紫雲丸について
今から丁度 60 年前の昭和 30 年 ( 1955 年 )の 5 月 11 日のこと、香川県高松港から岡山県の宇野港に向かっていた旧国鉄の宇高連絡船 「 紫雲丸 」 が高松市沖で船と衝突し沈没、乗客が死亡した海難事故が起きた。
事故はその日の早朝に起きたが、 「 紫雲丸 」は上り 「8便」 として高松港出港から約 15 分後に、濃霧の中で岡山県宇野港から高松港に向かっていた同じ旧国鉄の宇高連絡船の 下り 「 153 便 」 の大型貨車 運航船 の 「 第 3 宇高丸 」 1,282 トンと衝突し沈没した。
その結果乗客 168 名が死亡したが、その中には修学旅行中の島根、広島、愛媛、高知 4 県 4 校の小中学校の生徒 100 名が含まれていた。
紫雲丸の中村正雄船長は当時の船員法 12 条に定められた 「 船長の最後去船義務 」 に従い、沈み行く船の ブリッジ ( 船橋 ) に最後まで留まって船と運命を共にした。
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紫雲丸は昭和 22 年 ( 1947 年 ) 7 月に竣工した 1,450 トンの船で旅客定員 1,500 名、そのうち 1 等 20 名 ・ 2 等 167 名 ・ 3 等 1,313 名であった。
[ 紫雲丸事故の生存者 ]
我が家の老妻には 20 年来の友人 グループ があり、その中に 「 H 」 さんもいて、泊まりがけの グループ旅行に行ったりしていたが、二ヶ月間入院の末に心不全で今年の 5 月に急に亡くなった。
通夜と葬儀に参列した老妻によると、生前の 「 H 」 さんからその話を聞いたことがなかったが、実は小学 6 年生の時に修学旅行で紫雲丸の事故に遭遇し、必死に泳いで助かった 「事故の生き残り」 であったという話を聞いてきた。
海難事故で 「 H 」 さんが通学していた広島県にある離島の小学校の 6 年生 97名中 生徒 22 名 ( 死亡率 23 % )、先生 3 名が亡くなったとのことであったが、「 H 」 さんが病死したのは紫雲丸事故から丁度 60 年目の奇しくも 同月同日 ( 5 月 11 日 )であった。
故郷から葬儀に訪れた親戚の人によれば、紫雲丸の事故で亡くなった小学校の仲良しだった同級生が、 「 H 」 さんを迎えに来たのに違いないとのことであった。 ( 合掌 )
この事故について生徒の溺死者 ( 女児 81 名、男児 19 名 ) がでたことを教訓にして、全国の 小 ・ 中学校に水泳 プールを設置し水泳訓練をする動きが始まり、旧国鉄の連絡船に代わり 本州 ・ 四国連絡橋の架橋運動が盛んになる契機となった。
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