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2015年3月28日 (土)

精神病の パイロット

2015 年 3 月 24 日に西 ・ バルセロナから独 ・ デュッセルドルフに向けて飛行していた ドイツの格安航空会社  ( LCC )  ・  ジャーマンウイングス の定期便  エアバス A 320 型機が フランス南東部の山中に墜落し 150 名が死亡した。

Germanwings

ドイツの検察当局は 3 月 27 日、アンドレアス ・ ルビッツ副操縦士 (27 ) の関係先を家宅捜索を実施したところ、医師の診断書を発見したと発表した。上の写真は 2014 年に撮影された ジャーマンウイングス の 事故機 。

Cockpitdoor1

上の写真は事故機と同じ A 320 型機の センター コンソル にある、操縦室の  ドア スイッチ である。

2001 年 9 月 11 日に起きた ニューヨーク   W T C  の テロ 事件以後、 操縦室の ドア の強化と共に ロック  機構が強化され、スイッチを  L O C K  位置  にすると、外部から ドア が絶対に開かなくなった。  それが今回は裏目に出て、トイレ に立った機長を閉め出す結果となった。

副操縦士宅の家宅捜索の結果押収された医師の診断書には、墜落当日を含めて 「 勤務不可 」  との内容が記されており、当局は副操縦士が精神の病気治療を会社に隠して乗務していた可能性が高いとしている。

 ジャーマンウイングスは 27 日、副操縦士から診断書について知らされていなかったことを明らかにした。また、独紙南 ドイツ新聞は同日、副操縦士が 長期間、精神状態について治療を受けていたと報じた。


[  日航機、羽田沖事故の場合 ]

日本でも昭和  57  年 ( 1982 年 ) に、福岡発羽田行き日本航空 350 便 D C-8-61 型機が羽田空港への最終進入中に沖合い 510 m の東京湾に墜落した。この事故で乗客 24 名が死亡し、乗員 8 名と乗客 87 名が重傷、乗客 54 名が軽傷を負った。

Jalhaneda

原因は、機長が全 エンジンの出力を アイドルにし、操縦桿を前に押し込んだためであった。機長に このような異常な操作を行わせたのは、妄想型 精神分裂病 ( 精神分裂病は、現在は統合失調症と呼ばれている ) による精神的変調であった。

機長には  「 心身症 」 との診断により乗務を外れていた経歴があったが、実際には、その当時既に精神分裂病を発症していたと推測されている。

その後、乗務復帰から事故までの間も、断続的に機長は異常な言動や行動を繰り返していたが、主治医は  「 うつ病 」 と診断して投薬治療等を行っていた。

機長の家族はもちろん、同僚なども機長の精神的異常にうすうす気付いていたが、上司と医師の間のコーディネーションの不足が招いたものであった。

JAL  の運航乗務員だった友人によれば、当該機長の実家はいわゆる 「 精神病の家系 」 であり、先祖や家族に精神病院への長期入院者、自殺者もいて、 近所では誰もが知る  「 問題の家系 」 であったといわれている

しかし日本においては パイロット採用に際して興信所による身元調査を、個人の人権を守るために企業に禁止したために、事故が起きるまで会社はこのことを知らなかったといわれている。

 「 個人の人権 」 擁護 と、  「 公共の利益 」  =  飛行の安全性確保 との選択の問題でもある。  

現在 パイロットに対して乗務前の アルコールの呼気検査を義務付けているが、それよりも航空安全のために なすべき重要な施策があるのではないか!。

https://www.youtube.com/watch?v=BR3qbC44JUw

2015年3月 9日 (月)

中国は対日 戦勝国か?

中国は 対日 戦勝 (?) 70 周年 にあたる 2015 年 9 月には、軍事 パレードを含む記念式典を開催するといわれている。

中国政府  ・ 外交部の報道官は 3 月 2 日、記念式典には第二次世界大戦の主要参戦国と アジアおよびその他の地区の国家指導者、国連など国際組織の責任者、中国の抗戦勝利に貢献した国際的な友人と遺族を招待すると述べた。

ところで 1930 年代における中国大陸は内戦状態にあり、蒋介石 ( しょうかいせき )率いる中華民国の国民党政府軍と、毛沢東 ( もうたくとう ) 率いる共産党軍 ( 紅軍、日本名、八路軍、はちろぐん ) とが長年互いに主導権争いをしていた。

国民党軍 ( 蒋介石軍 ) に敗れた共産党軍 ( 紅軍 ) が、中華 ソビエト共和国の中心地であった江西省の瑞金 ( ずいきん ) を放棄して、1934 年から1936 年にかけて国民党軍と交戦しながら、1 万 2 千 キロを徒歩で延安山中まで退却を続けた敗戦を、長征  ( ちょうせい、 Long March  )などと共産党軍は称した。

Moutakutou

言葉では勝ったように見せかけているが、その実体は 負け戦による敗残兵の逃避行であり、8 万人もいた共産党軍兵士が、延安の山中にたどりついた時には 千人といわれている。上の写真は毛沢東の馬上姿だが、服装 ・ 装備もばらばらでこれでも軍隊か?。

日本が中国大陸において戦った戦闘の八割は蒋介石 ( しょうかいせき ) 総統率いる中華民国 ( 首都、南京 ) の国民党政府軍との戦いであり、当時は主として ゲリラ活動をしていた 八路軍 ( はちろぐん ) といわれた中国共産党軍 ( 紅軍 ) との戦闘は、二割にしか過ぎなかった。

昭和 20 年 ( 1945 年 )8 月 15 日の日本がポツダム宣言受諾 ( 敗戦 ) の時点で日本が勢力下に治めていた中国の主な都市は、南京 ・ 北京 ・ 大連 ・ 上海 ・ 天津 ・ 旧満州国 ( ハルピン ・ 長春 ・ 瀋陽 ・ 現 吉林省など東北部一帯 ) ホンコン ・ 広州などであった。 

これで中国共産党軍が対日戦争に勝利した、などとよく言えたものである。

日本が負けたのは主として東南アジア ・ 太平洋において米軍との戦争に負けたのであり、中華民国の国民党軍 ( 現 ・ 台湾政府 ) や共産党軍に負けたのでは決してなかった。

一時的には日本軍が損害を蒙った戦闘もあったが、中国国民党軍(蒋介石軍)との主導権争いの戦闘が主であった共産党軍(八路軍)にとっては、日本軍との戦闘に勝利できる状態ではなかった。

より明確な証拠を示せば日本が ポツダム宣言の受諾により、 1945 年 9 月 2 日東京湾上の戦艦 ミズーリ艦上で降伏文書調印式がおこなわれた。

その際に 中国代表 として署名したのは、当時の中華民国 ( 現 ・ 台湾を支配する政権 ) 代表の 徐永昌( じょ えいしょう ) であった。

ここが重要な点で、 中華人民共和国 ( 中国共産党政権 ) が誕生したのは、その 4 年後の 1949 年 10 月 1 日のことであった。

つまり日本の敗戦当時には 存在しなかった国が、「 対日 戦勝国 」 を自称しているのに過ぎない。

いつから 僭称  [ せんしょう、身分を偽り、勝手に ( 戦勝国の ) 称号を唱えること ] するようになったのか?。  その答は 2008 年から始めたものである。

さらに付け加えると、中華人民共和国 ( 現 ・ 中国政府 ) が中華民国 ( 現 ・ 台湾政府 ) に代つて 中国大陸を代表する国であると国連で認められたのは、

1971 年 10 月 25 日に、  「中国代表権に関する決議 2758 」 が国連総会で採択された時からであった。

これは現 ・ 中国共産党による建国から 22 年後のことであり、中国政府による 歴史の歪曲 ( わいきょく ) 宣伝には 、真実の歴史を指摘することによって対抗しなければならない。

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