« 成田空港の現状(最終回) | トップページ | 空気よりも軽い »

2008年10月23日 (木)

日本初の飛行

堅苦しい成田空港の話が続いたので、今回は日本で最初に空を飛んだとされる男、すなわち浮田幸吉の話です。彼は 1757年に備前国八浜 ( 現、岡山県玉野市八浜町 ) に生まれましたが、幼い時に父を亡くしたので近所の傘屋に引き取られ、傘や提灯張りの技術を身につけました。

のちに岡山の親戚の表具屋へ移り、そこで表具師の仕事を覚えました。仕事の合間に近くの寺の境内で鳩を眺めるのが楽しみでしたが、そこから 「 鳥のように自由に空を飛びたい 」 という空への憧れが生まれました。

そこで幸吉は鳩を捕らえて、羽根の面積、体重などの データを採り、その割合を人間に当てはめて、竹を骨格にして大きな羽根を作りましたが、その際に表具師 ( 布や紙をはって巻物、掛け軸、ふすま などに仕立てる仕事で、経師屋ともいう ) の技術が役立ったことは当然でした。

完成した 「 羽ばたき機 」 を体にくくりつけて、屋根の上から飛び降りましたが、羽ばたきをする時間的余裕もなく地面に落下してしまい、見事失敗しました。

この失敗から人間の腕の筋力が、重さ 50 キロ前後の人を羽ばたいて浮揚させるには弱過ぎることを悟ると、次には 「 羽ばたき 」 をせずに空を飛ぶ トビ に目をつけて、滑空することを考えました。

Kokuki1 そこで滑空機 ( グライダー ) の原型ともいうべき形のものを作りましたが、今度は固定した翼を背中に背負い、両手で尾翼を操作する形式のものでした。飛行実験の場所としては岡山城と後楽園の間にあり、市内を流れる旭川に架かる京橋を選びました。

天明 5年 ( 1785年 )7月 に橋の欄干から飛び降りて滑空を試みましたが、 30~40 メートル滑空し、河原で宴会や夕涼みをしていた人たちの上に落ちてしまいました。

それを見た人達は、妖怪が空からやって来たと大騒ぎとなり、奉行所は、「 人のせぬことをするは、なぐさみといへども 一つの罪なり 」 として、所払い ( その土地からの追放処分 ) となりました。

幸吉はその後、今の静岡市に移り住みますが、安倍川でも グライダー飛行に挑戦しました。ここも所払いとなって、今の磐田市に移りましたが、手先の器用さから時計や義歯作りの職人になり、この地で 91歳で没したとされますが、詳細は不明です。

Kinenhi ところで幸吉の飛行に関しては正確な記録が残されていないために、世界の航空史には記録されていません。有人飛行としては、ドイツ人の リリエンタールが 1891年に滑空機を作り、飛行を試みたとする明らかな記録がありますが、表具屋幸吉が滑空を試みてから実に 106年後のことでした。

近年になって日本における航空界の先駆者としての幸吉の快挙を記念して、初飛行の場所付近に記念碑が建てられましたが、碑文には 「 世界で初めて空を飛んだ 」 表具師幸吉の碑 とありました。

« 成田空港の現状(最終回) | トップページ | 空気よりも軽い »

コメント

こんにちは
当地には高御位山(たかみくらやま)があって、1921年(大正10年)この岩場から地元出身の飛行士がグライダーで飛び立ち、山頂には彼を称えた飛翔の碑があります。

知りませんでしたので早速調べてみると、志方町の 渡辺信二という人でした。大正 10年 ( 1921年 )に自作した滑空機に乗り、高御位山から飛び出して 300 メートル 滑空しましたが、時に 21才でした。

しかし素人がいきなり グライダーで長い距離を滑空するなど、不可能なことなので、それ以前に何度も練習を重ねたことと想像します。

その後民間水上飛行機のパイロットとして、定期航空に従事しましたが、大正15年 ( 1926年 ) に大阪から四国に向け郵便飛行中に火災になり、神戸沖で墜落し 26才の若さで殉職しました。

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本初の飛行:

« 成田空港の現状(最終回) | トップページ | 空気よりも軽い »