熱 中 症、 そ の 4
[ 物 の 根 源 は 水 ]
熱中症 に 関 する 記 述 で 最 も古 い とされるものは、 古代 ギ リ シ ャ で 活躍 した タ レ ス ( 紀元前 623 ~ 前 546 年 ) に 関 する 記 述 である。彼は 古代 ギ リ シ ャ の 七 賢 人 の 一人 であり、
物 の 根 源 は 水 で あ る
と 説 いた 有名 な 哲学者 であった。その 人物 が 古 代 ギリシャ の エ ー リ ス 地 方、オ リ ン ピ ア で 4 年 に 1 度 開催 された 最大級 の 競 技 会 ( オリンピック ) を 観戦中 に 熱中症 で 死亡 したと いわれている。
「 すべては 水 から 生 じて、水 に 還 る 」 という 自然観 を 語った 人 が、 脱 水 で 命 を 落 と した とすれば、皮肉 な 話 である。
日本においては 正 徳 2 年 ( 1712 年 ) に、福岡藩 の 儒学者 ( じゅが く しゃ ) であった 貝原益軒 ( か いばら えきけん ) が 健康指南書 の 養 生 訓 ( よう じょう く ん ) の 中 で、
四 時 ( 四 季 ) のうち、夏 月 も っ と も 保養 す べ し、霍 乱 ( か く らん、暑気 に 当 てられて 起 こる 吐 瀉 病 ) ・ 中 暑 ・ 傷 食 ( 急性胃腸 カ タ ル ) 瘧 痢 ( ぎゃ く り、発 熱 性 下 痢 ) の 病 おこ しやす し
と 記述 して いた。
[ 奈良の大仏を造れても、銅の 精錬法 に 無知 だった日本 ]
ところで、古来,日本 の 銅 鉱 石 には 銀 が 含 まれて いたが、銅 から 銀 を 取 り 除 く ( 取 り出す ) 技術 が 日本 には 無 かった。室町時代 ( 1336 ~ 1573 年 ) に は 日本 の 輸出品 の 主 要 なものは 銅 であ り、粗 銅 ( そどう、不純物 を含 む 銅 の 半製品 ) から 「 銀 」 を 分離 する 技術 をもつ 中国 には 格 安 の 品 と して 受 け 入 れられてきた。
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住友財閥 の 先祖 は 水 運 に 恵まれた 大阪 に 住 んで いたが、天正 1 9 年 ( 1591年 ) に 和泉国 堺 浦 ( 現 ・大阪府 堺市の 港 ) に 来 た 明 ( み ん ) の 技 術 者 から、 「 南 蛮 吹 き 」 ( なんばん ぶ き ) と 称 する 粗 銅 から 銀 を 分 離 する 精 錬 法 を初めて 学 ん だ。
こ の 「 南 蛮 吹 き 」 のおかげで、住友家 は 粗 銅 から 「 銀 」 を 分離 して、莫 大 な 利 益 を 上 げるようになった。
[ 南 蛮 吹 き と は ]
銀 や 不純物 などを含む 半製品の 粗 銅 ( そどう ) から、銅 の 融 点、1083 度 C 、 銀 の 融 点、961 度 C 、 鉛 の 融 点、328 度 C という 融 点 の 温度差を 利用 して、粗銅 を 加熱 して 銀 を 取 り 出 し、純度 の 高 い 精 銅を 得る方法 を いう。
上図 は 粗銅 ( そどう、または あらがね とも 呼 ばれる )
元禄 3 年 ( 1690 年 )、標 高 1,000mを 超 える 伊 予 の 別 子 ( べ っ し ) 山 村 ( 現 ・ 愛媛県 新居浜市 ) で 発見された 銅 の 露 頭 ( ろ と う、鉱 脈 の 一 部 露 出 )を 手 がかりに、ここに 良好 な 鉱脈 があることを 確認 した 住 友 商 店 は、翌年 銅 の 採掘 を 開始 した。
記録によれば、発見から僅か 5 年後 の 1695 年 には、別子銅山 の 山中 に 2,700 人 もの 店員 と 作業人 が 暮 らす 鉱 山 町 が 形 成 されて いたと いう。
坑道 を 堀 り銅鉱石 を 掘 削 し、外部への 鉱石運 び 出 しは 重労働 であ り、粗銅 の 精 錬 には 大量 の 火 気 ( 薪 炭 )を 使用 した。 以来 200 年 近 く 江戸時代 を 通 じて、別子銅山 は 日本有数の 銅鉱山 となった。
[ 江 戸 時 代 の 熱 中 症 の 認 識 ]
『 南総里見八犬伝 』 の 作者 と して 知 られる 戯 作 ( げ さ く ) 者 の 滝沢 ( 曲亭 ) 馬琴 ( たきざわ ばきん、1767 ~ 1848 年 ) が書 いた 馬琴日記 の中に、文政 12 年 ( 1829 年 ) 7 月 1 8 日、
予 ( よ ) 、昼 前 ヨ リ 水瀉 ( 水 のような 下痢 をすること ) 四 ・ 五 度、依 之( これにより ) ( 医師 で 長男 の 滝沢 ) 宗 伯 ( そうは く が ) 調剤 ( し た 薬 を ) 服薬 ス。中 暑 ( ちゅう し ょ、暑気あたり、熱中症 ) ノ 気味 ナ リ
との 記述があった。このことから 江戸時代後期 には、熱中症 と いう 疾 病 ( しっ ぺ い ) が 江戸庶民 に 広 く 認知 されていたことが うかがえる。
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