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2018年5月20日 (日)

老 妻 の 誤 算

今年の春頃から車で 15 分ほどの所にある スーパー に買物 に行 く度 に、老妻は かさばる  トイレット ペーパー  ・ クリネックス ティッシュ箱 ・ 洗剤 などを毎回 買 い込むようになった。  最初は商品 の値上 が りに備えて備蓄 するのかと思っていたら、そうではないことが 先日判明 した。

今年 で 8 5 歳 になる私の 誕 生 日 は 4 月であ り、従って 運転免許証 の 有効期限 は 5 月の 誕 生 日 となっている。最近 の 私 は 車 を バック で 駐車位置 に とめるのが 下手 になり、スーパー の 駐車場 でも 1 回で正 しい 駐車位置 に とめられずに、一度前進 して 修正 する 回数 が 増 えたこと。

日常生活でも昔の友人の名前などを思い出せないことがあったために、老妻は 末期高齢者 (?) の私が 運転免許の更新試験に不合格になることを予想 していたら しい。そのために 前述 の かさばる品や重 い品 を大量 に備蓄  したとのことであった。

そのせいで近くの自動車教習所でおこなわれた 「 認知機能検査 」 や、高齢者講習 に含まれる 「 実車による講習 」 の結果 について、受験者 の私以上に気に  して いた。それに対 して 私 は、まあまの出来具合 だと 答 えておいた。

ところが待ちに待った県公安委員会からの ハ ガ キ による 「 認知機能検査 」 の通知 によれば、私にとって 中学校卒業 以来 取った 記 憶 がない 100 点 が付 いていたではないか!。

Ninchikensa

これであと 3 年間 は車で買い物 に行ける と 、老妻の 喜 ぶ こ と。

ちなみに今年 8 0 歳 になった 老妻は 一応 車 の 運転免許 を持っているものの、自宅から 半径 600 メートル 圏 内 にある 医者 ・ 洗濯屋 ・ パン屋 ・ 食料品店 などに 行 く 場合 しか 運転 せず、2 年 前 の 運 転 免 許 更 新 時 の 実 車 運 転 講 習 では、 S カーブ などで 2  回 も 脱 輪 した 運 転 技 量 の持ち主であった。

Babaa

下記 は 私 にとって昭和 3 4 年  ( 1 9 5 9 年 ) 以降  最後 の 更新  済み 運転免許証 で、平成  3 3 年 0 5 月 ま で 有 効であるが、それほど 長生 きは で き ないと 思 っ て いる。

Seishikimnk

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2018年5月 9日 (水)

相 撲 の 話 ( 最 終 回 )

 東 京 裁 判  の 例 を い う ま で も な く、歴史は 「 勝 者 が作るもの 」 であるのと同様に、「 後 世 の人が作るもの 」 でもある。

最近 相 撲 協 会 をめ ぐ り 話題 となったのは、女性 を 土俵 に上げないのは 「 国 技 と    し て の 伝 統 を 守 る た め 」  であると伝えられているが、相撲協会役員に 下記 の件を 読 んでもらいた い。

日本の 歴 史 書 に  「 相 撲 」  の 文字 が 初めて 登場  したのは、『 日 本 書 紀 』  の 雄 略 天 皇 ( 第 2 1 代、ゆ う り ゃ く て ん の う、在 位 456 ~ 479 年 ) の 1 3 年  ( 西暦 4 6 9 年 ) 9 月 の 条 であった。

 雄 略 天 皇 の 陵

Yuuryaku

陵  名:   丹 比 高 鷲 原 陵  ( た じ ひ の た か わ し は ら の み さ さ ぎ )

陵  形:    円 墳

所在地:   大阪府 羽曳野市 島泉

彼は 多数 の 人 を殺 したために、第 2 5 代、武 烈 天 皇 ( ぶ れ つ て ん の う、在 位、498 ~ 506 年 )  と 共 に、 「 大 悪 天 皇 」  と も 呼 ばれて いた。

雄 略 天 皇 1 3 年 当 時、猪 名 部 真 根 ( い な べ の ま ね ) と いう  「 木 工 の 達 人 」 が いたが、みずか ら  「 終日 斧  ( お の ) を 取 り、石 の 台上 で 木を 割 っても 斧 の 刃 を 損 ずることはな い 」 と豪語 し て いた。

これを 聞 きおよんだ 天皇 はその 慢 心 を 憎 み、真 根 ( ま ね ) を 召 して その 技 を 試 すことに  した。雄 略 天 皇 は 策略を め  ぐ ら し、

「 采 女  ( う ね め、下 級 女 官 ) を 呼 び 集 め、衣 裙 ( い  く  ん、上 着 と ス カ ー ト ) を 脱 ぎ て 犢 鼻 ( と う さ ぎ、フ ン ド シ ) を 著 ( き ) せ  し め、露 (  あ ら わ  ) なる 所 にて 相 撲 取 ら  し む  」

つまり  猪 名 部 真 根 ( い な べ の ま ね ) の 見 える ところで、裸 に  フ ン ド シ を 締 めた 女 官 に 相撲 を 取 らせた。

Onnayuryaku

作業中 に この 光景 を見た 真 根 ( ま ね ) は 心 が 乱 れ、斧  ( お の ) の 刃 を 損  じて  しまった。

彼は 天皇 に 対  して 不 遜  ( ふ そ ん ) な 豪 語 をな  した 罪に 問 われ 死 罪 になるところを、彼 の 木工 の名 人 芸 を 惜 しんだ 同僚 の とりな  しで、かろう じ て 死 刑 を 免 れた。

つ ま り 今から 1, 5 4 9 年前 に 雄 略 天 皇 の 前 で、女 性 の 「 天 覧 相 撲 」  が行われたことを 知 るべきである。

1 6 世紀 に成立 した  『 義 残 後 覚 』  ( ぎ ざ ん こ う か く、編者 は 愚 軒 ) の中では 「 比 丘 尼 相 撲 の 事 」 という項目で、室 町 時 代  ( 1 3 3 6 ~ 1 5 7 3 年 )  の 女 性 力 士 が 紹 介 されている。  そこには、勧 進 相 撲 ( 営 利 目 的 の 興 行 相 撲。大相撲の 源 流 とされる ) に  比 丘 尼 ( び く に、尼 僧 ) が出場  していたことが記されて いた。

江戸時代には女相撲は頻繁に行われていた し、明治になっても各地で女相撲の興行が行われていた。もちろん女相撲 も 上半身 裸 で 乳 房 丸 出 しであった。 下記は 女 相 撲 の 横 綱。

Onnayokozuna

しか し 明治 になって、女性が 裸 で 取っ 組 み 合 う 様 子 が 野蛮 で 文 明 開 化 ではないと 板 垣 退 助 が 批 判  し、この文明開化 の 波 に 乗 って、長年、相撲界 に 蔓 延 し た 男 尊 女 卑 の 土 壌 が 女人禁制 を 伝 統 と し て 浸 透 させ、その論拠 と し て 神 道 の  「 ケ ガ レ 」  の 思想 が 利用 された。

相 撲 が 国 技 と 呼 ばれるようになったのは、「 相 撲 の 話 ( そ の 4 ) 」 で 述 べ た ご と く、僅か 1 0 9 年前 のことであった。

2018年5月 4日 (金)

相撲の話 ( そ の 4 )

すもう の語源

   「 す も う 」  と言う 言葉 は 「 争 ( あらそ ) う 」、「 抵抗 する 」 意味の 動詞 である 「 すまふ 」 に由来 すると考えられて いる。

「 すま ふ 」 の 連用形 である 「 す ま ひ 」 が 名詞 と  して 用 いられ、これに 漢字 の 「 相 撲 」 の 表記 が 当 てられたもので、古 く は 「 す ま い 」  と 発音 された。 相 撲 を とる 人 は 相 撲 人 ( す ま い び と )、も し く は 単 に 相 撲 ( す ま い ) と呼 ばれた。

「 す ま ひ 」  か ら 「 す も う 」 に変化  したのは、室町時代 と い われて いる。

和歌山市の 井辺 八幡山 古墳 ( い ん べ は ち ま ん や ま こ ふ ん ) から出土 した力士の 埴 輪 ( は に わ ) 、古代 ( 六世紀 初め 頃 ) の力士像、裸 に フ ン ド シ 。

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江戸時代 になると 「 相 撲 」  のことを 「 角 力 」、「 角 觗 」、 「 角 抵 」 など、さまざまな 表記 が されるようになった。 「 角 」  の文字には 「 比 べ る 」、「 競  う 」 などの 意味 があり、現代でも 「 相 撲 界 」  を 角 界  ( か く か い )  とか、「 相撲を見るのが好きな人 」 を 好 角 家 ( こ う か  く か ) などと呼ぶ。

相撲はいつから国技と呼ばれたのか ?

Oldkokugikan

相撲 が 「日 本 の 国 技 」 と 呼ばれるようになったのは、明治 4 2 年 ( 1909 年 ) のことであった。

東京 両国の 回 向 院 ( え こ う い ん ) の 境内 に 新 し く  相 撲 館 が 完 成 した 際 に、ある作家が 起草 した 開 館 披 露 文 ( か い か ん ひ ろ う ぶ ん ) に、「そもそも 相撲 は 日 本 の 国 技 に し て ---」

という 一節があるのに 着目 した 某 年寄 り ( 相 撲 関 係 者 ) が、館 名  と  し て 「 国 技 館 」  を提案  し、それが 認 められたと いわれている。

そこから 相 撲 を 「 国 技 」 と 呼 ぶようになった。つまり 「 相 撲 が 国 技 になった ? 」  の は、制度的 な 根 拠 が あった わけではな く、せいぜい109 年前 からで あった。

現在の国技館

Kokugiup

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