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2018年8月29日 (水)

熱 中 症、そ の 5

[ 熱 い 作 業 環 境 ]

私は 昭和  27 年 ( 1952 年 )  に 海上保安大 に入学 したが、当時 の 練習船 は 「 く り は し 」   ( 栗 橋 ) であ り、 船齢  5 0  年 以上 の 中古 ではな く、 大古 (?)  の 船であった。

この船 は 明治 3 0 年 ( 1897 年 )  に、 デ ン マ ー ク  の 造船所 で 作 られた サ ル ベ ー ジ  (  s a l v a g e 、海難救助、引 き 揚 げ 船  ) で、基準排水量 1,0 6 0  ト ン で あり、敗戦まで 旧 日本海軍 に 所属  して いた。

Kurihasi

エンジン  は 蒸気機関車 と 同様 の 蒸 気 往 復 式 機 関 ( S t e a m  R e c i p r o c a t i n g   E n g i n e  )  で 、巡航速度 は 僅 か 10 ノ ッ ト ( 時速 18 キ ロ メートル )の 自転車 並 み の 低速 で 航行  した。

蒸気を発生させる 汽 罐 ( き か ん、ボイラー、b o i l e r )  は、三 胴 式 水 管 缶   ( さんどう しき  す いかん が ま ) で あ り、燃料 は 蒸気 機関車 と 同 じ 石炭 焚 き であった。

Suikankama

なお  「 日本海軍 燃 料 史 」 によれば、日本海軍 が 固 形 燃 料 ( 石 炭 ) から 液 体 燃 料 ( 重 油 ) に 変更 を 決 意 した の は、明治 4 0 年 ( 1907 年 )  に 、石炭 - 重油 混 焼 汽 缶  (  こん ねん かん、ボ イ ラ ー  )  を 初 めて 採用  した  装甲巡洋艦 の 「 生 駒 」 に 遡 る。

さらに 重油 専焼缶 を 装備  した 艦 については、大正 4 年  ( 1915 年 ) に イギリス から購入 した 駆逐艦  「 浦 風 」  が 最初 であった。同書 には 以後 の 艦艇 が  「 著 し く 速力 並 に 航続距離 を 増加  し、容易 に 長時間 戦闘運転 に 耐 え 得 る 様 に なった 」と ある。

下の写真は、「 う ら か ぜ 」  の 全景。

Urakaze

                                             
[ コ ロ ッ パ ス ]

昔 の 船員用語 で、 石 炭 繰 ( く ) り のことを、コ ー ル ・ パ ッ サ ー ( C o a l   p a s s e r ) を短縮 して 「 コ ロ ッ パ ス 」 と呼んだが、機関科 の 下級船員 であった 汽 缶 焚 き ( か ま た き ) である 火 夫 ( か ふ、F i r e   m a n  )  の 更 に 下働 きであった。

学生時代の 乗船実習で 機関科 の 当直 の 際 には 汽 缶 焚 き ( かまたき ) の 実習 も したが、汽缶室 ( かま しつ、ボイラー ルーム、>B o i l e r  r o o m ) の 温度は 「 暑 い 」  のを 通 り 越 して 輻射熱 で 4 0 度 C  以上 にもな り 「 熱 い 」 ので、熱射病 を 防 ぐ ために 水 を ガ ブ 飲 み し 岩 塩 を 口 に入れながら、投炭用 ス コ ッ プ で 、 一 掬 ( す く ) い 1 5 キ ロ の重さにもなる 石炭 を、 燃え盛る ボ イ ラ ー  の 火 床  ( か しょう、F u r n a c e  ) へ 均等 に 撒布 するように 投 げ 入 れた。

Kakou

外からの 空気 が 来 る 汽缶室 の 通風筒 の 下 には 船 の 機関科員 が 立 ち、我々学生 は 換気 の 風 が 来 ない 所 で 汽缶の輻射熱に晒され 汗 だ く にな りながら、ひたすら 汽缶 焚 き ( かまたき ) の  投炭作業 に 従事 した。

日清戦争  ( 1894 ~ 1895 年 ) ・ 日露戦争 ( 1904 ~ 1905 年 )  の 戦訓 にも、機関室 ・ 汽缶室 の 通風不良 の 艦 においては 、炎暑下 で 機関科員 がその 体力 の 限界 を 超 えた 酷使 へ と 追込 まれる 場合 があった と 記 されていたが、その 5 0 年後 に 我 々 も それを 体験 させられた。

下記は 海 保 大 桟 橋 に 係 留 中 の  練 習 船、三代目 の  「 こ  じ  ま 」  で  2, 9 5 0 ト ン 、 速力 1 8  ノ ッ ト、 デ ィ ー ゼ ル エ ン ジ ン  のため、「 か ま 焚 き 」 の 苦労 は 無 い。

推進軸 は 二 軸 、毎 年 実 習 生 を乗 せて 世 界 一 周 の 訓 練 航 海  に 出 て い る。

Kojima

2018年8月19日 (日)

熱 中 症、 そ の 4

                              
[ 物 の 根 源 は 水  ]

熱中症 に 関 する 記 述 で 最 も古 い とされるものは、 古代 ギ リ シ ャ で 活躍  した タ レ ス ( 紀元前 623 ~ 前 546 年 ) に 関 する 記 述 である。彼は 古代 ギ リ シ ャ の 七 賢 人 の 一人 であり、

物 の 根 源 は 水 で あ る

と 説 いた 有名 な 哲学者 であった。その 人物 が 古 代 ギリシャ の エ ー リ ス  地 方、オ リ ン ピ ア で 4 年 に 1 度 開催 された 最大級 の 競 技 会 ( オリンピック ) を 観戦中 に 熱中症 で 死亡 したと いわれている。

「 すべては 水 から 生  じて、水 に  還  る 」 という 自然観 を 語った 人 が、 脱 水 で 命 を 落 と した とすれば、皮肉 な 話 である。

日本においては 正 徳 2 年 ( 1712 年 ) に、福岡藩 の 儒学者 ( じゅが く しゃ ) であった 貝原益軒 ( か いばら えきけん ) が 健康指南書 の 養 生 訓 ( よう じょう く ん ) の 中 で、

四 時 ( 四 季 ) のうち、夏 月 も っ と も 保養 す べ  し、霍 乱 ( か く らん、暑気 に 当 てられて 起 こる 吐 瀉 病 ) ・ 中 暑 ・ 傷 食 ( 急性胃腸 カ タ ル ) 瘧 痢 ( ぎゃ く り、発 熱 性 下 痢 )  の 病 おこ  しやす し

と 記述  して いた。

[ 奈良の大仏を造れても、銅の 精錬法 に 無知 だった日本 ]

ところで、古来,日本 の 銅 鉱 石 には 銀 が 含 まれて いたが、銅 から 銀 を 取 り 除 く ( 取 り出す ) 技術 が 日本 には 無 かった。室町時代 ( 1336 ~ 1573 年 ) に は 日本 の 輸出品 の 主 要 なものは 銅 であ り、粗 銅 ( そどう、不純物 を含 む 銅 の 半製品 )  から 「 銀 」 を 分離 する 技術 をもつ 中国 には 格 安 の 品 と して 受 け 入 れられてきた。
...
住友財閥 の 先祖 は 水 運  に 恵まれた 大阪 に 住 んで いたが、天正 1 9 年 ( 1591年 ) に 和泉国 堺 浦 ( 現 ・大阪府 堺市の 港 ) に 来 た 明 ( み ん  ) の 技 術 者 から、 「 南 蛮 吹 き 」 ( なんばん ぶ き )   と 称 する 粗 銅 から 銀 を 分 離 する 精 錬 法 を初めて 学 ん だ。

こ の 「 南 蛮 吹 き 」 のおかげで、住友家 は 粗 銅 から 「 銀 」 を 分離 して、莫 大 な 利 益 を 上 げるようになった。

 

  [ 南 蛮 吹 き と は ]

銀 や 不純物 などを含む 半製品の 粗 銅  ( そどう ) から、銅  の 融 点、1083 度 C  、 銀 の 融 点、961 度 C 、 鉛 の 融 点、328 度 C  という 融 点 の 温度差を 利用 して、粗銅 を 加熱 して 銀 を 取 り 出 し、純度 の 高 い 精 銅を 得る方法 を いう。 

Anisodou

上図 は 粗銅  ( そどう、または  あらがね とも 呼 ばれる )

元禄 3 年 ( 1690 年 )、標 高 1,000mを 超 える 伊 予 の 別 子 ( べ っ し ) 山 村 ( 現 ・ 愛媛県 新居浜市 ) で 発見された 銅 の 露 頭 ( ろ と う、鉱 脈 の 一 部 露 出 )を 手 がかりに、ここに 良好 な 鉱脈 があることを 確認 した 住 友 商 店 は、翌年 銅 の 採掘 を 開始 した。

記録によれば、発見から僅か 5 年後 の 1695 年 には、別子銅山 の 山中 に 2,700 人 もの 店員 と 作業人 が 暮 らす 鉱 山 町 が 形 成 されて いたと いう。

坑道 を 堀 り銅鉱石 を 掘 削 し、外部への 鉱石運 び 出 しは 重労働 であ り、粗銅  の 精 錬 には 大量 の 火 気 ( 薪 炭 )を 使用 した。 以来 200 年 近 く 江戸時代 を 通 じて、別子銅山 は 日本有数の 銅鉱山 となった。

         

[ 江 戸 時 代 の 熱 中 症 の 認 識 ]

『 南総里見八犬伝 』 の 作者 と して 知 られる 戯 作 ( げ さ  く ) 者 の 滝沢 ( 曲亭 ) 馬琴 ( たきざわ ばきん、1767 ~ 1848 年 ) が書 いた 馬琴日記 の中に、文政 12 年 ( 1829 年 ) 7 月 1 8 日、

Hakkenden

予 ( よ ) 、昼 前 ヨ リ 水瀉 ( 水 のような 下痢 をすること )  四 ・ 五 度、依 之( これにより ) ( 医師 で 長男 の 滝沢 ) 宗 伯 ( そうは く が ) 調剤 ( し た 薬 を ) 服薬 ス。中 暑 ( ちゅう し ょ、暑気あたり、熱中症 ) ノ 気味 ナ リ

との 記述があった。このことから 江戸時代後期 には、熱中症 と いう 疾 病 ( しっ ぺ い ) が 江戸庶民 に 広 く 認知 されていたことが うかがえる。

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2018年8月13日 (月)

御 巣 鷹 山 事 故 に 想 う

昨日は 昭和 60 年 ( 1985 年 ) 年 8 月 1 2 日 に 起 きた、御巣鷹山 の 日航機墜落事故から 3 3 年目の 命日 であった。事故機 の 高濱 機長 は 私 よ り 3  歳年下 で、昭和 3  4 ~ 3 5 年 頃 (1959 年 ~ 1960 年 ) の 同  じ 時期 に、青森県 にある 海上自衛隊 八戸航空基地 に 勤務 したことがあった。

当時 私 は 第 2 飛行隊の 対潜水艦哨戒機 の P 2 V -7、彼は 第 1 3 航空隊の  S 2  F の パ イ ロ ッ ト であ り、話をする機会 もなかった。

聞 く ところによると 彼 は京都市内の 高校 を中退後、海上自衛隊 に 入 隊 し、乙種 航空学生 ( 乙 航 ) の 3 期 と して パイロット コース に進 んだ ら し い。

その後、昭和 3 5 年 ( 1960 年 ) 頃、当時 副操縦士だった彼が 機長席 ( 左 席 ) に 座 り、機長であった 私 の 同期生 が 教官 とな り 夜間 の 離着陸 訓練 を 実施 したが、その際 に 高濱 副操縦士が 車輪 を下ろすのを忘 れて、胴 体 着 陸 する事故を起 こ した。

事故の責任は 機長 が 負 う のは 当然 のことであ り、教官 パ イ ロ ッ ト は 戒告 の 懲戒処分 を受 けた。高濱 副操縦士 はその後 自衛隊 を退職 し、当時存在  した 富士航空 および 日本国内航空 を 経 て 航空会社 の 吸収 合併 によ り 、昭和 4 1 年 ( 1966 年 ) に 日本航空 へ 入社  した。

彼は宮崎県 延岡市 の 出身 で、 母親 を 小学生の時に 亡 く  し、父親 も 蒸発 するな ど 家庭環境 は 複雑 だったよう である。 自衛隊 に 入隊後 は 姉 弟 とも 音信不通 になって いて、姉弟達 は 日航 123 便 墜落 の ニュース を見 て 、長 い 間 音信不通 だった 彼 の死 を 知 った と  いう。

まず御巣鷹山事故に 関係 の ある、下記 の ブ ロ グ を 読んでもら いた い。

国による習慣 ・ 制度の違い について

http://good-old-days.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_be12.html

夏が来れば


http://good-old-days.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_8cb4.html

 

2018年8月10日 (金)

熱 中 症、 そ の 3

寛 政 元年  ( 1789 年 )  に 編 纂 された 「 広 恵 済 救 方 」  ( こ う け い さ い き ゅ う ほ う )  には、以下 のように 記 されて いた。

吐 瀉 ( と し ゃ、吐 き 下  し ) 腹痛 甚 だ しきは 即 ち 霍 乱 ( か く ら ん ) な り。

霍 乱 ( か く ら ん )  と は 漢方医学 で主に 日射病 をさ す 語で、また夏 に 起 きやすい、激 しい 吐 き 気 ・ 下 痢 などを 伴 う 急 性 の 病 気 も霍 乱 ( か く ら ん ) 称 した。

炎天 を 侵( お か し て )  往 来( お う ら い ) し、また 農夫 等 日中 労 役( ろう え き ) して 天 熱 ( て ん ね つ ) に 中 ( あ た )り 、 中 暑 ( ち ゅ う しょ ) 昏 倒( こ ん と う )するな り 。

という 記述 があり、これが 熱中症 に 該当 する。

軍人 とても 例外 ではな く、安政3年(1856 年) に 翻訳 刊行 された 「 健 全 学 」  では、ヨーロッパ の 兵士 熱帯 勤務 での 炎 天 下 ・ 重 武 装 による 熱 射 病 が 注 目 されていた。

嘉永 6 年 ( 1853 年 ) に 平野元良 ( 重誠 ) が 著述 した ( 軍 陣 備 要 )
救 急 摘 方 ( き ゅ う き ゅ う て き ほ う ) には、          

 「 暑 にあた りて 悶 絶 ( も ん ぜ つ、 も だ え 苦 しみ 気 絶  ) せん、とせ しの 手当 ての 事 」 があ り、「 暑 に 当 た っ て 悶 絶 した 者 は 早 く 山 陰 や 樹 の 下 で 風 の 通 りよ くて 冷 た い 所 へ 負 ぶって 行 き、先 ず 生 姜 ( し ょ う が ) の 絞 り 汁 を 多 く 飲 ませる 方 がよ く、水 などはよ くな いと して いる。 」   

                                                                                                            [ 2 : 内 臓 の 温 度 ]

  人間 の 体温 は、身体部位 によって異 なった 値 を 示 し、外部環境 の 温度 ( 暑さ ・ 寒さ の 影響 ) を 直接受 け 易 い皮膚 の 部分 である 「外 殻 温」 ( Sh e l l  Temperature ) と、内 臓 の 温 度 である 「 核 心 温 」 ( B o d y   C o r e  Temperature ) とに分けられる。

人体 は、 「 核 心 温 」  を ほぼ 37 ~37.5 度 C  の 一定 に 維持 することによって、体内細胞 を 正常 に 機 能 させるように している。 この 「 核 心 温 」 が 上昇 すると、細胞 の 活 性 が 低下 して 内臓 の 機能 も 徐 々 に 低下 する。

そ して、 「 核 心 温 」 が 4 2 度 C になると 細 胞 内 の「タ ン パ ク 質」が 不可逆的 に 変 性 して しまい、細 胞 が 死 に、内臓 の 機能 が 重大 な 障害 をきた し、生命 を 維持できな く なる。

体温計 の 温度目盛 りが 4 2 度 C まで しかないのは、そのためである。なお「核 心 温」は 通常 午前 3 時~6 時頃に最も低 くな り、午後 3 時~ 6 時 に 最も高くなる。

[ 3 : 核心温の測定場所 ] 

                                                               ISO ( International Organization for Standardization )9886 によれば、鼓膜温 ・ 外耳道 ・ 舌下温 ・ 食道温 ・ 直腸温 ・ 尿温 などが規定されているが、日本では主に 腋 窩 ( えきか、わきの 下 )  が主流である。

しか し 欧 米 ではそうではない。

昭和 3 2 年 (1957年 ) に アメリカ 海軍飛行学校へ留学 した際に、同室の アメリカ 人学生 が 夜中に発熱 し、 当直室 から 借 りて きた 体温計 を 口 に く わえて 測定 したのを見て、 驚 いたのを 記憶 して いる。

現在 脇 の 下 で 体温測定 をする 国 は、日本 を 除 けば  世界 で 十 指 に 満 たないと も いわれている

Koukuu

口 腔 温 ( こ う  く う お ん、舌 下 温 ) は、脇の下で 測 る 腋 窩 温 ( え き か お ん ) よりも、平均で 0.3 ~ 0.5 度 C 高 く なる のだそうであり、直 腸 温  は 「 核 心 温 」  と ほぼ 等 し いといわれて いる。 

直腸温 の 測定 に 際 しては 直腸 を傷 つけないように器具 に ワ セ リ ン を 塗 り、乳児 の 場合 には,  2~2.5 センチ 挿入する。

Oshiri

 

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2018年8月 3日 (金)

熱 中 症、そ の 2、

[ 昔 は 涼 しかった ]

昭和 2 0 年 ( 1945 年 ) 8 月 15 日 、 敗 戦 当 日 、天気 晴、東京 における 最高気温 は 3 0.8 度 であった。そ して 平成 3 0 年 ( 2018 年 ) 8 月 1 日、 天気 晴、東京の 最高気温 は 3 5.1 度 で あった。

その 当時 私 は 米軍機 による 空襲 を 避 けるために、東京 から 長野県 の 山奥 の 寺 に 学童 集団疎開 を して いた。

http://good-old-days.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-fb29.html

[ 過去 の 気候変動 を 知 る に は ]

 

ところで、過去 の 日本 における 気 候 ( 気 温 ) の 変動 を 知 る 方法 の ひとつと して、屋久島 にある 樹 齢 数 千 年 の 「 屋 久 杉 の 年 輪 」 を 使用  した 論 文 があるのに 気付 いた。

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題 名 は 「 屋久杉 年 輪 の 炭 素  同 位 体 比   変 動  から 推 定 される、 過去 2,000 年間の 気候変動 」 である。

Kikouhendou

それによれば、飛鳥 ・ 奈良 ・ 平安時代 から 戦 国 時 代 ・ 徳 川 時 代 にかけて、日本では 寒 冷 期 にあり、現在 よりも 平 均 気 温 で 2 ~ 3 度 涼  しかったといわれている。

その 程度 の 平均気温の 上昇・下降 ぐらい 大 したことではない、と 思 う 人 がいたらそれは 間違 いである。ちなみに 気象庁の発表によれば 「 危 険 な 暑 さ 」といわれた 今年 7 月 の 平均気温 は 東日本 で 平年 を 2.8 度 上回 り 、1946 年 の 統計開始 以後 最高 とな り、西日本 の 平均気温 もこれまでで 2 番目 に 高かった。

二酸化炭素 ( CO2 )  などの 排出 を 制限 する 国際的枠組 み の パ リ 協 定 では、今世紀末 の 気温上昇 を 2 度 未満 に 抑 え る こ と を目指  している。さらに

世界銀行 が 発表 した 「Turn Down the Heat 2013 」 と 題 する 報告書 がある。

それには 地球 の 平均気温 が 上昇 した 際に、農業生産、水資源 の 確保、沿岸漁業、海岸線 の 保全 などといった 領域 で、どのような 現象 が 生 じるかが 丁寧 に 記されている。

日本国内 だけでなく、日本企業 にとっても 結 び 付 きの 強 い 東南 ア ジ ア 地域 については、夏期 の 熱波 の 深刻化、マニラ、ジャカルタ、ホーチミン 市、バンコク などで 5 0  セ ン チ メ ー ト ル を 超 え る 海 面 上 昇、台 風 の 巨 大 化  などが 懸念 されると いう。

平均気温 が 下 がった 場合 はどうなるのか?。下記 は 小 氷 期 とも言われた 徳川時代 における 冷 害 がもたら した 飢 饉  ( き き ん ) の 回数 である。

1615年  「 元和の 飢 饉 」、奥羽 で 冷夏、秋田・島根で 飢饉
1641~1642年 「 寛永の 飢 饉 」全国的 に旱魃 ( かんばつ ) ・ 洪水で、凶作 ・ 飢饉
1674~1675年 「 延宝の 飢 饉 」諸国で 風水害
1680~1681年 「 天和の 飢 饉 」諸国( 特に西国 )で風水害
1695年 「 元禄の 飢 饉 」奥羽・北陸で 冷害
1732年 「 享保の飢 饉 」西国で“イナゴ ・ ウンカ などの 虫 害”
1749年 「 寛延の 飢 饉 」北奥 で冷 害
1755年 「 宝暦の 飢 饉 」東北地方 で冷 害
1783年 「 天明の 飢 饉 」東北地方 で 冷 害 ( 3 0 万人以上 餓 死 ・ 疫病死、近 世 最 悪、1783 ~ 1788 年までの 6 年間 に 人口  9  3  万 人 減  、食糧不足 による 人 肉 食  い )
1833~1838 年  「 天保 の 飢 饉 」 東北地方 で 冷 害 が 起 きた。

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江戸時代 の 2 2 3 年間 に、10 回 も 主 に 冷害 による 飢 饉 が 起 きた。

それだけではなく、冷 害 による 米 の 不 作 ・ 凶 作 の 問題 ( 飢 饉 ) は、東北地方 において 明治以降も 続 いて 起 こっている。正確 な 農林水産省 の 記録 によれば、下記のとおりである。

明治 0 2 年 ( 1869 年 ) 
明治 1 7 年 ( 1884 年 )
明治 3 5 年 ( 1902 年 )
明治 3 8 年 ( 1905 年 )
大正 0 2 年 ( 1913 年 )
昭和 0 6 年 ( 1931 年 )
昭和 0 9 年 ( 1934 年 )     2.2 6 事件 の 誘 因 となった。

http://www.rose.ne.jp/~ooha/niniroku.htm

昭和 1 6 年 ( 1941 年 )     戦争中の  食糧事情の急迫を招いた
昭和 2 0 年 ( 1945 年 )     上に同じ

http://www.rose.ne.jp/~ooha/zurusa.htm

つまり 明治初期 から 昭和 2 0 年までの 7 6 年間に、 9  回  飢 饉 が 発 生、
8.4 年 に 1 度、 飢 饉 が 訪 れたことになる。

昔の”ことわざ”に 『 日 照 り に 不 作 な し 』、  『 旱 魃 ( か ん ば つ ) に 飢 饉  な し 』 があるが、一部 の 作物 に 被 害 が 出 るもの の、全体 と しては 米の良 い 収穫 が 期待 される、という 意味 であった。

しかし 台風 による 風水害 ・ それに 伴 う 土石流 災害 は、近年ますます大きくなっている。

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