熱 中 症、そ の 5
[ 熱 い 作 業 環 境 ]
私は 昭和 27 年 ( 1952 年 ) に 海上保安大 に入学 したが、当時 の 練習船 は 「 く り は し 」 ( 栗 橋 ) であ り、 船齢 5 0 年 以上 の 中古 ではな く、 大古 (?) の 船であった。
この船 は 明治 3 0 年 ( 1897 年 ) に、 デ ン マ ー ク の 造船所 で 作 られた サ ル ベ ー ジ ( s a l v a g e 、海難救助、引 き 揚 げ 船 ) で、基準排水量 1,0 6 0 ト ン で あり、敗戦まで 旧 日本海軍 に 所属 して いた。
エンジン は 蒸気機関車 と 同様 の 蒸 気 往 復 式 機 関 ( S t e a m R e c i p r o c a t i n g E n g i n e ) で 、巡航速度 は 僅 か 10 ノ ッ ト ( 時速 18 キ ロ メートル )の 自転車 並 み の 低速 で 航行 した。
蒸気を発生させる 汽 罐 ( き か ん、ボイラー、b o i l e r ) は、三 胴 式 水 管 缶 ( さんどう しき す いかん が ま ) で あ り、燃料 は 蒸気 機関車 と 同 じ 石炭 焚 き であった。
なお 「 日本海軍 燃 料 史 」 によれば、日本海軍 が 固 形 燃 料 ( 石 炭 ) から 液 体 燃 料 ( 重 油 ) に 変更 を 決 意 した の は、明治 4 0 年 ( 1907 年 ) に 、石炭 - 重油 混 焼 汽 缶 ( こん ねん かん、ボ イ ラ ー ) を 初 めて 採用 した 装甲巡洋艦 の 「 生 駒 」 に 遡 る。
さらに 重油 専焼缶 を 装備 した 艦 については、大正 4 年 ( 1915 年 ) に イギリス から購入 した 駆逐艦 「 浦 風 」 が 最初 であった。同書 には 以後 の 艦艇 が 「 著 し く 速力 並 に 航続距離 を 増加 し、容易 に 長時間 戦闘運転 に 耐 え 得 る 様 に なった 」と ある。
下の写真は、「 う ら か ぜ 」 の 全景。
[ コ ロ ッ パ ス ]
昔 の 船員用語 で、 石 炭 繰 ( く ) り のことを、コ ー ル ・ パ ッ サ ー ( C o a l p a s s e r ) を短縮 して 「 コ ロ ッ パ ス 」 と呼んだが、機関科 の 下級船員 であった 汽 缶 焚 き ( か ま た き ) である 火 夫 ( か ふ、F i r e m a n ) の 更 に 下働 きであった。
学生時代の 乗船実習で 機関科 の 当直 の 際 には 汽 缶 焚 き ( かまたき ) の 実習 も したが、汽缶室 ( かま しつ、ボイラー ルーム、>B o i l e r r o o m ) の 温度は 「 暑 い 」 のを 通 り 越 して 輻射熱 で 4 0 度 C 以上 にもな り 「 熱 い 」 ので、熱射病 を 防 ぐ ために 水 を ガ ブ 飲 み し 岩 塩 を 口 に入れながら、投炭用 ス コ ッ プ で 、 一 掬 ( す く ) い 1 5 キ ロ の重さにもなる 石炭 を、 燃え盛る ボ イ ラ ー の 火 床 ( か しょう、F u r n a c e ) へ 均等 に 撒布 するように 投 げ 入 れた。
外からの 空気 が 来 る 汽缶室 の 通風筒 の 下 には 船 の 機関科員 が 立 ち、我々学生 は 換気 の 風 が 来 ない 所 で 汽缶の輻射熱に晒され 汗 だ く にな りながら、ひたすら 汽缶 焚 き ( かまたき ) の 投炭作業 に 従事 した。
日清戦争 ( 1894 ~ 1895 年 ) ・ 日露戦争 ( 1904 ~ 1905 年 ) の 戦訓 にも、機関室 ・ 汽缶室 の 通風不良 の 艦 においては 、炎暑下 で 機関科員 がその 体力 の 限界 を 超 えた 酷使 へ と 追込 まれる 場合 があった と 記 されていたが、その 5 0 年後 に 我 々 も それを 体験 させられた。
下記は 海 保 大 桟 橋 に 係 留 中 の 練 習 船、三代目 の 「 こ じ ま 」 で 2, 9 5 0 ト ン 、 速力 1 8 ノ ッ ト、 デ ィ ー ゼ ル エ ン ジ ン のため、「 か ま 焚 き 」 の 苦労 は 無 い。
推進軸 は 二 軸 、毎 年 実 習 生 を乗 せて 世 界 一 周 の 訓 練 航 海 に 出 て い る。