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2016年1月31日 (日)

40 年以上続く小学校の クラス会

東京都 豊島区 巣鴨にかつて存在した 仰高北( ぎょうこうきた )小学校 5 年男子による 40年以上続く クラス 会が、今年も 1 月の最終土曜日 ( 1 月 30 日 ) に J R 山手線  ・大塚駅 北口近くの居酒屋でおこなわれた。

今を去る 72 年前の第二次大戦末期の昭和 19 年 ( 1944 年 ) 8 月のこと、米軍機による空襲の被害を避けるために、当時小学 5 年生だった 75 名の男子児童が東京から長野県の山奥の寺に集団で疎開 ( 学童集団疎開 ) したが、同じ学年の女子児童たちは優遇されて同じ郡内にある 田沢温泉の旅館に疎開 した。

現地での 食料不足による 「 飢えの辛さ 」 、防寒衣料や設備が整わない中で積雪 1 メートル の雪国で暮らす  「冬の寒さ」 、最初の二ヶ月間は疎開児童用の入浴設備が 寺 には無く、 「 ノ  ミ」  や  「 しらみ 」 が湧く 辛い思い」 をしながら、敗戦により現地解散するまで 1 年以上を寺で過ご した。

写真は下着などに付着 し、縫い目などに産卵 して増殖する  「 ころも じらみ 」 で、体内の黒いものは人から吸った血液 。疎開 した女子児童の髪の毛には、 別種の 「 あたま じらみ 」 が発生 して困ったといわれている。

Koromojirami

集団疎開先での生活を知りたい方は、下記を クリック

http://www.rose.ne.jp/~ooha/3a.htm#shashin

http://www.rose.ne.jp/~ooha/hp-1a-1.htm#fusoku

敗戦後の昭和 40 年 ( 1965 年 ) 頃から級友たちが互いに連絡を取り合い疎開先の寺を訪れたり、お世話になった村の寮母さんや、寺の関係者を泊まりがけで東京見物に招待 したり したが、人生の一時期に同 じ辛い体験を したことが皆の心をひとつに し、これほど長く  しかも毎年定期的に クラス 会を催すことができて良かったと思っている。写真は去年のもの。

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しか し我々も今年で 8 3 歳を迎える老人となり、級友の 4 割はすでに他界 し、あるいは身体の老化により行動が不自由になり、出席者も 10 人程度になって しまった。私にも 「 お迎え 」 が近づ いて来たが、会そのものはあと 4~5 年は継続するであろう。

ちなみに母校の小学校は 昭和 20 年 ( 1945 年 ) 4 月13 日の大空襲 ( B-29 爆撃機、 百七十機の空襲 ) で辺り 一面の焼け野原となり、我々の家と共に焼失  して廃校となった。

学校名の 「 仰高 」 ( ぎょうこう ) とは孔子 ( こう し ) の言行を弟子が書いた 論語 の中の文言

顔淵喟然歎曰、之彌

に由来するもので、同じ豊島区内の 駒込 5 丁目 1-19 には 「 仰高小学校 」 が今も存在 している。

[ その読み方 ]

顔淵 ( がんえん )、喟然  ( きぜん ) と して歎  ( たん )  じて曰わく、これ ( 孔子の徳 ) を げば彌々 ( いよいよ )  く---。

[ 上記の漢文を現代文に直 して説明すると ]、

春秋時代の思想家 ・  儒家 ( じゅか、儒者 ) の始祖である孔子 ( こうし、 紀元前 551 ~ 前 479 年 ) の高弟である 顔淵  [ がんえん、顔回 ( がんかい ) ともいう ]  が溜息ま じりに言った。 「 先生  ( 孔子 ) の 徳 は 見上げるほどに益々 高 く---。

廃校となった小学校の跡地には大塚聾 ( ろう ) 学校が建っているが、かつて小学校であったことを知る人は、地域にもほとんどいなくなった。歴史とはそういうもの ( 忘却 ) である

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