田空港を常に利用しながら 反対派の 「 一坪地主 」 に名前を連ね、空港建設工事を自ら妨害するという矛盾や、その愚行を テレビの視聴者の前に露呈した結果になりました。

そのせいもあったのでしょうか、2003 年の衆院選挙では兵庫 7 区 ( 西宮 ) から立候補しましたが、小選挙区で落選して、比例区でようやく復活しましたが、社民党は僅か 6 議席しか取れませんでした。

さらに 2005 年の比例区選挙でも彼女は落選しましたが、来春に予想される衆議院議員の選挙に今回立候補を断念しました。しかし彼女が 「 一坪地主 」 を止めたという話は聞こえてこないので、どうなったのか知りたいところです。

6 年前の小泉訪朝により拉致事件の真相が明らかになるまでは、拉致事件を否定し続け、北朝鮮を熱愛した政治家でしたが 、その時点で責任を取り引退すべきでした。--- あまりにも遅すぎた決断でした。

[ 私権公共の利益、の現状 ]

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この写真は 2007 年撮影の衛星写真で、黄色の線は平行滑走路 ( 磁方位 160度 / 340 度 ) の予定地ですが、赤囲いは反対派の所有地です。

そこへの誘導路は、あたかも障害物競走の コースのように曲がりくねっていて、写真のように出発機と到着機がすれ違うのも大変です。写真は クリックで拡大。

日本の表玄関である首都の空港において、中山 (元 )大臣が言った 「 ごね得 」 の発言は、この状態を指摘したものであり、当然のことを言ったまででした。

あなたはこの写真を見て、成田空港予定地における私権と、公共の利益のどちらを 優先すべきであると考えますか?。  ちなみに法律では、

[  憲法 ]

29 条 ( 財産権の保障 )

1 項 : 財産権は、これを侵してはならない。

2 項 : 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。

3 項 : 私有財産は、正当な補償の下に、これを 公共のために用いることができる

[ 土地収用法 ]

第 1 条 ( この法律の目的 )
この法律は、公共の利益となる事業に必要な土地等の収用又は使用に関し、その要件、手続き及び効果並びにこれに伴う損失の補償等について規定し、公共の利益の増進と私有財産との調整を図り、もって国土の適正且つ合理的な利用に寄与することを目的とする。

とあります。

2008年10月 4日 (土)

成田空港の現状 (1)

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就任したばかりの中山国土交通大臣が 9月25日に、成田空港拡張工事の遅れについて、

「 ごね得というか戦後教育が悪かったと思いますが、公共の精神というか公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでもという考えが無くて、自分さえよければという風潮の中で、なかなか空港拡張もできなかったのは大変残念だった。 」

と述べましたが、日教組に対する発言と共に、その責任を問われて辞任しました。黄色の X 印は長年にわたり使用できない滑走路、誘導路です。写真はクリックで拡大。

日教組に対する非難の件はさておき、元 パイロットの立場からすれば、成田空港に関する彼の発言は至極当然のことを述べたまでであり、滑走路の不足がもたらす ラッシュアワーにおける離着陸機の順番待ち、空港の非効率な運用については、日本人、外人 パイロット ( そして乗客 ) の誰もが痛切に感じていたことでした。

[ 空港建設の経緯 ]

国内線、国際線機で混雑する羽田空港の混雑緩和のために、昭和37年 ( 1962年 ) に新東京国際空港を建設することになりましたが、その候補地が千葉県富里 ( とみさと ) 霞ヶ浦地区、羽田空港拡張案、東京湾の木更津沖などと 二転三転した末に、昭和41年 ( 1966年 ) 7月に現在の場所に、住民に対する説明不足のままで、空港建設が閣議決定されました。

地域住民による成田空港建設反対の抗議運動を絶好の機会と捉えて、過激派学生、左翼主義者などが、ヘルメットを被り、 「 ゲバ棒 」 と称する 「 こん棒 」 を持ったなどして成田空港建設反対の大規模闘争をおこないましたが、昭和46年 ( 1971年 ) には パトロール中の機動隊員三名が待ち伏せした多数の過激派に 襲われ、 ゲバ棒で殴り殺される事件も起きました。

昭和 53年 ( 1978年 )の 3月、私は北米大陸の中央部にある カンサス州の カンサス市 ( 現地の発音で言えば キャンザス、Kansas 、インディアン の部族名に由来 ) の ホテルに滞在して、大型 ジェット機の飛行訓練を受けていましたが、ある日  テレビ・ニュースを見ると開港間近の成田空港の管制塔に左翼過激派が乱入占拠し、航空管制設備や機器を破壊した映像を流していましたが、あたかも日本に左翼革命でも起きたような報道ぶりでした。

空港建設工事は難航し、閣議決定から実に 12年後の昭和53年 ( 1978年 ) 5月に、ようやく成田空港が開港しましたが、不便なことに長さ 4,000メートルの滑走路 1本だけでした。

昭和 63年 ( 1988年 ) には空港拡張用地の強制収用に必要な千葉県の収用委員会の委員長が、左翼過激派に襲われ重傷を負ったことから収用委員全員が辞任し、千葉県知事は委員の後任を任命しない、つまり土地の収用委員会を開催しないことに決めました。ヤクザに脅かされたので、商店主が店 ( 公務 )を閉めた図式でした。

昭和61年 ( 1986年 )に第二期工事が始まりましたが、政治闘争化した反対運動の激しさから工事は遅々として進まず、平成3年 ( 1991年 ) には閣議で、

「 いかなる状況下でも強制的手段を用いず、平和的に解決する 」

という方針が確認されましたが、この 「 霞ヶ関文学 」 の表現を分かり易い言葉で言えば、何もしないということでした

[ 滑走路上にある民家 ]

左翼主義者たちが 「 平和運動 (?) 」 の際に常用する耳障 ( ざわ ) りの良い、 「 話し合いによる解決 」 の言葉に役人が騙された結果については、まずは冒頭に掲載した成田空港の写真を見て下さい。

写真は空港を北側から撮ったものですが、画面中央に横たわる滑走路は、東西方向から風が吹く際に使用する予定の 横風滑走路です。しかし滑走路の舗装工事完了後何十年も経つというのに、未だに使用不能なのです。

その理由とは滑走路上に、空港反対派の民家が居座り続けているからであり、下の写真の赤線で囲った部分が、それです。

空港開港から今年で丁度 30年が過ぎ、二期工事開始から 22年経ちましたが、 「 話し合いによる解決 」 の方針がもたらした結果がこれです。

Naritax

腰抜け政治家による 「 公共の利益よりも、個人の権利を優先させた 」愚かな行政の対応や、偏向 マスコミ によるそれを支持する主張の結果生じた、成田空港の恥ずべき実状 ( 世界に類のない滑走路上の民家の存在 ) を国民が知らされずにいる限り、 おそらく今後何十年もこの状態が続くものと思われます。現場は ターミナル 2 の北側にある横風滑走路上です。

反対派の民家や私有地があるのはここだけではなく、他の場所にもあり、空港の運用を著しく妨げています。

さらに 新設された平行滑走路の予定地域にも別の民家が居座っているために、長さ2,180メートルの短い滑走路しか作れず、小型ジェット機や、プロペラ機しか離着陸できない状態です。参考までに世界の主要空港における、滑走路の数を御覧下さい。

[ 大型 ジェット機用、滑走路の数 ]

ヒースロー ( ロンドン ) : 二本
シャルル ・ ドゴール ( パリ ) : 四本
レオナルド ・ ダ ・ ビンチ (  旧名 フミチノ ) ( ローマ ) : 四本
スキポール ( アムステルダム、オランダ ) : 四本
ダレス ( ワシントン D C ) : 五本
ケネディー ( ニューヨーク ) : 四本
オヘア ( シカゴ ) : 六本
ハーツフィールド ・ ジャクソン ( アトランタ ) : 五本
ロサンゼルス : 四本
サンフランシスコ : 四本
チャンギー( シンガポール ) : 三本
インチョン ( ソウル ) : 三本
北京 ( 中国 ) : 三本
キングスフォード ・ スミス ( シドニー ) : 三本
関空 : 二本
成田 : 僅か 一本です

この数字を見てどのように感じましたか?。冒頭に記した 中山 ( 元 ) 大臣の発言を、もう一度読み返して下さい。 ちなみに大型 ジェット機用の滑走路 三本を持つ チャンギー空港がある シンガポール の国土面積は、関西にある 淡路島とほぼ 同じ広さです。( 続く )

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