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2008年10月18日 (土)

成田空港の現状(最終回)

例によって成田空港周辺の衛星写真を掲載しますが、飛行機から見ると、空港周辺の 標高 43 メートルの北総 ( ほくそう ) 台地 には空港以外は森林がほとんどで、 所々に畑があり、水田は台地の下の谷間に少しあるだけでした 。赤色囲いは ゴルフ場です。写真は クリックで拡大。

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私は青森県八戸市の海上自衛隊八戸基地に所属していましたが、昭和 38 年 ( 1963 年 ) に千葉県 東葛飾郡 沼南町にある海上自衛隊 下総 ( しもふさ ) 基地 ( 船橋市の北 12キロ )に転勤し、二年間そこで過ごしました。

対潜水艦哨戒機の機長として、日常の訓練は銚子の東方の太平洋上でおこないましたが、その往復には北から羽田へ進入する際の航空路の真下を、高度 3,000 フィート ( 900 メートル )以下の低高度で潜り抜けたので、成田周辺の地形は上から見てよく知っていました。

現在成田空港がある三里塚には宮内庁の下総 ( しもふさ )御料牧場がありましたが、放牧された馬や羊がいるかどうか機上から見たものです。

その当時は東京と千葉を結ぶ京葉道路は船橋までしか開通せず、成田に通じる東関東 自動車道も無かったので、道路網の不備から 三里塚周辺には ゴルフ場などありませんでした。

それにしてもこの写真だけでも 八つの ゴルフ場が見えますが、ゴルフ場が造成される場所とは、一般にそれまで利用されていなかった森林や、未開発の土地がほとんどです。

想像でものを言うと叱られますが、もし成田空港が無かったとしたならば、この辺にも現在飛行場の誘導路に隣接する黄色で囲った ゴルフ場が、他にも  2~3 箇所できていたのではないかと思います。

関東地方に住む方は 「 関東 ローム層 」 をご存じだと思いますが、数万年~数十万年前の富士、箱根、赤城、浅間、榛名などの火山噴火により生じた火山灰が堆積風化し、火山灰に含まれた鉄分が酸化してできた赤土の層で、貯水性が劣る土質です

東京周辺にある武蔵野台地と同様に、成田空港がある前述した北総台地は灌漑用の水が乏しいことから、農業には困難な場所で長年手付かずの場所でした。

そのため空港反対派が所有する土地の大部分は、 いわゆる先祖伝来の土地ではなく、昭和 20 年 ( 1945 年 ) の敗戦後に外地から引き揚げて来た人々に対して、当時の宮内省が御料牧場の土地の払い下げをしたので、開墾し農業を始めたものでした。

ところで昭和 22年 ( 1947年 ) から占領軍の指令により全国で農地改革 ( 農地解放 )が始まりましたが、それと同様に、殆ど タダ 同然の安い価格 で、入植者 一戸当たり 1 町歩 ( 約 1 ヘクタール ) を払い下げましたが、成田空港建設計画が始まる僅か 20 年前のことでした。農地改革について知りたい人は下記をクリック。

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/nouchi.htm

さらに昭和 36 年 ( 1961 年 ) 頃から始まった高度経済成長の波に乗り、都市近郊の農村では、男は農業より多くの収入が得られる会社勤めをするようになりましたが、それにより家に残った 母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃんだけの 「 三 ちゃん農業 」 が盛んになり、専業農家は減少しました。

成田市の人口統計を見ても、三里塚闘争で有名な 三里塚地区を含む市内の現在の農家人口は、昭和中期 ( 32 年、1957 年 ) 当時の 三分の 一に減少しています。 にもかかわらず成田空港予定地内の 数軒の農家はなぜ居座り続けるのでしょうか?。

その答えは 公共の利益を完全に無視し、空港建設、拡張に反対し続けることにのみ自己の存在意義を認め、それが生き甲斐だからです

ある空港反対派の 2008 年 8 月の ブログによれば、農業を継続するために農地を守るのではなく、思想的に政治闘争化を続けようとしていました。

                              ---引用開始---

「 空港絶対反対 」  ・  「 農地死守 」  ・ 「 実力闘争 」 の闘争原則と、動労 ( 引用者注、 旧 J R の動力車労働組合のことで、主に電車の運転士で構成する組合 ) 千葉、とともに切り開いた 「 労農連帯 」 の闘いです。

反戦 ・ 反核 ・ 反権力 ・ 反差別の広範な市民運動、住民運動との連帯です。そして全世界の労働者 ・ 農民との国際連帯です。反対同盟は人民の勝利を確信します。

              ---引用終了---。

とありましたが、かつての 「 何でも反対、社会党 ( 現 社民党 ) 」 時代の 労働運動の固定観念 から 哀れなことに一歩も抜け出せずに 、全世界の労働者 ・ 農民との国際連帯などと、 現実とは大きくかけ離れた夢物語、 虚構の世界の言葉遊びに、酔いしれた人の文章でした

せめてもの救いは成田市議会をはじめ県内 27 の市議会、千葉県議会、51 町村議会などが、平成  9 年に成田市内で起きた過激派による、住宅爆破事件で重傷者が出たのをきっかけに、極左主義 ・ 暴力集団の排除 ・ 絶縁を決議したことでした。

成田空港の拡張工事がいつ完成するのか目途がつきませんが、後期高齢者である私の目が黒いうちに、完成願いたいものですが、 ---無理かな ? 。 ( 終わり )

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コメント

いつも楽しく拝見しています。
私は 成田空港建設によって移転させらました。
ちょうど36年前私が 小学校3年生のときです。
空港反対運動が激化し 授業どころではなくなり引っ越しました。そのときは 簡単に引っ越せました。政府の後押し 金銭的な援助もあり。
しかし その後は引越しした方は大変です。
ともに反対運動を続け たとえば10年後に移転するとなると ”裏切り者”のレッテルを貼られ レッテルだけでした無視すればよいのですが 最悪 襲われます。北朝鮮状態です。
 現在でも 一部の空港移転組みは 三里塚の交差点から北東に部落を作って集団で移転していますがあの35年前から 今日まで24時間 365日 機動隊の警備のもと生活しています。部落の入り口には機動隊が監視ポストに常駐し出入りをチェックしています。移転するのも大変なのです。
 旧日本軍の話と似ているように感じます。
一部の狂人的は指導者が情報を発するとあたかも全体が狂気に満ちたよう。。旧日本軍も空港反対派もトップは独自の思想をもっていますが 大多数はただの”百姓”です。いつも犠牲になるのも ”百姓”とこれまた同じです。

空港建設のために立ち退きをされたとは、ご苦労さまでした。私が訓練の行き帰りに成田付近の上空を飛んでいた頃には、あの付近にお住まいだったわけですね。

人生には思わぬところで人とのすれ違いがあり、軌跡の交差があるものだと感じております。

しかし空港建設を受け入れて移転した人が、現在も機動隊の監視 ポストに守られて生活しているとは、驚きました。

もう一度代執行をかけて駄目なら廃棄するか貨物便専用空港にすべきですね。 今なら代執行への支持も当時よりはるかに大きいでしょう。

それにしても成田は国内線への乗り換えが不便すぎます。

都心からの距離が 70 キロもある成田は、遠すぎて不便すぎます。

同じ様な例が ケベック州の州都で カナダ第二の都市、モントリオールでありました。 あそこは西 22 キロに ドルバル国際空港 ( 後に地元出身の首相の名前から、トルドーとも呼ぶ )がありましたが、手狭になったので 1975年に北 50 キロのところにある ミラベル市に、第二の空港、ミラベル国際空港を作りました。

しかし市街から遠すぎて不便なために 従来の ドルバル空港を再度整備し、2004年からは ミラベル空港は、貨物便と外国からの チャーター便だけが使用しています。

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