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2018年4月24日 (火)

相 撲 の話 ( その 3 )

土俵が造られるようになったのは

江戸時代 初期 までは、相撲に土俵 という 明確 な 境界線 はなかったと いわれて いる。相撲人や見物人が円陣で 人垣 を作 り、その中で 相撲 を 取 った。円陣を作っている人々を 人方屋 ( ひとかたや ) と言 い、勝負はその 円陣内 で 相手を 倒すか、人垣の中へ 押込 ( おさえこ ) むかで決まった。

Hitogataya

人方屋 ( ひとかたや  )による相撲では周囲に ケ ガ 人 が出たり、ケンカ が起きたりするので、勧 進 相 撲 ( かん  じんずもう、神社仏閣 の 建物 や 仏像 などを 創建 したり再建 したり修理 したりする費用を集めるためという目的限定の相撲 ) や、辻相撲 ( つ  じずもう ) の禁止令が  しば  しば出されて いた。

ちなみに勧進相撲の始まりは 室町時代 の 応永 2 6 年 ( 1419 年 ) 10 月と伝えられている。その様子を「 古事類苑 」 ( こ  じる いえん ) によれば、

「 円形に 人居て、其屋に推 し込、起揚 ( おきあ ) がらざるをとす、膝を衝、手をつき、尻腰など落ても、詰を 能 勝、敵 を働 ( う ご ) かざるを 功 とす」 。

つまり、人垣 の中 に 押 し倒 して、相手を 動 けな く なりまで 「 叩 き のめす」 の が 勝ちなので、相撲 というよりも、む しろ 格闘技 ( か く と う ぎ ) である。

慶長 1 5 年 ( 16 10 年 ) 名古屋城 築城 の 際に 襖 ( ふすま ) に描 かれた 相撲絵や、慶安 ~ 明暦年間 ( 1648 ~ 1658 年 ) の 相撲絵巻 にも土俵はまだ出てこない。

Fusumae

前回の ブログ で 野見宿 禰 ( のみ の す く ね ) 神社が 、「 たつの市 」 にもあると書 いたが、その理由については、

播 磨 国  風 土 記 ( は りまの く にふどき )の 揖 保 郡  ( いぼ ぐ ん ) 立 野 ( たつの )の項には、野 見 宿 禰 が 大和 から 出雲 に往 く 途中、日下部野 ( く さかべ の ) にて病死 したが、そのとき 出 雲 国 よ り 来 た 大勢 の 人々 が並んで 川 の 礫 ( こ い し ) を リ レー 式 に 運び 陵墓 を 造 ったとある。

Nomisukune

現在の 「 たつの 市 」 にある 野見宿 禰 神 社 の 裏 手 の 山 が その 古墳 であるといわれている。ここでは 2 0 年前までは 4 月 17.18 日を 野 見 宿 禰 の 命日 とされ、宮 相 撲 が盛んであったという。

2018年4月15日 (日)

相 撲 の 話 ( その 2 )

相撲の始まりといえば、どれも 古事記 ・ 日本書紀 にみられる 神話や伝説 にその 起源を求めている。

『 日本書紀 』 の 巻  6  によれば、垂 仁 天 皇 ( す いにんてんのう、第 1 1  代 天皇 ) の 7 年 7 月 に、 大和国  當 麻 邑 ( た ぎ ま む ら、タ イ マ ム ラ 、現 ・ 奈良県  葛城市 當麻 )  に  當 摩 蹶 速  ( た ぎ ま の  く  ゑ は や、タ イ マ ノ ケ ハ ヤ   )と いう  「 力 自 慢 」 で、 「 自分に及 ぶ 者 はな い 」 と 豪語  する者 が いた。

Nomitaima

垂 仁 天 皇 ( す い に ん て ん の う、第11代天皇 )が 出雲国 から  野 見 宿 禰 ( のみのす く ね ) を 召  し寄せ、7 月 7 日 に  捔 力  ( すまひ、相撲 ) で 対戦 させたところ、互 い に 蹴 り 合 っ た 後 に、當 摩 蹶 速  (  た い ま の け は や )  は 腰 を 踏 み 折 ら れ て  死んだとされ、奈良県  葛城市  當 麻  ( た い ま  ) には 「 蹴 速 の 塚 」  ( け は や の つ か )  と伝わる 塚 がある。当時の 相撲 には 土 俵 もなく、行司 も いなかった。

Kehayaduka

これについては、大和系 部 族  と  出雲系 部 族  との 戦 いで あったとする説や、埴 輪( は に わ )  の 起源 説話  ( 下記 参照 ) もあった。

垂 仁  ( す い にん )   天皇 の ころ、貴 人が  逝 去 すると、その 陵  ( み さ さ ぎ  )   のまわ り に、 生前 付き 従って いた人々 を 生 き 埋 めにする 殉 死  (  じゅん し )  の風習があった。犠牲者は生きたまま 埋 め 立て 並 べられた。

数日  しても彼らは 死 なず、昼夜悲  し げに 泣  いて いた。その後 死んだ彼らを 犬や カラス が食 い荒ら  した。天皇は 昼夜  泣 き 叫 ぶ 殉死者 の 声を聞 いて、心が 締 め つけられる 思 いが  した 」。

そこで 野見宿禰  ( のみのす く ね ) が 日 葉 酢 媛 命  ( ひばすひめのみこと、垂 仁 天 皇 の 皇 后  ) の 陵 墓 へ  殉死者 を 埋める 代わ り に、土で作った 人 馬 を 立てることを 提案  し、土部  ( は  じ べ  )  100 人 を 出雲 から 呼 び 寄 せた。そ して 自ら 土部 を率いて  埴 輪 ( はにわ )を作って献上 した。これを 埴輪 の 起源 と した。

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天皇は 野 見 宿 禰 の 功績 をほめて、土 部 職  ( は  じ の つ か さ  )  に 任命  し、土 部  臣  ( は じの お み )  と 称 させた。野 見 宿 禰 を 祀 る 野 見 宿 禰 神 社 ( の み の す く ね  じん  じゃ ) は、東京都 墨田区 亀沢 (  両国 国技館の近隣 ) に所在  し、日本相撲協会により 管 理 されて いるが、同名の神社は 兵庫県 たつの 市 にもある。また神社の名前が 異 なるものの、野 見 宿 禰 を 祀 る 神社 は 他 にも存在 する。

2018年4月12日 (木)

私は女相撲の興業を見た ( その1 )

東京の豊島区 巣鴨には 「 お婆ちゃんの原宿 」  などと呼ばれる 地蔵通り 商店街 があるが、昭和 8 年 ( 1933 年 ) 生まれの私は子供の頃に、 毎月 四の付く日の縁日 には兄・姉たちと一緒に  「 ト ゲ 抜き地蔵 」  と呼ばれた 高岩寺 ( こうがん じ ) によ く お参りに行き、夜店を見物 したものだった。

https://www.sugamo.or.jp/prayer_detail01.html

Onnasumo

この辺 一帯は昭和 20 年 (1945 年 ) 4 月 13 日の 米軍機による大空襲 で 一面焼け野原になったが、焼失前の 高岩寺 は今と違い広い 境内 だった。多分昭和 15 ~ 16 年 ( 1941 年 ) 頃の事だったと思うが、ある時、高岩寺の境内 で 「 女相撲の興行 」 があり、当時  6~7 歳だった私は 父親 に連れられて見に行った記憶がある。

男の力士と同様に太った体格の女性の 力士 で、乳房を出 したままであった。当時 どころか 昭和 30 年代初 め 頃までの女性は、公衆の 面前 で 乳房 を見せることに、あまり 羞恥心 を持たなかった。

    http://www.rose.ne.jp/~ooha/hai-bnk-1.htm#junyuu

 

救命活動中の女性に 「 土俵から降りろ 」 と 何度も アナウンス があったことが報道されている。  土俵は 「 女人禁制 」  が 伝統 と信  じている一部の牢固な観客が声を上げたので、若い行司が慌てて アナウンス したと協会は説明 したが、現場にいた 巡業部長 はそれに対 して何の行動も しなかったことが判明 した。

相撲界に はびこる 「 女人禁制 」 の因習を 教条主義的に 支持 ・ 理解  している相撲協会という 名 の カ ル ト ( C u l t ) 集団 は、悪しき伝統 因習を早急に見直すべきである。

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