天皇誕生日に思う
今上天皇 ( きんじょう てんのう、現 ・ 天皇のこと ) が 80 歳の傘寿 ( さんじゅ )を迎えられたことは、昭和天皇に続き二人目のことで結構なことであった。
テレビで見る限り前立腺 ガン手術後の薬剤服用のせいか、天皇の顔色がやや赤みを帯び、太り気味か あるいはむくみがあるように思われた。
昭和 20 年 (1945 年 ) の敗戦当時 小学校に在籍した人は現在 75~80 歳前後になっているが、昔は今上天皇の誕生日のことを天長節( てんちょうせつ ) と呼び、小学校は祝日のため休校か、式典を催した。
その際には天長節の歌を歌ったが、歌詞は下記の動画にある。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=Y-2iT-dZfCk
私は天皇誕生日が来る度に、 アメリカ政府の邪悪な復讐心 ( ふくしゅうしん ) の発露である東京裁判や、その他の軍事裁判のことを思い出す。
敗戦の年の昭和 20 年 ( 1945 年 )12 月 8 日の 真珠湾攻撃の記念日 を選んで、当時東京の大森にあった戦犯収容所から A 級戦犯を巣鴨 プリズンに移送し、昭和 21 年 ( 1946 年 ) 4 月 29 日の 昭和天皇誕生日 に被告たちを起訴した。
フィリピンでは 、開戦当時の第 14 軍司令官の本間雅晴中将 ( 上の写真 ) の攻撃に耐えかねて、 マッカーサーは 8 万人の部下を見捨てて 家族共々バターン半島の コレヒドール要塞から魚雷艇で オーストラリアに向けて逃亡した。
戦歴に ドロ を塗られた マッカーサーは、「 バターン半島 死の行進 」 の指揮官責任を本間中将になすり付け、マニラの米軍事裁判所は、 2 月 11 日 の 紀元節 ( 現在の建国記念日 ) に銃殺刑を宣告し、本間中将が 4 年前に コレヒドール要塞に立てこもった米国軍と フィリピン軍に 総攻撃を命じた同じ 月 日 時刻である 、昭和 21 年 4 月 3 日の午前 0 時 53 分 に死刑を執行するという 念の入れ様であった。
.極 ( きわ ) めつけは昭和 23 年 ( 1948 年 ) 12 月 23 日 、つまり当時の皇太子であった現 天皇の誕生日に、東条首相以下 7 名の A 級戦犯の死刑を執行したことであった。
これにより 国民が末永く祝うべき 将来の天皇の誕生日を、 7 人の A 級戦犯の血で汚すことにより、 復讐を永続的に遂げたつもりであった。
ところが この 「 もくろみ 」 は日本人の特技でもある 「 忘れ易さ 」 により、見事に失敗した。
なぜなら、今日 12 月 23 日が 「 A 級戦犯 」 の 六十五 回目の命日 に当たる ことを知る日本人は ほとんどいないからであり、 そのことは天皇を 「 国の象徴 」 とする我々にとってはもちろん、 A 級戦犯たちにとっても非常に良かったと思っている。
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