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2014年4月29日 (火)

泣き女について

Nakipuropaf

泣き女 は商売だから依頼主の求めに応じてどこででも泣くが、もらう金額が多ければそれだけ大声で体の動きも入れて派手に泣く。写真は従軍慰安婦  (?) の少女像。

韓国の フェリー沈没事故について泣き叫ぶ安否不明者の家族の映像を見て、 民族的違和感を感じたのは 私だけであろうか?。大統領府への抗議行進を伝える韓国の テレビには、警察に制止されて 「 泣き崩れる女性 」 が映っていたが、この女性は別の場面で数人の抗議参加者と 「 談笑して歩いていた 」  ことが判明した。

視聴者から 「 本当に安否不明者 ・ 遭難者の家族なのか 」 といった疑問が寄せ られたという。

私は小学校 5 年の夏に

http://www.hey.ne.jp/~ok/sokai.htm

学童集団疎開で長野県に行くまで、東京都豊島区巣鴨 5 丁目に住んでいたが、家の近くの路地裏に朝鮮部落と呼ばれた長屋があり、そこには朝鮮半島から出稼ぎに来た朝鮮 ( 半島 ) 人が大勢住んでいた。詳しくは下記を参照のこと。

http://www.hey.ne.jp/~ok/hp-4.htm#owaiya

Nakiba

あるときその部落で葬式があったが、出棺に際して大声で泣きながら 死者に朝鮮語で語りかける女性を見て 、子供心に非常に驚いたことを覚えているが、あとで聞くと、葬式の度に雇われて泣く 朝鮮人の 「 泣き女 」 であった。

「 泣き女 」  または 「 泣き屋 」 ( なきや ) とは中国や朝鮮半島を初めとして 、かつては昔の日本の地方にも存在し、泣くことを職業とする伝統的な女性の職業であった。

主に葬儀の時に、遺族 ( 家族や親族 ) の代わりに、「 悲しい 」 ・ 「 辛い 」 ・ 「 寂しい 」 などを表現するために、大げさに  「 泣きじゃくる 」  ことを以って生業 ( なりわい ) とした者もいた。

しかし昭和初年 ( 1926 年 ) 頃では、大阪府 ・ 南河内郡 ・ 狭山村 ( 現 ・ 狭山市 )  の南部に 泣き婆 ( なきばば ) の風習がみられたほかは、わずかに島や海辺の村、特に南方に残っていたに過ぎない。

沖縄の先島 ( さきしま ) 諸島では死者の近親の女性がこの役に当たり、その声は集落全体に聞こえるくらいの音量であったという。

また五島列島の奈留島 ( なるしま ) では、泣き人の多いことを誇りとし、葬儀に参列する者もあらん限りの大声で哀泣 ( あいきゅう ) したという。

これは 「 悪霊ばらい 」 や、泣き声で死者の霊魂を呼び戻す 「 魂呼 ( たまよ ) ばい 」 としての性格も併せ持つとされる。

古代日本においては、神話の中でも、妻の イザナミ を亡くした男の イザナギ の涙から  「 泣沢女神 」  ( なきさわめの かみ ) という女神が生まれている。

彼女は水神とされているが、 神名からみると、古代から 「 泣き女 」 の習慣があったものと推測されている。

例の 『 魏志倭人伝 』 には、死者が出ると肉を食べず喪主は号泣するが、他の人は歌舞飲酒を行ったとある。やがて日本ではこの習慣は時代とともに徐々にすたれていったが、前述したように地方では 昭和の初めまで行われていた所もあった。

地域によっては、泣き女を 「 ナキビト 」 ・ 「 ナキババ 」 ・ 「 ナキバアサン 」  ・  「 トムライババ 」  などと呼んだ。

また、その布施米  ( 謝礼の米 ) の量に応じて泣き方などを変えたとされ、石川県七尾 ( ななお ) 市付近や 伊豆大島では、  「 1 升 泣き 」  ・ 「 2 升泣き 」  などといった言葉もかつて存在した。

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コメント

マイクロフォンを持って泣いていた映像もありました。
まさに職業的でした。
遺族に罵られる朴は、大震災の時の某首相にだぶりました。

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