相 撲 の 話 ( 最 終 回 )
東 京 裁 判 の 例 を い う ま で も な く、歴史は 「 勝 者 が作るもの 」 であるのと同様に、「 後 世 の人が作るもの 」 でもある。
最近 相 撲 協 会 をめ ぐ り 話題 となったのは、女性 を 土俵 に上げないのは 「 国 技 と し て の 伝 統 を 守 る た め 」 であると伝えられているが、相撲協会役員に 下記 の件を 読 んでもらいた い。
日本の 歴 史 書 に 「 相 撲 」 の 文字 が 初めて 登場 したのは、『 日 本 書 紀 』 の 雄 略 天 皇 ( 第 2 1 代、ゆ う り ゃ く て ん の う、在 位 456 ~ 479 年 ) の 1 3 年 ( 西暦 4 6 9 年 ) 9 月 の 条 であった。
雄 略 天 皇 の 陵
陵 名: 丹 比 高 鷲 原 陵 ( た じ ひ の た か わ し は ら の み さ さ ぎ )
陵 形: 円 墳
所在地: 大阪府 羽曳野市 島泉
彼は 多数 の 人 を殺 したために、第 2 5 代、武 烈 天 皇 ( ぶ れ つ て ん の う、在 位、498 ~ 506 年 ) と 共 に、 「 大 悪 天 皇 」 と も 呼 ばれて いた。
雄 略 天 皇 1 3 年 当 時、猪 名 部 真 根 ( い な べ の ま ね ) と いう 「 木 工 の 達 人 」 が いたが、みずか ら 「 終日 斧 ( お の ) を 取 り、石 の 台上 で 木を 割 っても 斧 の 刃 を 損 ずることはな い 」 と豪語 し て いた。
これを 聞 きおよんだ 天皇 はその 慢 心 を 憎 み、真 根 ( ま ね ) を 召 して その 技 を 試 すことに した。雄 略 天 皇 は 策略を め ぐ ら し、
「 采 女 ( う ね め、下 級 女 官 ) を 呼 び 集 め、衣 裙 ( い く ん、上 着 と ス カ ー ト ) を 脱 ぎ て 犢 鼻 ( と う さ ぎ、フ ン ド シ ) を 著 ( き ) せ し め、露 ( あ ら わ ) なる 所 にて 相 撲 取 ら し む 」
つまり 猪 名 部 真 根 ( い な べ の ま ね ) の 見 える ところで、裸 に フ ン ド シ を 締 めた 女 官 に 相撲 を 取 らせた。
作業中 に この 光景 を見た 真 根 ( ま ね ) は 心 が 乱 れ、斧 ( お の ) の 刃 を 損 じて しまった。
彼は 天皇 に 対 して 不 遜 ( ふ そ ん ) な 豪 語 をな した 罪に 問 われ 死 罪 になるところを、彼 の 木工 の名 人 芸 を 惜 しんだ 同僚 の とりな しで、かろう じ て 死 刑 を 免 れた。
つ ま り 今から 1, 5 4 9 年前 に 雄 略 天 皇 の 前 で、女 性 の 「 天 覧 相 撲 」 が行われたことを 知 るべきである。
1 6 世紀 に成立 した 『 義 残 後 覚 』 ( ぎ ざ ん こ う か く、編者 は 愚 軒 ) の中では 「 比 丘 尼 相 撲 の 事 」 という項目で、室 町 時 代 ( 1 3 3 6 ~ 1 5 7 3 年 ) の 女 性 力 士 が 紹 介 されている。 そこには、勧 進 相 撲 ( 営 利 目 的 の 興 行 相 撲。大相撲の 源 流 とされる ) に 比 丘 尼 ( び く に、尼 僧 ) が出場 していたことが記されて いた。
江戸時代には女相撲は頻繁に行われていた し、明治になっても各地で女相撲の興行が行われていた。もちろん女相撲 も 上半身 裸 で 乳 房 丸 出 しであった。 下記は 女 相 撲 の 横 綱。
しか し 明治 になって、女性が 裸 で 取っ 組 み 合 う 様 子 が 野蛮 で 文 明 開 化 ではないと 板 垣 退 助 が 批 判 し、この文明開化 の 波 に 乗 って、長年、相撲界 に 蔓 延 し た 男 尊 女 卑 の 土 壌 が 女人禁制 を 伝 統 と し て 浸 透 させ、その論拠 と し て 神 道 の 「 ケ ガ レ 」 の 思想 が 利用 された。
相 撲 が 国 技 と 呼 ばれるようになったのは、「 相 撲 の 話 ( そ の 4 ) 」 で 述 べ た ご と く、僅か 1 0 9 年前 のことであった。
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