島田紳助の引退騒動
暴力団との十数年にも及ぶ付き合いが指摘され、 紳助が突然芸能界から退場する宣言をしたので、テレビ業界、マスコミが大騒ぎとなった。しかし芸能界と暴力団の関係 ・ 癒着は今に始まったことではない。
山口組が他の暴力団と軋轢を起こした最初が、昭和 35 年 ( 1960 年 ) 8 月の明友会との抗争であった。明友会は在日朝鮮人らを中心にした大阪の愚連隊で、昭和 28 年( 1953 年 ) 頃から頭角を現し、やがて大阪 ミナミの繁華街を ショバ ( 利権の場所 ) にするようになっていた。
昭和 35 年 ( 1960 年 ) 8月10 日未明、三代目山口組の組長田岡一雄は舎弟の経営する キャバレー で公演した 田端義夫 への礼をかねて、ミナミの サパークラブ「 青い城 」へ田端を招待したが、席についたところを先に客として騒いでいた明友会のメンバーが因縁をつけた。
そこで喧嘩となり、山口組幹部が殴られたため、田岡の目の前で喧嘩を売られるといった失態を恥じた山口組幹部らは明友会を次々に襲い、わずか 2 週間で明友会は壊滅し、ミナミの利権は山口組の手中に落ちた。
ところで 平成元年 7 月 6 日 に、「 真摯な精進 歌謡曲を通じて国民に夢と希望を与えた功績 」 から 7人目の 国民栄誉賞 を受賞した美空ひばり は、かつて山口組の田岡組長が作った芸能 プロダクション 「 神戸芸能社 」 に所属し、
田岡を 「 田岡のおじさま 」 と呼んでいた。 興行する上で 暴力団とは、持ちつ持たれつの関係にあったからに他ならない。
大泥棒 石川五右衛門の辞世の句ではないが、「 浜の真砂 ( まさご ) は尽きるとも、世に 暴力団の タネは尽きまじ 」