( そ の 2 )、 佐久間艇長の話
今年 8 3 歳 以上の人は 国民学校 ( 小学校 ) 6 年 の 「 修身の教科書 」 で、「 沈 勇 」 と 題 して記 されていた、佐久間 艇長 (1879 ~ 1910 年 ) の 話を 習ったはずである。
第 6 号 潜水艇は それまでの 潜水艇 とは 異 なり、日本海軍 初の 国産 による 潜水艇 であった。
明治 4 3 年 ( 1910 年 ) 4 月 15 日 のこと、佐久間 大尉 を 艇長 とする 第 6 号潜水艇は 山口県 新湊 ( 山口県 熊毛郡 平生町 新湊 ) 沖で 半潜航 訓練中 に 故障 により沈没 して、佐久間艇長以下 14 名の乗組員全員が艇内に 閉 じ込められて殉職 した。
二日後の 4 月 17 日 に第 6 潜水艇 が引き揚げられたが、乗組員 1 4 名中 1 2 名 は 自身の持ち場を離れず死亡 しており、持ち場以外にいた 2 名の 乗組員 も 潜水艇 の 修繕 に全力を尽 く して いた。
この 事故 より先に イ タ リ ア 海軍 で 似 たような事故 があった際には、乗員が 脱出用 の ハ ッ チ に 折 り 重なった り、他人 よ り 先 に 脱出 しようとして乱闘を したまま死んでいる 醜 態 を 晒 し て い た た め、帝国海軍 関係者も 最初 は それを 心配 していた。
ところが、実際にはほとんどの乗員は配置 についたまま殉職 し、さらに 佐久間艇長は 事故原因や 潜水艦の 将来、乗員遺族 への 配慮 に 関する 遺書 を 認 ( したた ) めていたため、これが 「 潜 水 艦 乗 組 員 、か く あ る べ し 」 と い う こ と で、海外などでも大いに評価 された。
佐久間自身 は、艇内に ガ ス が 充満 して 死期が迫る中 遺書を書き、明治天皇 に対 して潜水艇の 喪失 と 部下 の 死 を 謝罪 し、続 いて この事故 が 潜水艇発展 の 妨 げ にならないことを 願 い、事故原因の 分析 を 記 した後、次のような遺言を書いた。
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小官の不注意により 陛下 の艇を沈め 部下 を殺す、誠に申 し訳 な し。
されど艇員一同、死に至るまで皆よくその職を守 り沈着に事を しょせ り。
我れ等は国家のため職 に倒 れ死 といえども、ただただ 遺憾 とする所 は
天下の士はこれの 誤 りもって 将来潜水艇 の発展に 打撃 をあたうるに至らざるやを
憂 うるに あ り。
謹ンデ陛下ニ白 ( まお ) ス
我部下ノ遺族 ヲシテ 窮 スルモノ 無 カラシメ 給 ハラン 事 ヲ
我念頭 ニ 懸 ルモノ 之 レアルノ ミ
( その意味 )
謹んで陛下に申 しあげます。私の部下の遺族が生活に 困 窮 ( こんきゅう ) することのないように宜 しく お願い申 し上げます。私の頭 にある 心配 とはそれだけでございます。
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