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2008年11月29日 (土)

機械が空を飛ぶことは、不可能

ライト兄弟は最初 グライダーの飛行実験に取り組みましたが、その際に気象台と連絡を取り強い風が恒常的に吹く地域を教えてもらい、大西洋に面したその当時辺鄙な キル ・ デビル ・ ヒルズの地域を実験場所に選びました。

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ここに キャンプ用の小屋と作業場兼、機体の格納小屋を建てて実験に着手しましたが、飛行機に搭載する小型 ガソリン ・ エンジンも自動車会社に作成を依頼したものの、断られたので自分で設計し、12 馬力の エンジンを製作しました。

グライダーの機体に エンジンを搭載し、機首の上げ/下げを司る昇降舵を機体の前方 ( 現代の飛行機は全て後方、水平尾翼 ) に取り付け、方向舵 2 枚を後部に装備して操縦可能にしました。飛行機の名前には 「 フライヤー 」 と名づけました。

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[ 腹ばいの姿勢での、操縦 ]

エンジンは 1 台でしたが、自転車に使用する チエーンを利用して 2 基の プロペラを回す 「 双発 」 にしたので、後に自転車が空を飛んだといわれました。機体は翼長 約 12 メートル  の複葉機で車輪は無く、滑走路は木のレール、機体は 2 本の長い 「 そり 」 の上に乗っていました。操縦者は腹ばいになって飛行機を コントロールしました。

最初の操縦を兄弟のどちらがするのかを、日本ならば普通 ジャンケンで決めますが、アメリカには ジャンケンの習慣がなかったので、代わりに トス ・ アップ ( Toss Up ) で決めました。コインを上に投げ上げてそれを掴み、相手に 表 ( Head ) か 裏 ( Tail ) かを当てさせて決めますが、勝ったのは兄の ウィルバーでした。

兄の飛行は 12月14日におこなわれましたが、昇降舵の オーバー ・ コントロール ( Over Control 、操縦操作の過大 ) で 3 秒間空中に浮かんだだけで墜落し、失敗に終わりました。

破損した部分を修理して 3日後の 12月17日に、今度は弟の オービルが操縦することになりました。

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写真は フライヤーが離陸した歴史的瞬間で、後方から撮ったもの、右端は兄の ウイルバーです。

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ロープを解き放すと マシーンは滑走を始め、時速 11 キロメートル ~13 キロメートルくらいまで スピードを上げた。マシーンは 4 番目の レールにさしかかったところで空中に浮いた。前方の昇降舵が重心に近いために過敏な反応を示し、上下運動を制御するのが非常に困難だった。

結果として マシーンは 10 フィート ( 3  メートル )上がったかと思うと、今度は地面に向かって急降下した。レールの終端から100 フィート ( 30 メートル ) くらいのところで突然地面にたたきつけられた。飛行時間は 12秒だった。(1903年12月17日、弟の オービル ・ ライト の手記より)

Nationalmemorial 初飛行の丘 ( キル ・ デビル ・ ヒルズ ) には国の記念碑が建てられていますが、飛行機はこの丘の下り斜面と向かい風を利用して離陸に成功しました。道路は離陸用の レール があった場所。

ライト兄弟が空を飛んだことを最初は誰も信じませんでしたが、目撃証人が地元の住民 5 人だけであり、マスコミ関係者が誰もいなかったことが災いしました。ニューヨークの マスコミ、アメリカの陸軍、各大学の教授、科学者は新聞等で ライト兄弟の飛行に対して、 機械が空を飛ぶことは、科学的に不可能 という主旨の記事や コメントを発表していました。

2008年11月22日 (土)

地名が悪い

ライト 兄弟 ( Wright Brothers、兄 ウイルバー、弟 オービル ) が自作の グライダー ( 滑空機 ) に エンジンを取り付け、しかも操縦可能にした飛行物体 ( 飛行機 )で人類初の動力による飛行をしたのは、1903 年 ( 明治 36 年 )12 月 17 日のことでした。

Killdevilh3 その場所とは アメリカ東海岸の ノースカロライナ 州 デア 郡にある 、キル ・ デビル ・ ヒルズ ( Kill Devil Hills 、悪魔殺しの丘 ) でしたが、多くの本にはこの地名ではなく、そこから 4 キロ メートル北にある、 キティーホーク ( Kitty Hawk、タカ の幼鳥 ) において、 飛行機の初飛行がおこなわれたと書いてありますが、それは誤りでした。

地名を キティホーク にした理由とは、当時 「 キル ・ デビル ・ ヒルズ 」 には 人家が無く、最寄りの部落が キティーホークであったからでしたが、それと共に 「 悪魔殺し 」 という地名から受ける、語感の悪さも関係していました。

Killdev ちなみに 「 キル ・ デビル ・ ヒルズ 」 という地名の由来は、  「 悪魔を殺すほど強い酒 」であるとする ラム ( Rum )酒に関連していて、ある時 ラム酒を積んだ船が海岸付近で シケ のため遭難した際に、付近の住民が積み荷の ラム酒を盗み取り、砂丘の裏に隠したことから、この地方が キル ・ デビル ・ ヒルズと名付けられたのだそうです。

写真の標識には 近代航空、発祥の地 とありますが、ここには国が建てた記念碑 ( National Monument ) もあります。

ラム酒とは サトウキビ に含まれる糖分を醗酵させ、蒸留して作る強い酒のことで、西インド諸島 ( カリブ海周辺の島 ) 原産の ラム酒が有名ですが、今では世界中で作られています。

アルコール含有量 40 パーセント ( 度 ) が ラム酒の標準ですが、世界には 72.5 パーセント ( 度 ) という強烈な ラム酒もあるので、「 悪魔殺し 」 と呼ばれたのかもしれません。

飛行機が発達するにつれて、いつの間にか隣町の キティー ・ ホークの名前が有名になり、アメリカの航空母艦の名前にもなりましたが、通常 エンジンを持つその艦は平成 10 年 ( 1998 年 ) から今年 ( 平成 20 年 ) の 5 月まで 10 年間、神奈川県の横須賀海軍基地を母港としていました。

その後は原子力空母の ジョージ・ワシントンと交代して帰国しましたが、キル ・ デビル ・ ヒルズでは艦名として相応しく無いと判断されたので、名付けられなかったのでしょう。

Bicyclewr これまで ライト兄弟は初飛行をした キル ・ デビル ・ ヒルズ 、( あるいは キティーホーク ) の近郊に住んでいたと思っていましたが、実はそうではなく、その当時汽車と連絡船を乗り継いで 3 日もかかる、オハイオ州西部にある デイトン に住み、自転車屋を営みながら飛行機作りの資金を貯めていたのでした。

写真はその建物で電柱の標識には Aviation Trail と書かれていて、現在は彼らの遺品などが展示されている プチ 博物館になっています。

兄弟は二人とも当時としては珍しく生涯独身を通しましたが、彼等によるその理由とは 「 妻と飛行機の、  両方は養えないから 」 でした。

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2008年11月15日 (土)

気球から飛行船へ

フランス人の モンゴルフィエが作った気球に乗り、人類が初めて空に浮揚したのは 1783年でしたが、気球は風に吹かれて移動するだけで、自分の好む方向へ進むことなどできませんでした。それ以後も気球は原理的に進歩せずに、空の散歩や観測をするための道具に留まりました。

Giffardas それから 69年後の 1852年には、同じ フランス人の アンリ ・ ジファール が、自分で動くことができて、しかも操縦できる気球を考えましたが、その形とはそれまでの気球のような球形ではなく、葉巻 タバコ を太くしたような形をした、長さ 145 フィート ( 44 メートル )、直径 40 フィート ( 12 メートル )の ガス袋でした。

それに石炭 ガスを使用した 3馬力の、重さ 150 キロの蒸気 エンジンを搭載し、直径 3.5メートルの 3枚羽根の プロペラ、回転数毎分 110回 を装備しました。ガス袋の浮力と プロペラの推力で高度 1,800 メートルまで上昇し、 パリから トラップ ( Trappes ) までの 27 キロを 3時間半ほどで飛行しましたが、これが軟式飛行船の始まりでした。

[ 日本における気球 ]

ところで日本で初めて気球を作って揚げたのは、明治10年 ( 1877年 ) 年のことでした。西南戦争の際に薩摩軍により熊本城が 50日間にわたり包囲されましたが、その際に政府軍を救援するために、気球を利用する計画が立てられました。

そこで東京の築地にあった海軍省練兵所 ( 場 )で行われた気球の実験では、奉書紙に ゴム を塗装して高さ 16.2 メートル、幅 9 メートルの 1人用の気球を 2 個作り、石炭 ガスを使用して浮力を得ましたが、高度 198 メートルまで上昇し実験は成功しました。しかし熊本城の攻防戦に決着がついたため、実用化は見送られました。

Yamadakitebal 民間でも気球を研究する人がいましたが、和歌山県生まれの山田猪三郎 ( いさぶろう、1863~1913年 )でした。彼は同じ和歌山県出身の先輩で工兵大佐の古川宣誉 ( のぶよし )に勧められて、1897年 ( 明治 30年 ) から気球の研究に着手しましたが、従来の気球に改良を加えて日本式気球を開発しました。

日露戦争 ( 1904年~5年 ) の際には 山田式気球が軍用に採用されて、気球 2 個を持つ臨時気球隊が設立されましたが、乃木将軍の指揮する第 3軍に編入され、旅順要塞の包囲戦では 14 回の浮揚をおこない、敵状の偵察や砲兵隊による射撃の際には、弾着観測などをおこないました。

[ 山田式飛行船 ]

Yamadahikou 明治41年 ( 1908年 ) に アメリカ人の ハミルトンや、イギリス人の スペンサーが飛行船を見せ物 興行のために日本に持ち込み、東京上野で飛行船を公開しましたが、それに刺激されて、その翌年には山田猪三郎も飛行船の製作を始めました。

明治43年 ( 1910年 ) には国産初の山田式第1号飛行船を完成しましたが、全長 33メートルの軟式飛行船で、これで同年9月8日に東京の大崎から目黒まで試験飛行に成功しました。さらに翌年には設計を変更して、75馬力と 50馬力の二つの ガソリン・エンジンを備えた飛行船を作り、東京上空を 20 キロメートル飛行しました。

しかし ツエッペリンなどの旅客を運ぶ飛行船がもてはやされたのは短い期間であり、明治36年 ( 1903年 )に 自転車屋を営む ライト兄弟が手作り飛行機の初飛行を成功させたことにより、大空への挑戦は飛行船から飛行機へと、大きく変わることになりました。

下記の動画は飛行船の発達に トドメ を刺した ドイツの巨大な硬式飛行船 、ヒンデンブルク の爆発炎上の様子と ラジオの実況放送ですが、大西洋を横断しアメリカのニュージャージー州、レイクハースト空港に着陸する際に事故が起きました。原因は浮力の基本となる水素 ガス への引火でしたが、以後は危険な水素に代わり、安全な不活性 ガスの  ヘリウム を使用するようになりました。

http://jp.youtube.com/watch?v=YDU2MWJwJDc

2008年11月 8日 (土)

飛行船の巻

Balship 空気よりも軽い ( Lighter  than  Air  ) 乗り物の分類に含まれるものには、気球以外に、飛行船 ( Air Ship )もあります。昭和 32年 (1957年 ) から約 二年間 アメリカ海軍飛行学校に留学しましたが、その当時の アメリカ海軍には飛行船もありました。

写真の船の右舷にある見慣れぬものは飛行船の係留塔で、飛行船の船体には骨組が見えることから、後述する硬式飛行船です。

当時、我々が単発の練習機 (  S N J 、Texan 、テキサス人 ) で訓練する飛行場にもたまに飛来して、 タッチ・アンド・ゴー ( Touch and Go ) と呼ばれる離着陸の訓練をしていましたが、人が乗る ゴンドラ ( 操縦室 )の下部には車輪がついていて、船首から垂らした係留用の ロープ を地上で待ち受ける人が捕らえて係留塔に係留していました。

飛行船の欠点は地上に係留する際に多くの人手が必要なこと、風に弱いために長期停留の場合には、大きな格納庫に入れる必要がありました。飛行船には上の写真のように、金属製の骨組みの上を薄い金属板 ( ジュラルミン )で全体を覆い、内部に複数の ガス気嚢を収納する硬式 ( Rigid ) 飛行船と、ゴム製で骨組がない軟式 ( Non-Rigid )飛行船の二種類があります。

さらに重い  ゴンドラを取り付ける部分を金属で補強した 半硬式 ( Semi-rigid )飛行船もありましたが、アメリカ海軍では飛行船 ( Air Ship )のことを、「 Ship 」 の語感がもたらす  「 まぎらわしさ 」 を避けるために、一般的に、バルーン ( 気球、Balloon ) と呼んでいました。

Wingmark また飛行船の パイロットのことを バルーン・パイロットと呼び、彼等が胸に付ける ウイング・マーク ( パイロット記章 ) は片羽根の デザインでした。

それでは アメリカ海軍では飛行船を何に使ったのかといえば、太平洋戦争中に兵士や軍需物資を運ぶ輸送船の船団を、潜水艦の攻撃から守るための護衛でした。空気よりも軽いという性能を生かして、長時間、時には数日間も船と同じ速度で移動し、船団の上空付近に留まり警戒することができるからでした。

アメリカ海軍では太平洋戦争中に 168 隻の飛行船を保有していましたが、出撃回数: 55,900回、総飛行時間: 55万時間、護衛した艦船: 約89,000隻 飛行船の損失は ゼロ、撃沈した潜水艦の数も ゼロ でした。

飛行船は ヘリコプターのように下降気流を生じない、 エンジンの騒音が少なく、空中で 一箇所に停止する ( ホバリング、Hovering ) もできるなどの利点から、アメリカでは今でも  フットボールの試合などを上空から テレビ撮影するのに飛行船を使うことがあります。

ところで太平洋戦争末期の昭和19年 ( 1944年 )まで東京都内に住んでいた私は、防空演習になると都内の各所から、陸軍の気球部隊が上げる阻塞気球 ( そさいききゅう ) という金魚の形をした気球を見ることができました。

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高さはせいぜい数百 メートル程度でしたが、低高度で侵入し攻撃する敵機にとって飛行の邪魔をするためのものでしたが、アメリカの高性能の B-29 爆撃機に対しても効果があると思っていたのでした。

Sanyo 昭和40年代になると大きな飛行船に絵や文字を描き、低速で飛行しながら広告宣伝することが流行りましたが、ある先輩も退職後に飛行船の パイロットになったものの、企業としては採算が採れずに、やがてその会社は事業から撤退してしまいました。写真は軟式飛行船。

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