相 撲 の話 ( その 3 )
土俵が造られるようになったのは
江戸時代 初期 までは、相撲に土俵 という 明確 な 境界線 はなかったと いわれて いる。相撲人や見物人が円陣で 人垣 を作 り、その中で 相撲 を 取 った。円陣を作っている人々を 人方屋 ( ひとかたや ) と言 い、勝負はその 円陣内 で 相手を 倒すか、人垣の中へ 押込 ( おさえこ ) むかで決まった。
人方屋 ( ひとかたや )による相撲では周囲に ケ ガ 人 が出たり、ケンカ が起きたりするので、勧 進 相 撲 ( かん じんずもう、神社仏閣 の 建物 や 仏像 などを 創建 したり再建 したり修理 したりする費用を集めるためという目的限定の相撲 ) や、辻相撲 ( つ じずもう ) の禁止令が しば しば出されて いた。
ちなみに勧進相撲の始まりは 室町時代 の 応永 2 6 年 ( 1419 年 ) 10 月と伝えられている。その様子を「 古事類苑 」 ( こ じる いえん ) によれば、
「 円形に 人居て、其屋に推 し込、起揚 ( おきあ ) がらざるをとす、膝を衝、手をつき、尻腰など落ても、詰を 能 勝、敵 を働 ( う ご ) かざるを 功 とす」 。
つまり、人垣 の中 に 押 し倒 して、相手を 動 けな く なりまで 「 叩 き のめす」 の が 勝ちなので、相撲 というよりも、む しろ 格闘技 ( か く と う ぎ ) である。
慶長 1 5 年 ( 16 10 年 ) 名古屋城 築城 の 際に 襖 ( ふすま ) に描 かれた 相撲絵や、慶安 ~ 明暦年間 ( 1648 ~ 1658 年 ) の 相撲絵巻 にも土俵はまだ出てこない。
前回の ブログ で 野見宿 禰 ( のみ の す く ね ) 神社が 、「 たつの市 」 にもあると書 いたが、その理由については、
播 磨 国 風 土 記 ( は りまの く にふどき )の 揖 保 郡 ( いぼ ぐ ん ) 立 野 ( たつの )の項には、野 見 宿 禰 が 大和 から 出雲 に往 く 途中、日下部野 ( く さかべ の ) にて病死 したが、そのとき 出 雲 国 よ り 来 た 大勢 の 人々 が並んで 川 の 礫 ( こ い し ) を リ レー 式 に 運び 陵墓 を 造 ったとある。
現在の 「 たつの 市 」 にある 野見宿 禰 神 社 の 裏 手 の 山 が その 古墳 であるといわれている。ここでは 2 0 年前までは 4 月 17.18 日を 野 見 宿 禰 の 命日 とされ、宮 相 撲 が盛んであったという。
« 相 撲 の 話 ( その 2 ) | トップページ | 相撲の話 ( そ の 4 ) »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント