邪魔者は殺せ
北朝鮮の支配者金正恩の叔父に当たり体制 ナンバー ・ ツーだった張成沢 ( チャン ソンテク ) が、逮捕されてから 4 日目の 12 月 12 日に処刑されたことは、旧 ソ連の スターリン時代が蘇 ( よみがえ ) ったようで、現代に住む者にとっては驚きであった。
ところで万葉集 124 に有間皇子 ( ありまのみこ、640~658 年 ) が詠んだ歌があるが、
家にあれば 笥 ( け ) に盛る飯 ( いい ) を、草枕 旅にしあれば椎 ( しい ) の葉に盛る。
歌の意味は家にいれば器に盛る御飯を、野宿する旅の途中なので椎の葉に盛って神に供える。 [ 自分に掛けられた 謀反 ( むほん ) の疑いが晴れることを、神に祈って ] 。
彼は第 3 6 代 孝徳 ( こうとく ) 天皇の息子であったが、天皇が没すると天皇の姉 ( 有間皇子にとっては 叔母 ) が、第 3 5 代の皇極 ( こうぎょく ) 天皇から再度皇位に就き、第 3 7 代 斉明 ( さいめい ) 天皇となった。
上記の歌は斉明女帝から謀反の疑いを掛けられて、叔母が湯治の為に滞在する和歌山県の白浜温泉に護送される途中に、紀伊国 藤白坂 ( 現 ・ 和歌山県 海南市 藤白 ) で有間皇子は 絞首され僅か 19 歳でその生涯を閉じたが、不吉な運命が予想される旅の途中 で詠んだ歌であった。
斉明女帝の後に皇位を継いだのは、予定通り 「 わが子 」 の 中大兄皇子 ( なかの おおえのおうじ ) で、後に第 3 8 代 天智天皇となった。
戦国時代においても 親 ・ 兄弟が互いに殺し合い ・ 追放するのはよくあることであった。甲斐 ( 山梨県 ) の英雄武田信玄は父親の武田信虎を追放し、織田信長は人望のあった弟の信行を殺した。
豊臣秀吉は あと継ぎの 鶴松が夭折 ( ようせっつ、幼いころに死ぬ ) したが、後に 甥の秀次 ( ひでつぐ、1568~1595 年 ) を 1591 年に養子に迎えた。 その 2 年後に愛妾の淀君に 「 秀頼 」 ( 1593~1615 年 ) が生まれると、秀次を高野山に追放し切腹させたが、享年 2 8 歳であった、下図は秀次。
罪名は 「 謀反の罪 」 とされたが かなり疑わしい。 関白の地位にあった秀次を失脚させ、高野山で既に出家していたのに腹を切らせ、その首を京都の三条河原で 「 さらし首 」 にし、家族 妻妾 侍女 など 3 9 人もそこで処刑した。
ポルトガルの イエズス会宣教師の ルイス ・ フロイス ( 1532~1597 年、 長崎で没 ) が記した日本史によれば、秀次は
若年ながら深く道理と分別をわきまえた人で謙虚であり、物事に慎重で思慮深かった
とあるが、石田三成などの 「 讒訴、ざんそ、人を陥れるために悪く告げ口する 」 による 「 えん罪 」 の可能性が高いといわれている。
晩年の豊臣家の中で唯一の成人した親族であった秀次を殺したことで、豊臣家滅亡の一因ともなった。
猜疑心 ( さいぎしん、疑り深い性格 ) が強く 「 源 義経 」 を初め、愛妾の静御前 ( しずかごぜん ) が生んだ義経の長男を出産直後に鎌倉の海に沈めて殺し、叔父の源行家など多くの同族兄弟を殺したために、僅か 三代、3 0 年で滅んだ 「 源 頼朝 」 の鎌倉幕府と似ている。
チャン ・ ソンテク の場合も陰謀行為を理由に国家に対する反逆罪で死刑に処せられたが、事件の真相は 「 金政権 」 が崩壊するまで 不明のままであろう。
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コメント
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管理人さん、森本です。
「霧社事件」のページで、
「墓 あばき を常習とする漢民族と、日本人が価値観を共有することなど、 到底不可能 なことだ」
と述べておられ大変驚いたのですが、今回の「チョンソンタク即死刑」を解説した 毎日新聞の記事(余禄)を読んでもっと驚きましたので書き込みます。
1498年(コロンブスのころ)、李氏朝鮮では「戊午士禍、ボゴシカ」という事件があったそうで、権力者の政敵の墓が暴かれ斬首されたそうです。
単に墓を暴くだけならよくあることと読みすごしたでしょうが死んで腐乱し悪臭を放っている「敵」だった人物の「首」をはねてまで「復讐」する行為は私の理解を超えています。
この件で人生の先輩である貴兄からコメントをいただければありがたいのですが如何でしょうか?
投稿: 森本 | 2013年12月16日 (月) 16時31分
管理人に対する要望・質問などは受け付けないことになっておりますが、今回に限り特別です。
中国の史書である春秋編第 28 集に 「 掘墓鞭屍 」 がありますが、中国の春秋時代 ( 紀元前 6 世紀 ) に楚の国に平王がいました。
彼に父と兄を殺された 「 伍子胥 」 ( ごししょう ) が平王の死後に恨みを晴らすために、墓をあばいて死体を鞭打った故事が記されています。
朝鮮は 2 千年もの間 中国の侵略を受け従属し、中国を世界の中心である 「中華の国」 として崇め奉りました。
6 世紀以後になると、 複数の文字からなる朝鮮姓を捨てて中国風の 一文字の姓に創氏改名して、自らもその子分である 「小中華 」 になりきることに努力し、科挙 ・ 宦官の制度まで導入しました。
李氏朝鮮王朝の者も 四書五経の勉強で 「 掘墓鞭屍 」 の故事を知り、恐らく マネ をしたのでしょう。
投稿: 管理人 | 2013年12月16日 (月) 21時20分