55 年前の防空識別圏
私が アメリカ海軍飛行学校を卒業して帰国し、青森県八戸市にある海上自衛隊八戸航空基地に配属になったのは丁度 55 年前のことであった。対潜水艦哨戒機 ( P 2 V - 7 ) の第 3 操縦士 ( 航法士、ナビゲーター ) として勤務したが、当時は ソ連 ( ロシア ) との冷戦の最中であった。
日本に対する平和条約発効 ( 1952 年 ) から 6 年後の当時、自衛隊の パイロット ・ ナビゲーター にとって必要な航空関係の情報出版物 ( A I P 、Aeronautical Information Publication ) といえば日本の 運輸省発行のものなど存在せず、航空路誌 ( ラドファック、 R A D F A C 、Radio Facility Chart ) ・ 計器進入図 ( Instrument Approach Chart ) ・ 航法用 チャート などは、全て アメリカの D O D ( Department Of Defense 、国防省 ) 発行のものを使用していた。
今回 11 月 23 日に中国政府が尖閣諸島を含む空域に防空識別圏 ( A D I Z ) を設定した際の マスコミ報道によれば、日本が1969 年 ( 昭和 44 年 ) に設定したように報道したものもあったが、私が知る限り1945 年に アメリカ占領軍が設定した防空識別圏 ( A D I Z、Air Defense Identification Zone ) が日本の周辺にすでに存在していた。
しかも防空識別圏には アウター A D I Z と インナー A D I Z の 二種類あったが、通常問題になったのは日本列島の外側 400 キロメートル付近に設定されていた アウター A D I Z のことであった。
青森県むつ市の近くの釜伏山 ( 標高 878 m ) には当時 A D C C ( A i r Defense Control Center ) があり、私も見学したことがあったが、防空識別圏内を日常訓練などで有視界飛行する場合には A D C C / A D D C に対して、20 分毎に位置通報することが義務付けられていた。
敵味方 不明機 ( ボギー、 Bogy ) が日本の防空識別圏に接近した場合には、航空自衛隊基地や米空軍基地から スクランブル緊急発進をしたが、迎撃戦闘機を ボギーに インターセプト ( 迎撃 ) させるための レーダー 管制をする A D D C ( Air Defense Direction Control ) などの レーダー ・ サイトが各地の離島や海岸近くの高所に多数存在していた。
今年の 11 月 26 日に米軍の B-52 爆撃機 2 機が中国が新設した防空識別圏を 2 時間にわたり飛行したが、中国側の発表によれば 「 米軍機の行動の一部始終を適切に モニターしていた 」 とのことであった。
地上からの レーダー電波の届かない空域を、早期警戒管制機、エイワックス ( A W A C S 、Airbor ne early Warning and Control System ) 機も飛ばさずに 行動を把握した などと発表したのは、警戒監視態勢の不備、体面を取り繕うための ウソに決まっている 。中国が 新設したばかりの防空識別圏内を飛行する米軍機の写真を、 この重要な時期に 1 枚も発表しなかったのが何よりの証拠であった。
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コメント
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投稿: Harper | 2013年12月30日 (月) 14時47分