2007年4月14日 (土)

笑顔も訓練の成果

Desu2 改革開放以前の中国では笑顔が全く無かった話をしましたが、今度は日本の話です。
どこの航空会社でも スチュワー「デス」 の訓練生達が、笑顔の訓練を受けることを皆さんはご存じですか?。新人 「デス」 はお客に対して、笑顔で接することがなかなかできないからです。写真はクリックで拡大。

百 パーセント初対面のお客様である ビジネスマン、ビジネスウーマン、気難しそうなお爺ちゃん、お婆ちゃん、若いお客様に対して、どうしても笑顔ではなく、「堅い笑い顔」になってしまうのだそうです。記念写真や見合い写真(死語かな?)などを撮る際に、自然な笑顔ができずに写真写りが悪くなる人はいませんか?。昔は集団写真の際にチーズを発音するように言われたものですが。

今では スチュワーデスの採用試験に備えて美容整形をしたり、受験票に貼る写真にさえ、五~十万円も カネ を掛けて美人に修正した写真を提出する受験生が多いそうです。金野氏によれば会社側もその辺は十分承知しているようで、写真による選考はしなくなったそうです。

Desu1 「男は度胸、女は愛嬌」という言葉がありますが、愛嬌とは表情や言動が愛らしく、人好きのすることです。最近では スチュワーデスに限らず男性も女性も、ビジネス・パートナーに好印象を与える為に、日頃から積極的に笑顔の訓練をする時代なのだそうです。

金野氏は笑顔の講習を受けたことが無いので、詳しいことは分かりませんが、笑顔の コツとは

[その一]
緊張せずに人に接することだそうです。初対面の人に接する場合には、とかく緊張し勝ちですが、緊張がもたらすものは必然的に顔の筋肉の硬直であり、その結果は堅い表情になり、お世辞にも愛嬌がある人とはいわれなくなります。緊張は笑顔の大敵となると、これは精神科医の守備範囲になりそうです。

[その二]、
専門家によれば顔には表情を作りだすのに必要な筋肉は三十種類以上もあり、複雑に関連し合っていますが、それを総称して表情筋と呼ぶのだそうです。その筋肉を意識して鍛えることにより、すてきな笑顔を作れるのだそうです。笑顔の訓練とは鏡を見ながら顔の表情筋を動かして訓練し、顔の筋肉を鍛えることでより良い笑顔をしかも自然に作ることができるといわれています。

Desu3 [顔が疲れる]
ある時金野氏は乗客の降機終了後の機内で、チーフパーサーの姿美子(すがたよしこ)デスが顔の筋肉を揉みほぐしているのを目にしました。彼女曰く「顔が疲れました」
考えて見て下さい機内の二箇所の ドアーから仮に三百人の乗客が乗り降りする度に、営業用の笑顔をしながら「いらっしゃいませ」、「ありがとうございました」を一日四便繰り返すとしたら、 三百人÷2箇所×2回(往復)×4便=千二百回

つまり チーフパーサーの姿美子 デスは、千二百回も顔の表情筋を意識的に動かしたので、顔が疲れたのも無理からぬことでした。

2007年4月 8日 (日)

空姐(コンジェ)の訓練

昭和40年代末期に中国民航が国際線に進出しましたが、その後に縄文航空で中国民航のスチュワーデスの訓練をしたことがありました。その理由は共産主義国家における長年の社会習慣から、女性服務員 ( スチュワーデス ) にとって接客に必要な サービス 精神の欠如を、外国人乗客に指摘されたからでした。このままでは外国人乗客が乗らなくなる、と思ったからでしょう。

金野氏が初めて北京に行ったのは、昭和 52年(1977年)のことでした。その当時は文化大革命が終了し毛沢東が死亡 (1976年)した直後でしたが、鄧小平(とうしょうへい)主導による改革開放政策がおこなわれる前のため、中国社会は貧しくてひどい状態でした。男も女も人民帽を被り服は紺色かネズミ色のだぶだぶの人民服で、遠くから見ると男女の区別が分からず、背の高さの違いで見分けるほどでした。

Beijinhel 共産主義の国では サービス精神というものが基本的に存在しないので、我々にとってはこの上もなく不便で不愉快なものでした。当時北京で最高級の北京飯店 (国営のホテル)でさえも、レストランに食事に行くと ウエ-トレス達は、客が呼んでも無視して仲間同士の雑談に耽り注文を聞きに来ず、ようやく来た仏頂面で横柄な態度の ウエ-トレスに注文を聞いてもらい、食事をさせてもらう状態でした。

彼女たちにとってお客とは、仲間同士の雑談を妨害する不届き者でしたが、生ぬるい食後の コーヒーを飲まされたあげく、彼女達の給料の半月分に相当し、当時の我々にとってもやや高い 二千五百円程度を夕食代に支払ったものでした。しかしその当時 レストランに入ってから最初の料理が運ばれるまで、一時間も待たされた モスクワの ホテルよりも未だ マシ でした。

どんなに勤務態度が悪くても解雇されない。しかも上司による勤務評定も無い。さらに同一労働同一賃金の原則から仕事に努力しても、怠けていても貰う給料は皆同じ。という日教組の主張とそっくり同じの、共産主義国家における労働の制度的欠陥によるものでした。

そういう考え方の中国人女性達を教育した、縄文航空の客室訓練係もさぞ大変だった事でしょう。ホテルのウエートレスやスチュワーデスの勤務態度だけでなく、その当時中国民航機の出発や到着がどれほど遅れても、乗客には一切説明をしないので有名でしたが、飛行機に乗せてもらうだけでもありがたく思え、という会社の方針からでした。

Shuugou1 それから三十年後のこと、最近では日本と同じように中国にも、スチュワーデスの養成を目的とした学校が初めて誕生しました。中国の南昌にある航空工学学院に中国語で 空姐 (コンジェ)という スチュワーデスの空中乗務科 が開設されましたが、今後ますます需要が伸びるスチュワーデスの養成に当たるのだそうです。写真はクリックで拡大。

Shuugou2 かつての中国では現在の北朝鮮と同様に、公務員である女性従業員たちは客に笑顔を見せると自分が損でもするように、笑顔を絶対に見せないので有名でしたが、この写真を見ると女性達の表情も明るく豊かになり、資本主義国並になりました。

2007年4月 1日 (日)

ヘリの事故に思う

Heritokunoshima 那覇市にある陸上自衛隊所属のヘリコプター、C H-47が徳之島の山に衝突し、乗員四名全員が死亡するという事故が起きました。徳之島の病院から鹿児島県を通じて、急患を沖縄県の病院に輸送してほしいという要請を受け、3月30日の午後9時50分ごろ沖縄那覇空港を離陸し徳之島に向かいました。

当初の計画では東部の徳之島総合グラウンドに着陸する予定でしたが、視界不良のため行き先を島北西部の徳之島空港に変更しました。到着する前に墜落しましたが、恐らく天候不良のため、飛行中に周囲を雲に囲まれ視界を失い山に衝突したと思います。写真はクリックで拡大。

墜落した自衛隊 ヘリで搬送される予定だった徳之島の七十代の女性患者は、翌日午前9時54分 鹿児島県鹿屋市自衛隊第一航空群司令部のUH60J ヘリで那覇空港に搬送されました。受け入れた南部徳州会病院によると、「一時、脈が弱くなったようだが現在は安定している。」と回答があったそうです。
 
Chinookch47 ヘリの機長の建村3等陸佐(54才)は4,850時間の飛行時間を持ち、定年退職する前の最後の フライトだったといわれていますが、お気の毒なことでした。CHー47は愛称を チヌークといい1961年(昭和36年)に初飛行の、双発 ツインローターの全天候大型輸送 ヘリで、兵員、弾薬、物資の輸送、傷病者の輸送などに使用されてきましたが、設計から40年以上経過という古さを補う為に、新型 レーダーや、衛星利用測位 システム( GPS )などの航法装置を備えていました。

ところで昭和 35 年の冬のこと海上自衛隊大湊基地所属の 救難 ヘリコプターが、今回と同様に急病患者を輸送するため基地を離陸しましたが、吹雪に阻まれて目的地に到達出来ずに、基地に戻る途中に エンジン の故障(おそらく気化器の凍結)により、海岸から 200 メートル沖合いに不時着水しました。乗員達はそこから泳いで海岸に向かう途中に、冷たい海水により体温が低下し、岸に泳ぎ着いた後に四名全員が死亡した事故がありました。

Parasit_01 老婆の命を救う為に妻子ある有能な隊員四名の生命が失われましたが、その急患とは腹痛の患者で実は痛みの激しい胆石や、急性盲腸炎でもなく、当時の農村に多かった回虫による一時的な腹痛でした。ところが自衛隊 ヘリ の出動要請をした村の代表者も 寄生虫持ちの ババア の家族も、誰一人殉職隊員の葬儀へ焼香に来なかったというので、自衛隊員たちは憤慨していました。

今回の第101飛行隊は、鹿児島県・奄美諸島から日本最西端の沖縄県・与那国島までの離島の急患輸送を担当していて、年間に約 300 回の出動があり、昭和 47年の部隊発足以降、これまでに約 7,600人の患者を運んだそうですが、沖縄県人は自衛隊員に、はたして感謝しているのでしょうか?。

私は戦争被害者意識の強い沖縄県人に言いたいのです。 「沖縄における地上戦での県民死亡者と同じ数の人が、昭和 20年 3月 10日の東京大空襲で死んだことを知っているのか?。戦争の犠牲者は沖縄県人だけではないぞ 」 と。

2007年3月30日 (金)

泡沫消火剤の散布

F4danangab 以前は胴体着陸などの緊急着陸時には、予め滑走路に泡沫消火剤を散布しておき、そこへ着陸させていましたが、最近では軍用飛行場を除き、あまり使用されなくなりました。

その理由とは滑走路上に泡沫消火剤を散布しても、これまで考えられていたほどの火災発生を防ぐ効果が無いことが判明したからでした。アメリカの連邦航空局である、F A A ( Federal Aviation Administration )も以下のような勧告を出しています。

The FAA does not recommend the foaming of runways for emergency landings and warns against the practice with any foam other than “Protein” foam.

意訳しますと、「 F A A は緊急着陸時における滑走路への泡沫消火剤の事前散布を推奨しない。泡沫消火剤を使用する際は プロテイン(たんぱく質)を主成分とするものに限り、それ以外の種類の消火剤は使用しないように警告する」としています。上の写真の アワ まみれの機体は ベトナム戦争当時、南ベトナムの ダナン空軍基地に胴体着陸した F-4 ファントム 戦闘機です。写真は クリックで拡大。

泡沫消火剤には 「プロテイン・タイプ」以外にも、水状の被膜を形成するといわれる 「A F F F (Aqueous Film Forming Foam 、水性被膜形成泡沫消火剤」、や 「アルコール・タイプ」 などがありますが、いずれの場合についても緊急着陸の際に、滑走路を泡沫消火剤で事前に覆うことの有効性については疑問視されています。

つまり緊急着陸する場合に滑走路面を泡沫消火剤で覆っても、覆わなくても着陸機に対する火災防止効果が「気休め程度」しか無いということなので、時間と手間、カネを掛ける必要はなくなります。

Bellylandg1 滑走路の幅について説明しますと、地方空港などの狭いもので150フィート(45メートル)、国際空港など広いものでは200フィート(60メートル)ありますが、胴体着陸に備えて、滑走路の幅の半分近くの75フィート(23メートル)の幅で、最低でも泡沫の厚さ(深さ)2インチ(5センチ)で、長さ1,200フィート(300メートル)の範囲の滑走路に泡沫を散布するとすれば、泡沫消火液を作り滑走路上に散布を終了するまでに、約40分から一時間も掛かります。

Bellylandg2 しかも泡沫の効果は緊急着陸をする パイロット の技量だけでなく、気温、風向風速などの要素に大きく左右され、雨や雪が降る状態では散布できません。散布した 「アワ」 は時間と共に消滅するので散布直後から性能が低下します。写真は上の胴体着陸した機体に、後で消火剤を散布したもの。

パイロット にとって嫌な問題もあります。例えば片側の主車輪と機首輪で着陸した場合には、泡沫により車輪が滑る為に車輪が引っ込んだ側の エンジン や翼端が接地してからは、機体の方向維持がより困難になり、滑走路から外にはみ出す危険性が高くなるからです。

参考までに車輪の トラブルから、滑走路に泡沫消火剤の散布無しに胴体着陸した、二人乗りの F111 の動画です。U R L をクリック。

http://www.youtube.com/watch?v=Uf6zo4N5dS4

2007年3月26日 (月)

自衛隊機の場合

金野氏の友人である S 氏が海上自衛隊徳島基地で S2F という グラマン 社製の小型哨戒機に乗っていた頃の話ですが、ある時訓練飛行を終えて基地に帰り着陸のため車輪を下げたところ、右の主車輪が出なくなりました。

Tracker この飛行機はもともと航空母艦に搭載するものであり、空母では離陸の際には蒸気 カタパルト で飛行機を射出し、着艦の際には尾部の テイル・フック( Tail hook )を甲板上に張った ワイア に引っかけて機体を強制停止させる頑丈な機体でした。

そこで民間機ではしない傾斜角 45度を超える急旋回をしたり、急降下の姿勢から急激に機体を引き起こしたりと、いわゆる G (Gravity force、重力、加速度)を機体に掛けて車輪をなんとか出そうと努力しましたが、効果がありませんでした。写真はクリックで拡大。

機長の S 氏は片側の主車輪と機首車輪の二つで緊急着陸するつもりでしたが、そこは指揮命令系統が厳しい自衛隊のことゆえ、機長の判断を超越して隊長から胴体着陸をするように命じられました。

最近はあまり流行らなくなりましたが、当時は何かといえばすぐに消防車が、泡沫消火剤を滑走路に散布して胴体着陸をさせました。しかも泡沫消火剤というのは滑走路面に散布してから時間が経つと泡が消滅したり、夏場など熱い滑走路面ではすぐに乾くので、事前に散水してから泡沫を散布するなど手間がかかりました。

S2fm 接地予想地点から長さ二百 メートル にわたり泡沫消火剤を散布しましたが、胴体着陸をする前にもう一度だけ、飛行機を急降下から引き起こす操作をすることになりました。その飛行機には過度の G (重力、加速度)が機体に掛かるのを防ぐ為に、 G  リミッター(重力制限装置)という安全装置が操縦桿に装備されていましたが、それを解除して急降下の姿勢から急激な引き起こしをしました。すると幸運にも主車輪が出たではありませんか。

ところが困ったことに滑走路上には 五 センチ の厚さの泡沫が、長さ二百 メートルも散布されていて、着陸時に車輪が滑るので取り除く必要がありました。すでに燃料はぎりぎりの量まで消費してしまったので時間との競争でした。基地の自衛隊員が総出で泡を取り除いた滑走路に、彼は無事に着陸できました。

加速度や重力の大きさを示す単位に Gravity (重力)の頭文字をとった G がありますが、計器板にある G メーターの示度をみると  3.5 G (つまり重力の三.五倍)を示していたそうです。

Gmeter 金野氏も昔 アメリカで大型の対潜水艦哨戒機に乗る前にこの飛行機に乗り、  F C L P ( Field Carrier Landind Practice 、 地上での模擬着艦訓練)をしたことを思い出しましたが、その際には接地点を狙って飛行機を滑走路面に叩き付けるので、毎回 2.5 G の加速度が機体にかかりました。 離陸前の チェックリストにも パンチ・G メーター( Punch G meter )という項目があり、写真にある計器の左下にある ボタン を押し込んで(パンチ)して、示度(写真では +2、-0 G )を リセット して離陸しました。

Fclp 現在では コックピットの前方 ガラスに情報が映る、光学式空母着艦装置( Carrier Optical Landing System )を使用しますが、当時は写真にある、降下角を パイロットに示す進入角指示装置を用い、傍には L S O ( Landing Signal Officer 、着艦係り士官)がいて、不安定な進入状態の飛行機には、ウエイブ・オフ( Wave off、やり直し )を指示していました。

2007年3月20日 (火)

ジェット機の機首着陸(?)

機首の車輪が引っ込んだままの胴体着陸(?)について、プロペラ機だから無事に着陸できたのであって、大型、高速の ジェット機の場合には危険であるとする意見が寄せられましたので、実例を挙げて一般の人が考えるほど危険ではないことを説明します。

Noseabnoramalgear 平成17年9月22日のこと、アメリカの ジェット・ブルー航空の292便 (エアバス320型機) が、乗客140人と乗員6名を乗せて カリフォルニア州の バーバンク空港 (ロサンゼルスの北西20キロ)から、東海岸ニューヨーク州の JFK ケネディー空港に向けて離陸したところ、機首の車輪が上がらなくなりました。

そこで バーバンクの管制塔の傍を ローパス ( Low pass ) して管制官に目視で機首車輪の状態の確認を依頼したところ、機首車輪が90度左にねじれているが、車輪は完全に下りている様だとのことでした。 写真はクリックで拡大。

地上からのアドバイスを受けながら トラブル・シューティング をしましたが、不成功に終わった為に、機長は出発地の バーバンク空港ではなく、より長い滑走路と消防車、救急車などの緊急用の機材と、人員が揃ったロサンゼルス空港に着陸することに決めました。
西海岸から東海岸まで四時間掛かる北米大陸横断飛行の為に、機体に多量の燃料を搭載していたので、着陸に備えて太平洋上を二時間旋回して燃料を消費した後に、ロサンゼルス空港に緊急着陸をおこないました。

Noasegearfire 着陸した後に主車輪での滑走をできるだけ長く続け、減速した後に機首車輪を接地させましたが、同時に火花が発生し炎が見えました。機体は滑走路の 90パーセントを使用して停止しましたが、同時に火も消えました。乗客は機内から緊急脱出用の スライド(滑り台)を使用して脱出する必要もなく、通常の ドアから下りました。

Songai 写真は緊急着陸をした機体の機首車輪の ハブ と タイヤ ですが、ハブ は半分に摺り減ったもの火花の割には タイヤ の焼け跡も見られず、機体の損害は ハブ と タイヤだけでした。エアバス 320型機の着陸速度は詳しくは知りませんが、機体の大きさから 時速 210~230 キロメートル (120~130 ノット )前後だろうと思いますが、それでもこの被害で済みました。

22plane_5 これを見ても プロペラ機だけでなく、着陸速度がより速い中型 ジェット機でも、機首着陸(?)が思ったよりも安全なことが理解できたと思います。以前述べたことを繰り返しますが、機首附近には燃料 タンクも、燃料の パイプライン も無いので、着陸滑走中に派手に火花を出しても、燃える物、引火する物は 機首のタイヤ 以外は何も無いからです。

写真は機首の火花も他に燃え移ることなく消えてしまい、滑走路まで迎えに来たバスに落ち着いて乗り移る乗客たち。

2007年3月14日 (水)

胴体着陸ではない

航空用語の殆どは英語からの和訳ですが、胴体着陸のことを英語では ベリー・ランディング( Belly landing )といいます。ベリーとは腹部のことです。一般受けするように高知空港の事故を、マスコミは胴体着陸と呼びましたが、本来の胴体着陸の意味は、車輪が全て出ない状態で、あるいは意図的に車輪を出さずに胴体で着陸、接地することです。たとえば滑走路だけでなく、畑の中や砂浜などに不時着する場合には、転倒防止のために胴体着陸をするのが普通です。

高知空港では事故機の腹部 ( 胴体 ) は接地しましたか?。接地したのは 機首 (ノーズ、Nose ) だけでしたね。でしたら ノーズ・ランディング ( Nose landing ) というべきでしょう。
Nose gear retracted landing  といえば完璧ですが、やや長過ぎます。

今から約四十年まえの昭和43年頃のこと、大阪伊丹空港で縄文航空の YS-11で、片側の主車輪が下りなくなる故障が起きましたが、着陸の困難さから言えば、今回の ボンバルディア 機の場合よりも何倍も難しい状況でした。

詳しいことは忘れましたが、着陸する為に機長が YSー11 の車輪を下ろしたところ、片側の主車輪が下りずに格納されたままでした。空中で整備士の アドバイス を聞きながら車輪を下げる処置をしましたが、結局成功せずに着陸することになりました。

この場合の取るべき着陸形態は、大別すると二つありました。

1:全部の車輪を上げたままで、文字通り胴体だけで着陸、接地する。
2:利用可能な機首の車輪と、片側の主車輪の二つの車輪で着陸する

1:の場合は主翼にある燃料タンクのヒビ割れなどの燃料漏れによる、火災の危険がありました。
2:の場合は着陸後に車輪が出ていない側に機体が傾き、地上でグラウンド・ループ (機体が地上で方向維持できずに、大きく旋回し滑走路からはずれること ) の可能性がありました。

さらに着陸場所について

3:滑走路上に着陸する。
4:火災の発生を防ぐために、滑走路脇の芝生の上に着陸する。

という選択肢がありましたが、 機長は 2 と 3 を選びました。

大型 ジェット 機以外は、空中で余分な燃料を放出する装置がないので、飛び続けることにより燃料を消費しました。そして限界近くまで燃料タンクを空にしてから、伊丹空港の滑走路に着陸しました。

接地はグラウンド・ループを考慮して滑走路の中心よりも片側に寄せ、片側の主車輪、それに続き機首の車輪を接地させ、接地後の滑走では補助翼を車輪の出ている側に一杯に取り、なるべく空力抵抗( Aero-dynamic Brake ) を使い減速し、支えきれなくなってから翼を滑走路に接地させました。グラウンド・ループ は予想の範囲内でした。かくして乗客、乗員は全員無事に機体から脱出できました。メデタシ。

2007年3月11日 (日)

嫌な乗客、最終回

[密航者]

B747sharin
15年以上前のことですが、成田から モスクワ経由 ロンドン行きの縄文航空のジャンボ機が、ロンドン・ヒースロー空港に到着したところ、専門用語で ホイール・ウエル( Wheel well 、well とは井戸のようなアナの意味 )と呼ぶ、飛行中に主車輪を格納する胴体下部にあるスペース内に、男の死体があるのが発見されました。モスクワからロンドンに密航しようとしてホイール・ウエル( 主車輪格納スペース )内に隠れていて、寒さと酸素の欠乏から死亡したのでした。写真はクリックで拡大。

ある時テレビで「 衝撃映像 」の番組を見ていると、離陸した飛行機から人が滑走路上に落下する映像がありましたが、離陸後に車輪を上げる際にホイール・ウエル内に潜り込んでいた密航者が、落ちたものでした。

ホイール・ウエルに隠れて密出国する手口はよくあることで、平成15年(2003年)3月19日にも ホンコンから成田へ到着した、縄文航空の910便の左側の ホイール・ウエル内から、男性の遺体が発見されました。

Nosegear2 今年に入ってからも1月30日に ロンドンから ロサンゼルスに到着した英国航空の、今回は前輪の ホイール・ウエル内に男性の遺体が発見されましたが、身分証明書から南 アフリカ共和国の国籍を持つ若者で、寄港地の ケープタウンか ホンコンで潜り込んだものに違いありません。 

冬になると北極圏から 極 ジェット( Polar Jet )気流が南下するため、その中では気温が マイナス65度以下にまで下がります。しかも酸素の分圧が地上の三分の一しかない空間なので、前述のように密航者は到底生きてはいられません。しかし中には幸運に恵まれ、強靱な生命力を持つ人がいました。

Nwest 平成10年(1998年)7月29日のこと、上海から成田に到着した ノースウエスト航空の ジャンボ機のホイール・ウエル内に、男がいるのを整備士が発見しましたが、驚いたことに彼はかなり衰弱していましたが 生きていて、両足に凍傷を負っていました。

その男は中国人の汪明山と名乗る男で、密入国容疑で逮捕されましたが、密航時の服装は上は Tシャツに、ズボンに スニーカーという軽装で、所持品は シャツの中で抱きかかえた古い聖書一冊だけでした。

汪容疑者による密航時の体験談は以下の通りでした。飛行機が離陸を開始すると ホイルー・ウエルの中で振り落とされないように、手近にあった パイプのようなものをしっかりつかんだが、ものすごい風圧だった。離陸して車輪が引き上げられると、フタが閉まって中は真っ暗になった。だんだん寒くなり、手で体をさすったりした。着陸間際に上空でホイール・ウエルのフタが開いたが、落ちないように必死でへばりついていた。着陸の時はものすごい音がした。やっと着いたと思って隠れていたら、整備士に懐中電灯で照らされ発見されてしまった。

 汪被告が生還できた理由として、

1:夏期であり、上空の ジェット気流が北上して気温が マイナス30度前後とかなり高かったこと。
2:上海から成田まで飛行時間三時間のうち、高度一万 メートル付近での水平巡航時間が二時間程度と短かったこと。
3:離陸時の摩擦で温まった タイヤの熱により、ホイール・ウエル内の温度を上げたために体温が保てたこと。

注:)車輪の安全装置
飛行機が地上滑走すると タイヤの空気が圧縮膨張を繰り返すため発熱し、更に ブレーキを使用すると ディスク・ブレーキが発熱して タイヤも加熱されます。車輪には温度計のセンサーがあり、ホイール・ウエルには火災報知器のセンサーも装備されていて、操縦室でブレーキ温度や火災の発生を知ることができます。

タイヤが高温に加熱されると破裂の危険があるため、約250度~300度の熱により溶解する温度 ヒューズが タイヤに付いていて、いざという場合には空気が自然に抜けて、熱による タイヤの破裂( 爆発 )を防ぎます。
「嫌な乗客」 はこの回にて終了しますが、次回からは週に一度、思いつくままに題材を選ぶことにします。

2007年3月 6日 (火)

嫌な乗客、パート、9

Ninsou 昭和46年(1971年)11月24日のこと、北米太平洋岸のオレゴン州にあるポートランド国際空港から、ノースウエスト・オリエント航空の シアトル行き B-727型機に、40才代の白人のビジネスマン風の男が ダン・クーパーの名前で搭乗手続きをしました。似顔絵はクリックで拡大。

727_40301_0 飛行中に彼はスチュワー「デス」に爆弾を持っていると告げて、カバンの中身を示し飛行機をハイジャックしました。飛行機が シアトル空港に着陸すると乗客を解放する条件として、四つの パラシュートと 二十ドル紙幣で合計二十万ドル(当時の為替レートで五千万円)を要求し、受け入れられました。飛行機が離陸すると今度は パイロットに対して、メキシコに向けて高度一万フィート( 三千三百メートル )以下で飛行することを命じました。写真は同じ会社の、ボーイング 727型機。

Aftstair 「デス」が見ているとクーパーはカネの入った袋を彼の腰の回りに付け、パラシュートを背中に装着し、予備の パラシュートとして胸に一つを着けました。数分後に操縦室のパイロットは、客室の最後部にある出入口ドアが開いたことを示す警報ランプの点灯に気付きましたが、クーパーが自分で最後部の客室ドアを開け、尾部搭乗口の階段( Aft stair )を下ろして飛行中の機体から、氷雨の降る夜の空中へ脱出して行きました。写真は階段を下ろした状態ですが、乗客の搭乗、降機、荷物の積み込みなどの際には、重心の変化により機体の尻モチ防止の為に必ず階段を下ろします。

その後、犯人のクーパーもカネも発見されませんでした。FB I によれば当時は風が強く、彼の装備(ビジネスマン風の服装等)も脱出や地上における逃走に適していなかったので、生存できる可能性は少ないとしました。

ところで フロリダに住む不動産業を営む女性のウエバーが最近話したことによれば、彼女の夫であった七十才の男が平成七年(1995年)に死の床で、自分が ハイジャック犯人のダン・クーパーであることを告白したのだそうです。妻のウエバーによれば夫とはハイジャックの犯行の六年後に、アトランタで知り合ったとのことでした。

当局によれば ダン・ウエバー( 犯人のクーパー )は陸軍の軍歴があり、シアトル近郊の刑務所に入所した前歴もあり、この物語の信憑性について見守っているとのことでした。

事件から九年後の昭和55年(1980年)に、事件に大きな展開がありました。ワシントン州とオレゴン州の州境を流れるコロンビア川の砂州で遊んでいた八才の子供が、引き裂かれ、腐った六千ドル近くの現金を拾得しましたが、クーパーの ハイジャック事件に関係した カネでした。これから想像すれば犯行の当夜 クパーは厳しい状況に直面したに違いないということで、その結果 カネが流されて河口近くで拾得されました。六千ドルの現金は航空会社が加入していた保険会社と、子供の両親で折半されました。

クーパーの残りの カネについては今後森で狩りをする ハンターか、あるいは ハイカーが偶然に発見するかも知れませんし、平成元年(1989年)以来 クーパーの カネを探し続けている陸軍の サバイバル教官で、ベトナム帰還兵の ジェリー・トーマスが先に発見するかも知れません。

Aftentrance ハイジャック事件の教訓から飛行中に最後部にある乗客乗降口の階段( Aft stair )を下ろせないように、B-727型機の機体が改修されましたが、金野氏もその当時、同じボーイング727型機の機長をしていたらしいと聞きました。

写真は前述の階段を下ろした状態ですが、犯人はこの階段を下りて行き パラシュートで脱出しました。写真は階段の上から撮ったものですが、右側のパネル(覆い板)を外した状態です。

2007年3月 1日 (木)

嫌な乗客、パート、8

[その、一]
Fokker3m 飛行機を利用した自殺の最初は、今から76年前の昭和6年(1931年)3月に起きました。東京発大阪行きの日本航空輸送の定期旅客機 フォッカー3型が、三重県と滋賀県の境を南北に横たわる鈴鹿山脈の上空を飛行中に、乗客で カバン屋の店員だった 須山某(27才)が トイレの窓から飛び降り自殺しました。動機は近所の カフェー(当時の酒場)の女給(ホステス)に失恋したためでした。写真はクリックで拡大。
  
[その、二]
Dc3 昭和34年1月2日,山口県柳井市沖の瀬戸内海 上空を飛行中の全日空大阪行 DCー3型機内で、乗客の大分県玖珠郡九重町の生菓子仲買い人の恵本某(31才)が、便所のなかに ダイナマイトを仕掛けたうえ、飛行機の ドアを開けて飛び降り自殺しました。犯人は新婚旅行中であり、神経衰弱による計画的犯行と断定されました。幸運にも雷管が不発だったため機体爆破はまぬかれたが、死にたければ他人を道連れにせずに、自分一人で勝手に死ぬべきだと思います。

[その、三]
昭和34年(1959年)3月24日のこと、日東航空の徳島発大阪行き不定期水上旅客機 「デ・ハビランド・ビーバー」の機内で、乗客の徳島市住吉本町の元県経済農協勤務の湯浅某(38才)が、機内に ガソリンを撒いて火をつけようとしました。それに気付いた乗客によって阻止され、犯人は放火、殺人未遂などの容疑で逮捕されました。勤務先だった農協で公金を使い込み、ヤケになっての犯行でした。

[その、四]
Akan 北海道の阿寒湖めぐりの遊覧飛行機が アベックを乗せて飛行中に、突然火災になる事故が起きました。昭和41年(1966年)9 月8日午後のこと、北海道川上郡弟子屈(てしかが)町、町営飛行場から飛び立ち、阿寒湖、雄阿寒岳、雌阿寒岳めぐりの遊覧飛行を終えて、飛行場に着陸の態勢にはいった横浜航空の セスナ175型機が、高度約百メートルの上空で、後部座席から突然火を吹きました。

ところが二人の乗客のうち弟子屈町川湯温泉の ホステス嬢(19才)は、高度約四十メートルの上空から機外に落ちて即死しました。連れの男性乗客の小高某(65才)は、同機が炎上しながら着地すると機外に飛び出してそのまま姿を消しました。

ヤケドの重傷を負った今村操縦士によれば、「急に背中が熱くなったのでうしろを振り返ってみると、女の人がドアをあけて飛び降りようとしていたので、左手で女の人を押えながら片手で操縦した。男はガソリンに火をつけていた」と述べました。この証言で小高某が機内で放火し、自殺または女性と無理心中をはかったともみられました。男は同飛行場から六百メートルほど離れた鐺別(とうべつ)川桜橋上流で、死体となっているのを発見されました。

[液体の機内持ち込み禁止]
昨年8月、英国で液体爆発物を使った航空機爆破テロ未遂事件が発覚したことを受け、国際民間航空機関(ICAO)が加盟各国にガイドラインを通知しました。100ミリリットルを超えるあらゆる液体物の客室内への持ち込みは禁止とし、欧米では同様の規制が行われていますが、日本でも、今日(3月1日)から出発するすべての国際線で適用されます。

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2007年2月25日 (日)

嫌な乗客、パート7

金野氏によれば飛行機に乗る楽しみとは、かつては下界の景色を見ることでした。何しろそれまで飛行機に乗ったことのある人など、ほんの一握りの国民でしたから。米軍による占領期間中は日本人が空を飛ぶことを禁止されていましたが、昭和27年(1952年)の講和条約発効と共に航空が再開され、日本人も空を飛べる時代となり、旅客を運ぶ航空会社だけでなく、遊覧飛行をする航空会社も誕生しました。

飛行場で遊覧飛行客が来るのを待つだけでなく、各地で遊覧飛行客を募集し、一定の数になると自衛隊や民間の飛行場を使用して一回二十分から三十分程度の遊覧飛行をしました。また商店街の大売り出しの一等の景品として、遊覧飛行の切符が出されたこともありました。ちなみに敗戦後日本で開発した旅客機 YSー11 の窓の位置が下方にあるのは、下界がよく見えるようにとの親心からでしたが(?)、身長170 センチ 以上の人には窓が低すぎて、水平線が見え難い窓の位置だったそうです。

Wtc1 平成13年(2001年)9月11日に ニューヨーク の WTC ( ワールド・トレード・センター)で起きた自爆 テロ の際には、CNN・ニュース が最初に伝えたことは、飛行機事故が起きたという ニュースでした。その映像を最初に見た金野氏は、奥さんに 「これはおかしい」 と言ったそうです。これまで飛行機が山や建物に衝突した事故の多くは機体の故障か、雲や霧で飛行機の位置が分からなくなったのが原因でした。写真はクリックで拡大。

ところが事故当日の天候は、航空用語で 「 カブ・オウケイ 」 CAV・OK、Ceiling And Visibility  OK ( 雲高、視程が良好 )の状態であり、上空は青空だったので旅客機の パイロット が気でも狂わない限り、 ワールド・トレード・センター ( WTC ) の ビル に、真っ直ぐ衝突するはずがないと思ったからでした。

Laguardia それに マンハッタン から最も近い距離にあり、主に国内線の飛行機が使用する ラ・ガーディア( La Guardia )空港や、遠くにあり 主に国際線用の J F K 、ケネディー空港 の離着陸時の飛行コースから WTC は本来離れていたからです。その後になって、二機目が突っ込み テロ だったことを知りました。写真は ラ・ガーディア空港。

自爆 テロ ではなく飛行機を利用して乗客が自殺したり、あるいは自殺しようとした例が日本にもありました。Atr

昭和40年(1965年)当時、大阪府の八尾空港に縄文航空の飛行訓練所がありましたが、自衛隊から転職した金野氏は、そこで民間機の機長になるための ライセンス( 定期運送用操縦士技能証明書 )を取る為に、飛行訓練を受けたそうです。

写真の下部に 7 4 6 とあるのは、日本で 7 4 6 番目の機長用 ライセンス の意味だと聞きました。ところでその当時、訓練所の職員の中に 顔一面に ヤケド の跡が残る、A 氏が勤務していました。

記録によれば昭和29年(1954年)2月21日、大阪府 中河内郡上空を飛行中の極東航空の大阪 一周遊覧飛行中の 「 オースター・オートカー 」 の機内で、遊覧客の岡山市中島田町の無職 斎藤某(26才)が、 マグネシウム など薬品を使い放火しました。

Auster1 機内は火に包まれましたが、パイロット は燃える飛行機を操縦して、かろうじて田んぼに不時着させました。放火犯人は機内で焼死し、操縦士と機関士が重傷を負いましたが、A 氏はその時の パイロット だったのです。放火犯人は百万円の保険に入ったばかりでしたが、保険金がもらえたかどうか不明です。写真はイギリス製の オースター・オートカー。

2007年2月20日 (火)

嫌な乗客、パート6

Tanima 金野氏から聞いた話によれば、 V I P 用の マイクロバス に関連して別の話もありました。ホンコン空港は ランタオ島に建設した チェック・ラップ・コック 空港が平成10年(1998年)に オープンする迄は、 九龍半島にある カイ・タック (啓徳 ) 空港を使用していました。

カイ・タック 空港に北側から着陸する際には、山があるので計器進入コースと滑走路とが 47 度の交角がありました。そのため低高度で旋回を続けて滑走路に正対するため、いわゆる 「ホンコン・カーブ」 を描き、ビルの谷間を縫うようにして着陸します。

その頃の話ですが、ある時 縄文航空の成田行きの便に、D 韓航空の会長が乗ることになりました。 写真はクリックで拡大。

Okidori 相手の秘書からの事前要求により V I P 待遇をすることになりましたが、ホンコン空港で多かった業界用語でいう 「 沖取り、つまり ターミナルから離れた駐機場に飛行機を駐機 」の場合には、一般乗客と一緒の バス輸送ではなく、特別に マイクロバスを用意せよとの御希望でした。

しかもいつもは鶴丸航空を利用しているのだが、今回は特別に縄文航空を利用してやるとの、ありがたいお言葉を頂戴しました。写真は 沖取りされた飛行機の列。

参考までに、D 韓航空は ホンコンと成田の間を飛ぶ路線を持っていませんでした。

Vip2 会長ご一行三名さまが ターミナルに到着されたので、丁重に空港貴賓室にご案内申し上げましたが、そこで縄文航空の営業係員が搭乗手続きの為に、秘書から手渡された航空券を見ると、なんと呆れたことに縄文航空が特別の相手に配った、ファースト・クラス用の無料優待券でした。

つまり タダで乗る乗客だったのです。それを知らずに ホンコンの空港支所長が会長の所にご挨拶に伺ったところ、あたかも蠅でも追い払うような手振りで、その場から早く立ち去れという態度をしたのだそうです。

後で支所長曰く「 タダの切符で乗せて貰うくせに、何が V I P 扱いをしろだ、成り上がり者のくせに偉そうな態度をしやがって。今度搭乗を申し込みに来たら断ってやるから 」。その後、鶴丸航空に聞いたところでは、「 無料優待券で乗るくせに、いつも偉そうな態度をするので今回は断ったら、お宅に行きましたか?。彼は他の会社でも評判が悪いですねー。」

タダで乗れるものはなんでも利用するというのも一つの考え方ですが、それならそれらしく V I P 待遇をしろはないでしょう。聞くところによれば会長は朝鮮戦争後に裸一貫から事業を起こし、起業家、経営者としては一応成功したものの、育ちの悪さから マナーに反する行為をしても注意されずに成長した為に、礼儀知らずのままで企業の会長の地位にのし上がった人と言われています。あるいは韓国には相手に対する礼儀とか、品格という概念が無いのかも知れませんが、最近の日本も品格とは無縁のようです。

金野氏によれば D 韓航空は昭和37年(1962年)に中古の飛行機を購入して始めた国営航空会社で、昭和44年に民営化されました。昭和40年代~50年代には日本に技術移転を迫る韓国の要望で、毎週金曜日の夜の日本発ソウル行きの便は、日本人の I T 技術者でいつも混雑していたそうです。

彼等は土、日、に韓国人に I T 技術の指導をしては日曜日の夜に帰国しましたが、韓国では戦後に造船、製鉄、電子、自動車産業など全て日本人の技術指導を受けて成長したことなど、韓国の教科書に一字も書いてなく、全て自力で発展させたことにしているので、韓国人はその事実を全く知らずにいます。それについて詳しく知りたい人は ここをクリック

2007年2月11日 (日)

嫌な乗客、パート5

航空会社は水商売であると六月のブログに書きましたが、水商売にとって嫌な客は政治屋(家?)、芸能人、スポーツ選手などです。これらはいずれも日頃から他人にちやほやされる クセ が付いているために、機内でもあたかも特権を持つかの如くに振舞ったり、横柄な態度をする連中が多いからです。本人だけでなくその配偶者まで、そのように振る舞う者がいました。

去年の暮れに縄文航空の金野内蔵氏と、親友である鶴丸航空の 機長 O B でした荒俣(あらまた)落太氏などと六人で忘年会をしましたが、昔話をする中で ある乗客のことが話題になりました。

Ksousaku その女性とは某野球監督の妻で平成 13年に数億円の脱税容疑でお縄になり、懲役 2年、執行猶予 4年、罰金 2,100万円を頂戴した女性でした。それまでは テレビ などで下品な顔をよく出していたので、ご記憶の方も多いかとも思います。写真は警察の家宅捜索を受けた時の 「Sチー」の家、クリックで拡大。

Zaseki767 その出来事は荒俣(あらまた)氏が鶴丸航空の成田発のニューヨーク線を飛んだ時のことでした。ファースト・クラスの ディナー が終了し 機内で映画が始まりましたが、「 S チー」は 座席を大きく リクライニングさせた為に、前に座っていた人の頭で映画が見え難くなくなりました。すると スチュワー「デス」を呼びつけてこう言いました。前の頭が邪魔だからさー、あんたなんとかしなさいよ。

自分が座席の リクライニングの角度を調節すれば済むことなのに、「Sチー」はそれをせずに 「デス」に解決を命じたのでした。前の座席にいた温厚な紳士が 「デス」の苦境を察して、映画が済むまで、ファースト・クラスの空いた座席に移動してくれたのだそうです。「Sチー」は、その行為を至極当然のこととしました。

ところで昭和40年代のこと、羽田空港 ビルの整備以前のため、飛行機に乗り降りするための乗客用の ボーディング・ブリッジ が無く、業界用語で「沖取り」と呼ばれるターミナル前の広い駐機場に止めた飛行機に、ターミナル・ゲートから、徒歩やバスで乗客を輸送する方法をとっていました。

あるとき某大臣の一行が九州に行くために、縄文航空の定期便に乗ってきましたが、大臣は V I P ですから会社もそれなりの接遇をして、ゲートから飛行機まで乗客輸送用の一般のバスではなく、豪華な マイクロバスに大臣一行を乗せて乗客の最後から搭乗してもらいました。

Jingasa その中に九州出身の A という陣笠代議士( ヒラ の国会議員)がいましたが、帰りは大臣と一緒の飛行機ではなく、数日遅れて羽田に帰りました。

陣笠代議士が乗った帰りの便が羽田に到着し沖取りの位置に駐機すると、彼は V I P 待遇を要求し、「一般の バスではなく、往路と同じように専用の マイクロバスを用意しろ」と「デス」に要求しました。

ところで陣笠とは、写真に写る最下級の兵士である足軽(あしがる)が、 「カブト」 の代わりに被る笠のことですが、そこから 政党の幹部に追従する連中のことを、陣笠と言うようになりました。

金野氏が無線で会社に連絡したところ、陣笠代議士は V I P に該当しないので出せないとの答でした。それを 「デス」経由で伝えると陣笠は ヘソ を曲げて、 「マイクロバスが来るまで、俺は飛行機から降りないぞ」と宣言しました。

金野氏も 「デス」も シップ・チェンジ (別の飛行機に乗り換える)をして、札幌行きの最終便に乗務のため降機することになりましたが、この機体は今日はもう使用しないため、交代の クルーは搭乗せず、整備士には陣笠代議士についての事情を説明して、別の飛行機に向かいました。

Tyakan 後日聞いた話によれば 「デス」も乗員もいなくなり、整備士が 「今から飛行機を牽引して夜間駐機場に移動するため、客室の照明を切る」 旨を伝えたところ、さすがの陣笠も諦めて飛行機から降りることにしました。そこで整備士が整備作業用の汚い車で、陣笠を ゲートまで乗せて行ったそうです。

2007年2月 6日 (火)

嫌な乗客、パート4

Passportc 金野氏から聞いた話によれば、以前こういうことがありました。ホンコンで他社の飛行機から縄文航空の成田行きに乗り継いだ外国人が、成田に到着後に パスポートを所持していないというのです。そんなバカなことがあるはずがないと思われますが、実際にあったのです。

パスポートが無いので成田で入国ができずに、縄文航空の責任と費用負担で再びホンコンまで送り返すことになりました。あとで聞いた話によればホンコンでも、もちろん入国できずに、出発地であるマレーシアの首都 クアラ・ルンプールまで マレーシア航空で送り返されました。しかしそこでも入国できずに、結局 クアラ と成田の間を十日間近くも ピンポン 球のように往復し続けたのだそうです。

Malaysia つまりどういう意図か分かりませんが国籍を証明する パスポートを初め、書類を全て機内かあるいは空港の便所やゴミ箱に棄ててしまい、無国籍者を装ったのでした。その男はいつまで経っても、どこの国にも入国できなかった為に、最後はやむなく自分が マレーシア国籍を持つていることを自供したために、マレーシア政府が引き取ったのだそうです。写真はクリックで拡大。

Spoilers_1 ところで古い航空関係者であれば モスクワの シェレメチェボ 空港で起きた鶴丸航空の DCー8 型機による墜落事故をご存知と思いますが、非番の副操縦士をしていた大学の二年後輩の男も、その時に死亡しました。「デス」と職場結婚をして子供が二人いましたが、気の毒なことでした。

この事故は昭和 47 年(1972年 )に起きましたが、離陸直後に副操縦士が車輪を上げるつもりで、着陸時に翼の上に立てる スポイラー( Spoiler、抵抗板)を誤って操作したために失速したといわれていて、六十二名が死亡しました。

操縦室の事故当時の録音によれば
離陸の操縦桿を引きながら、機長の声「やっこらさ」、「ギアー(車輪)アップ」、「おい、それはなんだ」
当番の副操縦士の声、「済みません」

写真は着陸の際に接地直後に翼の揚力を急激に失わせ、車輪のブレーキの効きを良くするための、グラウンド・スポイラーが立った状態ですが、その後の飛行機では手動ではなく自動で立ちます。

Sheremetievo その シェレメチェボ 空港からある時、偽造パスポートを使い日本に出国しようとした男がいました。航空会社のカウンターでのパスポート、ビザの確認には O Kだったものの、出国時の パスポート・コントロールで偽造が発覚して逮捕された事件がありました。写真はその空港。

縄文航空のカウンターで働く アエロフロート・ロシア航空( 旧ソ連航空 )からの出向社員が、旅客の男の態度から怪しいと判断して、預けた バゲッジに目印の赤い布を付けておいたので、その男の荷物を機体後部にある バラ積みの貨物室から、簡単に取り下ろすことができたのだそうです。さすがは元 K G B ( 秘密警察組織 )の国であると金野氏も感心したそうですが、もしかしたらその係員も、元 K G B の職員だったのかも知れません。

2007年2月 1日 (木)

嫌な乗客、パート3

金野氏から聞いた話によれば、ある時成田からロサンゼルス行きの便に乗務のため、出発の1時間半前に出社し、運航管理者とのブリーフィングでいつものように、天候のチェックをし飛行計画を立てましたが、その際に乗客として ディポーティー( Deportee )が乗る旨の連絡を受けました。スチュワー「デス」に対するブリーフィングの際にも確認しましたが、「デス」もその情報をすでに得ていました。

Criminal 日本において何らかの犯罪を犯し、国外強制退去( Deportation )命令を受けた外国人を クリミナル・ディポーティー (Criminal Deportee )と呼びますが、最も多いのは、オーバー・ステイ( Over stay、違法滞在 )や違法就労者が摘発された場合です。金野氏の時は強制退去を命じられて、ロサンゼルスに行くアメリカ人でした。

犯罪者を輸送する場合は一般乗客の搭乗に先立ち、警察官が付き添って機体後部の座席に座りますが、形式犯である違法滞在、違法就労の場合には、機体の入り口ドアの所まで入管職員が付き添ってきて搭乗させます。写真はクリックで拡大。

入管職員の役目はディポーティーの逃亡を防いで確実に飛行機に乗せ、国外に退去させることなので、飛行機の全ての ドアーが閉まるまでは、附近で監視に当たるのだそうです。

Tejou2 ある時金野氏はホンコンから日本人の犯罪容疑者を成田まで運んだそうですが、国外退去を命じられた容疑者(ディポーティー)に手錠を掛けて、ホンコンの警官が飛行機のドアの所まで連行し、そこで手錠を外して、待ち受ける日本警察の捜査員に引き渡しました。

日本の警察は外国では勿論警察権を行使できないので、飛行機が公海上に出てから初めて逮捕状を執行し、手錠を掛ける手続きをとるのだそうです。

日本の警察は俗に「腰縄」といわれるように、手錠に付けた捕縄(ほじょう)を腰に回して結び、犯人の自由を拘束しますが、金野氏が沖縄から米兵の犯罪者を羽田まで輸送したときには、米軍の憲兵が制服姿の兵士に手錠を掛けていて、それを縄ではなく、鎖で腰に固定していたそうです。手錠姿を空港ロビーの乗客に見られるのが恥ずかしいのか、不自由な両手で帽子を持ち手錠を隠していました。

ところで違法滞在や違法就労などによる強制送還の場合の航空運賃は、原則として本人負担ですが、カネ が無ければ政府が立替えて航空会社に支払い、あとで建前上は本人に請求します。

Kekkou テロリストの疑いや麻薬犯罪の前歴がある者などの、好ましからざる人物や、必要な入国ビザを持たない者に対しては、入国審査の際に入国拒否をしてそのまま次の便に載せて送還する場合がありますが、その場合の航空運賃は、その人物を乗せてきた航空会社が負担します。

その理由は法律により搭乗手続きの際には、乗客が有効なパスポートを所持し、相手国への入国に必要なビザの保有確認を、航空会社に義務付けているからです。

Anita 今朝のテレビを見ていたら、青森県住宅供給公社から14億円余りを横領した元同公社職員の チリ人妻で、元売春婦のアニータ・アルバラードが昨夜成田から入国しましたが、入国許可に三時間かかりました。彼女をターゲットにした、テレビ番組の録画撮りに来日したのだそうですが、不正な カネ であることを知りながら 8億円もの大金を貢いでもらい、それを消費した者に対しては 「好ましからざる人物」 として、入国拒否すべきだと思ったのは私だけでしょうか?。

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2007年1月27日 (土)

嫌な乗客、パート 2

Yuki1 平成13年2月のこと北京から成田空港に向かった鶴丸航空の飛行機が、大雪のため成田に着陸できずに関西空港に臨時着陸しました。ところが関西空港では大勢の中国人乗客が、「ろくな食事も水も与えられなかった」、「中国人だけ空港に16時間も足止めされ、他の国籍の乗客はホテルを用意されたが、これは人種差別だ」として騒ぎ、後に中国の新聞によれば1人9万ドル(約1千万円)の補償を求める裁判を起こす計画、との報道が流れました。写真はクリックで拡大。

Overnight ところが鶴丸航空によれば、日本を経由して第三国に向かう トランジット( Transit 、乗り継ぎ )の中国人乗客の中には、その際に日本への密入国を図る者がいるので、不法就労、不法滞在防止の観点から、入管当局により トランジット の際は入国を禁じられていたのです。当日は大雪のため 約1,500人の乗客が空港で一夜を過ごしており、同社は乗客に毛布や 食料、飲み物を提供したとしていました。

そういえば日本における不法滞在( Over Stay )者の数では、中国人と韓国人が毎年一位と二位を争っています。人種差別を口にするのであればそれ以前に、自国民により繰り返される違法行為の結果取られた措置であることを、まず反省すべきであると思います。中国に隣接し中国に返還された ホンコン でさえも、同じ理由から2003年前半までは、中国人の個人観光客に対する ビザ を発給しませんでした。

日本でも中国からの個人観光旅行者に対する ビザ の発給審査を厳重にしていますが、団体観光旅行には個人別の ビザ ではなく グループ・ビザ を発行しています。日本国内での自由行動時間でも、小さいグループごとに団体行動をさせ、ツアーの添乗員はホテルでも夜間に点呼を取り人数を確認し、逃亡者に気を付けているという話を聞きました。

なお日本から強制送還されても ワイロ天国の中国では、当局のしかるべき筋に ワイロを支払うと、正規の パスポート が偽名で入手できたり、あるいは横行する偽造の パスポートで、中国人も韓国人もまた入国するのだそうです。

Cathay 平成17年の7月には香港で キャセイ航空の飛行機の出発が二時間遅れたことがありました。場内 アナウンスで乗客に知らせ、他の乗客は聞いていたにもかかわらず、韓国人の団体37名が「そんなの聞いてない」と主張し、あげくの果ては キャセイ航空に遅延と対応の悪さを理由に賠償を要求し、韓国人の乗客37人が空港 ロビー内で デモ をおこないました。

キャセイ航空は社内規定に従い食事 クーポンを支給しましたが、韓国人は外国航空会社の態度を改めさせるとして、帰国後も法廷で損害賠償を要求すると息巻いていました。 中国人も韓国人も自国の航空会社の国際運送約款を読むべきであり、そこには気象状況やその他やむを得ない原因により、航空会社は運行時間の変更や欠航を行うことがあると書かれていて、その場合原則として航空会社の責任は免除されています。

更にいえば中国や韓国の航空会社はそれほど運航面で遅延や欠航が無く、立派だと思っているのでしょうか?。

Daikan 事実はその逆で大韓航空などは、金野氏が飛んでいた縄文航空よりも十二倍も事故率が高いくせに、それに中国民航(現、中国国際航空)などは共産主義国の常として、事故に関する情報をこれまで一切公表してきませんでした。航空会社ごとの事故率について詳しく知りたい人は、ここをクリック

2007年1月22日 (月)

嫌な乗客、パート1

Baggageclaim 昔の話ですが縄文航空で搭乗前に預けた手荷物が、到着地で受け取ることができずに一時的に行方不明になる、いわゆるロスト・バゲッジ( Lost Baggage )が年間で一千件ありました。一日当たり三個という数字を少ないと見るのか多いと見るのかは、お客の立場からすれば多いと思うでしょうが、繁忙期には国内、海外へ一日十万人を運ぶ実績からすれば、極めて少ない値になります。写真はクリックで拡大。

以前のブログで述べたロンドンのヒースロー空港では、毎日一千個の手荷物が行方不明になるといわれていますから。

Flying_baggage_allowance ところであるとき九州から羽田行きの縄文航空の便に搭乗した、一人の乗客の手荷物が行方不明になりました。当時は未だ手荷物の取り扱いがコンピュータ化されていなかったため、探すのに時間が掛かり一週間経っても見つかりませんでした。係員が念のため荷物の中身を聞いたところ、貴重品が入っているとのことでした。

五十万円以上はする貴重品だというので、運送約款ではそういう場合には事前の申し出が必要であり、その貴重品の申し出価格に応じた保険料を支払わなければならないことを説明しました。すると相手は怒り出して説明が面倒だから五十万円と言ったが、実際は金には換えられない親の形見の品だ、どう補償するつもりだ、カネで誠意を見せろ、五十万円出せと詰め寄りました。

Rfid ところが会社にとって幸運にも貴重品が入っていた手荷物が、タグ(荷札)がとれた状態で、ある空港の荷物置き場で発見されました。中身を確認したところ、五十万円に相当する親の形見の品らしきものは何も無く、出張時に使用したらしい多くの汚れた下着や靴下と、洗面道具だけだったそうです。

写真は近年使用されている RFID ( Radio Frequency Identification 、無線周波数による識別機能付き紙製 ) タグ です。クリックで拡大。

手荷物を確認のため空港に来て欲しいというと、忙しくて行けないから自宅に送れという返事でしたが、本人の手荷物かどうか確認できないので送れません。最寄の警察署に送るので、遺失物として警察官の立会いの下に確認をお願いしますというと、「荷物はそっちで勝手に処分しろ」ということになりました。会社の弱みに付け込んで五十万円を要求し、一儲けをたくらんだ、四十男の望みが消えて無くなりました。

2006年11月27日 (月)

昔の機内サービス

Kinaisando かつては国内線の普通席でも食事時間帯に飛ぶと、サンドイッチや寿司などの軽食のサービスがあり、それ以外の時間帯でも飲み物サービスの際に、クッキーや小さいケーキなどが入った小箱を提供したものでした。しかし今では軽食サービスだけはあるものの、質を落としたものに代わりました。写真はクリックで拡大。

その当時は乗客が搭乗すると必ず「おしぼり」のサービスがありましたが、経費節減のあおりで週刊誌や新聞のサービスと共に廃止されてしまいました。新聞についても当時各地の空港から朝出発する初便の飛行機には、日経新聞や三大全国紙を搭載して、乗客のサービスにあてていました。

Shinbun ビジネス客が特に多い東京、大阪線では初便に大量の新聞を登載していましたが、大阪のサラリーマンの中には売店で新聞を決して買わずに、機内に用意した新聞を一人で二部も三部も取って座席で読むサラリーマンが必ずいました。それも一人や二人ではありませんでした。一人が多くの部数を取って行けば、後から乗る人には新聞が不足するのが当たり前ですが、大阪人に多い 自分さえ良ければ、他人のことはどうでもよい とする公衆道徳(?)の欠如と、何事につけても「シマツ(節約)する」という厳しい金銭哲学の結果でした。

井原西鶴が「世間胸算用」の中で、「金銀は商人の氏(うじ)、素性(すじょう)、商人のカネ無いのんは、首無いのんと一緒や」と書きましたが、大阪人 には江戸時代から現代に至るまで、その D N A が受け継がれているのでしょう。

飛行機とは関係がありませんが、毎年「ヒッタクリ」や車の「ひき逃げ」件数が全国一位という汚名を持つのと、無関係では無さそうです。

Keshouhin 大阪のことだけを書くのは不公平なので、ついでに名古屋の乗客のことも書きますと、ここも問題の多い土地柄でした。以前は機内のトイレに「ヘアー・トニック」や「ローション」などの整髪、化粧用の瓶を置いていましたが、名古屋空港に離発着するとそれがきまって盗まれました。トイレを使う乗客が瓶ごと持って行くのです。そこで盗難防止の為に瓶の蓋を外したものを置くことにしましたが、瓶を傾ければ中身がこぼれるので盗まれないと思ったからでした。

ところがそれでも盗んで行くのです。一説によると出張の際にサラリーマンが予め「ビニール・テープ」を用意して搭乗し、瓶のフタ代わりにビニール・テープを口に巻いて持ち出すのだそうです。会社もこれにはお手上げで、とうとう国内線での整髪、化粧品の搭載を止めにしました。

また名古屋の乗客は「ゴネル」のが多いのでも有名でした。飛行機の到着が遅れるとタクシー代を出せとか、商談に遅れた、入札に遅れたなどと 言いがかりを付けては、カネを「せびろう」とする連中がいました。東京と大阪の経済圏に挟まれて生活し、商売する土地柄から、それなりの「キビシサ」が自然に身に付いたのかも知れません。

2006年11月22日 (水)

行くと損する空港

B4cockpit1 民間航空機が雲や吹雪の中、暗闇でも安全に飛ぶ為には、計器を見て飛行機の姿勢や位置を判断して飛ぶ、計器飛行方式で飛行します。その際には天候の悪化により目的地に着陸できない場合に備えて、飛行計画には必ず代わりの空港(代替空港)を選定し、目的地からそこに行く分の燃料も積まなければなりません。 写真は B-747-400型機の コックピット、クリックで拡大。



Seatac ある冬のこと金野氏は北米 アラスカ州にある Off Line の アンカレージ 空港を経由して、メキシコとの国境に近い アリゾナ州南部にある ツーソン( Tucson )に飛びましたが、その際には アンカレージ に最も近い フェアバンクス 空港が、吹雪のために代替空港の選定条件を満たしませんでした。

そこで南南東に三時間の距離にある、 太平洋岸のワシントン州、 シアトル にある シータック( Sea-Tac、シアトル・タコマ)空港を代替空港に選んで出発しました。シアトルは例の イチロウが所属する マリナーズの本拠地があるところで、航空機 メーカーである ボーイング社の大きな組み立て工場があります。
成田から アンカレージまで約七時間、そこから シアトルまで三時間の合計十時間分の燃料を積んで出発しました。写真は シータック 空港の道路側から見た ターミナルビル。

その当時 ホンコンに行く場合には、すぐ近くの中国領土内に「広州空港」があるにもかかわらず、外国機はそこを代替空港に選ばずに、一時間かかる台湾の タイペイ(台北)か、南にある高雄、あるいは一時間半かかる マニラ を代替空港に選んでいました。なぜでしょうか?。それには理由がありました。

あるとき ホンコンの天候が悪化し着陸できない状態が続いた際に、殆どの飛行機は着陸を諦めて前述した台北、高雄、マニラなどの代替空港に向かいました。しかし、ホンコンを主基地とするキャセイ航空のある機長が、従来からのタブーを破り広州空港に向かい、十五分後に無事に着陸しました。

しかしそれからが大変でした。飛行場の片隅に駐機させられたままで、誰も車で連絡に来る者もなく放置されたままでした。管制塔との交信で燃料補給を依頼したところ、空港従業員の食事時間だから終了するまで待てといわれたきりで、地上の サービスは全く受けられませんでした。当時の中国では11時半になると昼食の休みが始まり、規則の上では一時間の休みでしたが、皆で休めば怖くないので、二時間休むのが共産主義社会の労働者にとっては当たり前でした。

キャセイの飛行機は昼休み終了まで二時間も待たされ、その後も燃料搭載の手配や代金の支払方法のことで モメ て、結局着陸してから四時間後にようやく ホンコンに向けて離陸できました。「タブー」を破るとどうなるのか、それを身をもって体験しようとした パイロット のせいで、昼食時間を挟んで四時間もの間 空腹を抱え水一杯も飲めなかった乗客たちは、機内でぐったりしていたそうです。

Hongkong 一方高雄に向かった他機の パイロットは、着陸後 燃料や飲料水、飲み物、軽食の補給をスムースに受けて、天候が回復した ホンコンに、三時間後に戻ることができましたが、メデタシ、メデタシ。

ここで得た教訓とは、「誰もがやらないことを敢えてすると、困難な事態に直面する」。ということでした。代替空港の広州に行ったパイロットの体験は、ホンコン線を運航する航空会社の間で国際的に有名になりました。写真はホンコン島北側の高層ビル群で、対岸は九龍半島。

2006年11月19日 (日)

フィリピンの巻

ある時 前日にホンコンに宿泊し、翌日はチャーター便の運航でマニラまでは客を乗せずに空身で行き、マニラからは セブ島まで戦没兵士を慰霊する団体を運び、セブ島から別の団体を東京まで運ぶ スケジュールがつきました。

Manilaintl マニラ の空港は今では暗殺された政治家の ニノイ・アキノ (後に夫人が アキノ大統領になる)の名前をとって ニノイ・アキノ 国際空港と呼ばれていますが、当時は ターミナル・ビル もお粗末で、中国の北京空港同様に従業員による盗難が多いので有名でした。そのため航空会社では飛行機の二箇所の出入り口 ドアの所に、それぞれ ガードマン を配置することにしていました。

マニラ到着後 「デス」も二名を残して空港内の免税店に買い物に行き、金野氏も操縦室の クルーと一緒に飛行計画を提出に行き、出発まで時間があったので、出発  ロビー内で コーヒーを飲んで休憩しました。

その後飛行機に戻ると パーサーがかんかんに怒っていましたが、理由を聞くと機内 サービス用の ウイスキーが、二本も盗まれたとのことでした。マニラ到着時に確認しているのに数が足らないのは、ガードマンが盗んだのに違いないとのことでした。ガードマンは知らないの一点張りなので、地上での ハンドリング( Handling、取り扱い)を担当する フィリピン航空の係員に連絡し、盗まれた分の ウイスキーを補充して出発しました。

あとで聞くと犯人はやはり二人の ガードマンで、掃除夫と グルになり ウイスキーを機内から盗んで、掃除夫が目立たぬ様に機外に持ち出したのだそうです。ガードマンが盗みを働くとは、油断も隙もあったものではありませんでした。

Lapulapu2 セブ島の名前をご存じの方は少ないと思いますが、南米大陸の最南端とその南にある フエゴ 島の間にある、マゼラン海峡を1520年に発見した、ポルトガル人の航海者マゼランの名前を聞いたことがあると思います。その マゼラン がその後太平洋を西に向けて百日近く島を見ずに航海を続け、地球を三分の二周してセブ島に来たところで、セブ島(正確には隣接する マクタン島)における原住民との戦闘で、酋長の ラプラプに殺害された所です。写真はラプラプの像、クリックで拡大。

Mactanap セブ島は フィリピンの マニラから一時間半ほど南に飛んだところにある、さつまいもの形をした島ですが、空港は山の多い セブ島には無くて、東側に隣接する平らな マクタン島にあり、セブ島とは橋でつながっています。空港は セブの独立を マゼランの侵略から守った酋長の名前をとって、ラプラプ空港という名前でしたが、その後 マクタン・セブ空港に変わりました。実はここでも燃料補給に トラブルが起きました。写真はマクタン・セブ空港

On Line の空港であれば飛行機の給油は何の心配もなく、駐在社員 (派遣社員)が地上ハンドリング契約のある会社に連絡し、給油の手続きをしてくれますが、Off Line の空港では連絡 ミスなどから簡単にいかない場合があります。そういう場合に備えて機体には シェル石油が発行し、世界中の空港で飛行機の燃料補給の際に通用する、シェルのクレジットカード( Shell Fuel Card )を積んでいて、必要な場合にはその カードを業者に見せれば好きなだけ燃料を搭載できるはずでした。ところが マクタン空港の燃料業者は、クレジット・カード による決済を受け入れずに、現金での支払いを求めてきました。

機内に 三千 ドルもの現金を事前に用意しているはずがなく、フィリッピン航空の現地係員に一時借用を頼んでも ダメなので、セブ島から東京へ四時間半で直行する帰国予定を変更して マニラに戻り、そこで燃料補給の上東京に向かうことにしました。Off Line での チャーター便の運航は予期せぬことが起きますが、普段行けない所にも行けるので面白いこともありました。その後 セブ島には泊まりがけで、一度だけ行く機会がありました。

2006年11月14日 (火)

チャーター便の運航

金野氏から話を聞きました。

会社が運航する路線の空港を On Line 空港といいますが、その空港に着陸すれば会社の整備士、運航管理係、あるいは委託を受けた他社の整備士や運航管理の係員がいて、機体の点検や燃料補給、飛行計画などの作成、提出業務を代行してくれるので、乗員にとっては気楽なものです。

7271 ところで会社の飛行機が日常飛ばない、つまり路線がない空港のことを Off Line 空港といいますが、チャーター便などでそこに行く場合には予期せぬことが起きます。昭和五十年(1975年)頃のこと金野氏は名古屋からソ連(当時)のハバロフスクに、シベリア抑留中に死亡した遺族の墓参団 のチャーターで行くことになりました。写真はクリックで拡大。

名古屋からハバロフスクまでは2時間30分ほどの距離なので、B-727型機でもハバロフスクで燃料を補給しなくても帰りの目的地新潟空港まで往復できます。時差は夏時間がある場合は二時間ですが、通常は一時間早くなります。管制方式がメートル単位のこと以外に特に難しいこともなく、無事に目的地に到着しました。ところが当時はペレストロイカ(1980年代後半からはじまった政治体制の改革運動)以前のため、ソ連の社会には現在の中国社会同様に、汚職や腐敗がはびこっていました。

Habaro 出発に際して思わぬトラブルが起きましたが、空港当局の係官がいうには、日本から来た飛行機は帰りの燃料を積むことになっている。だから燃料を積んで帰れということでした。積め、積む必要が無いの押し問答をしましたが、これでは燃料の押し売りと同じです。
写真はハバロフスクの空港。

念のために燃料の値段を聞くと国際相場の二倍であり、しかも代金を米ドルの現金で支払うように要求してきました。そこでようやく頭の働きがにぶい金野氏も、彼等が無理難題を吹きかけて、カネをせびろうとしていることに気が付いたそうです。そのため単刀直入に How  much money do you want?.  というと、相手はそれまでの厳めしい態度をガラリと変えて、指を五本出しました。五百 ドルの意味でした。

英語には  Under the table  (内密の取引)という言葉がありますが、金野氏が五百 ドルなど高すぎるので、 ニエット (ノー)と拒否しました。すると相手は次に三本の指を出しました。三百 ドル のことですがその当時の為替相場は一ドル三百円でしたので、九万円になります。

こんな相手に九万円を ワイロ として呉れてやるのはしゃくなので、金野氏が指を二本出すと相手が O K しました。日本円に直すと六万円になり、高すぎる金額ではありませんが、ソ連の労働者階級にとっては半年か一年分の給料に相当します。飛行機の出発が遅れるので、添乗していた営業係員から米 ドルの二百 ドルを借りて支払うと、飛行機に対する管制承認とは別の、出国の許可( Clearance )がすぐに出ました。その代金は帰国後に営業係員に返済し、後に会社に請求しました。

Stocking1 その当時のソ連国内では消費物資の不足が甚だしく、若い女性に ストッキング は非常に喜ばれましたが、墓参団の中には四百円の ストッキング を、わざわざ何足も買って持参した人がいたそうです。何のために?。

2006年11月 9日 (木)

機内での賭博

金野氏から聞いた話によれば、その昔国際線の機内で、サイコロ 賭博を開帳した連中がいたそうな。

成田から北京行きのコースは福岡上空から五島列島の福江島を通り、航空路の A-593 で上海に行き、そこから北上するルートでした。しかし現在では韓国の上空を経由する、近道のルートに変わりました。

Meshi2 成田を十時に出発した飛行機の機内では、一時間後から食事前のアルコール類のサービスを開始し、続いて昼食の ミール・サービスを始めました。福江と上海を結ぶ航空路には日本と韓国、中国の航空交通管制区が入り組んでいますが、更に面倒なことに日本や韓国では、高度の単位に欧米諸国並みに フィート(尺、)単位を使用しますが、中国では ロシアや、東欧諸国と同様に、メートル単位を使用して航空管制をしています。

つまり日本から中国に行く場合には使用する高度の単位が異なるため、航空交通管制区域の境界を通過する時点で、高度の上昇、あるいは降下が必ず必要になります。その地域は当時中国の管制 レーダーの圏外のために、頻繁に位置通報をする必要がありました。その最も忙しい時に、エコノミー・クラスを担当する 「パーサー」 から インターフォンで連絡があり、乗客が 「バクチ」 を始めたらしいと言ってきました。

Saikoro 公海上を飛行していていても、日本国籍の機内では日本の法律が適用されるので、直ぐに賭博を止めさせるようにと指示しました。ところが パーサー が注意をしても止めないとのことなので、様子を聞くと、どうやら暴力団の一味らしく、「盆ゴザ」や 「サイコロ」を機内に持ち込んで、 R-3(右側の前から三番目)の ドアの空間のところで 賭場を開帳して、万円札が飛び交っている様子でした。

忙しくない場所を飛行中であれば、機内の規律保持に責任を持つ機長として相手に「舐めるられてたまるか」と、金野氏が早速現場に出向き、機長権限で賭博を 止めさせようと思いましたが、この空域では過去に何度も中国側の管制 ミスから、飛行機同士のニアー・ミス(異常接近)があったため、他機への見張りに十分注意する必要があり、操縦席を離れて客室に出向くのを止めにしました。そこで チーフ・パーサを操縦席に呼び、暴力団の一番偉そうな奴に、機長からの伝言を伝えるように命じました。

Kousoku 飛行機は現在中国の領空を飛行しています。従って中国の法律が適用されます。聞くところによると、共産主義の中国では賭博は重罪であり、死刑もあり得るそうです。今直ぐに賭博を中止しなければ、飛行機は間もなく上海上空なので、直ちに上海に緊急着陸をして中国の空港警察に、貴方がたを賭博の犯人として引き渡します。

チーフ・パーサーから機長の伝言を聞いた連中は、中国の警察に身柄を引き渡されたくなかったのでしょう。すぐに賭博を止めました。

北京に到着後本社の営業に連絡したところ、女性一人を含めた八人の グループでツアーに入り、四日後にホンコンから帰国する スケジュールであることが判明しました。帰り便の機長に情報を伝えることにすると共に、機内での賭博を開帳させないように、ホンコン出国時の手荷物検査を厳重にするよう依頼することにしました。ホンコンからの帰国便の機内では、彼等は賭博をしなかったとのことで、一件落着しました。

2006年11月 5日 (日)

立ったままの乗客

Hatsukari1 昭和35年(1960年)頃のこと、当時東北本線を走る寝台急行は何本かあったものの、一日に一本しか無い昼間の特急列車、上野発青森行きの「はつかり」に乗る人には、「立ち席特急券」を発売していました。全席座席指定の特急列車で空席がある場合には座ってもよいが、その席の指定券を持つ人が来れば席を譲り、立ったままという条件でした。コンピュータが無かった時代に、座席管理能力の不足を補う為に産み出された方法でした。写真はクリックで拡大。

F271 金野氏が民間航空で機長になったのは昭和43年(1968年)のことでしたが、「デス」が一人乗りの F-27、フレンドシップ 四十人乗りのターボ・プロップ機でした。ターボ・プロップというのはジェット・エンジンの回転で、プロペラを回転させて推進力を得る飛行機のことですが、ジェット機との違いの一つは客席における騒音の大きさでした。写真は他社の機体

ターボ・プロップ機ではプロペラが風を切る音や、ジェット・エンジンの高速回転を減速歯車により減速してプロペラを回す為に、「キーン」という減速歯車による周波数の高い騒音がしました。そのため、ターボ・プロップ機を含めて国際線を飛ぶプロペラ機では、ファーストクラスの座席は騒音の少ない最後部にありましたが、ジェット機になるとエンジン音が静かな最前方に移りました。

ところである時金野氏が満席の乗客を乗せて、大阪から鹿児島へ行く為にゲートから滑走路に向かって地上滑走をしていると、「デス」から「座る座席が無い乗客が一人いて、立ったままでいる」という連絡がありました。このままでは離陸できないので、金野氏はゲートに引き返すことにしました。その乗客によると空席待ちをしていましたが、ゲートの係員から空席があるので乗るようにいわれたとのことでした。

その当時は航空業界も未だコンピュータが導入されてなく、搭乗の際にはゲート係員が搭乗整理券( Boarding Pass )の半券をちぎり、その枚数を数えて乗客数を確認していました。係員の数え間違いにより、定員よりも一名多い乗客を乗せてしまったのでした。

昔ソ連にアエロフロートという国営航空会社がありましたが、共産主義、社会主義国の根本的欠陥であるサービス精神の欠如で有名でした。飛行機の出発が何時間遅れても乗客には一切説明せず、「乗せてやるから有りがたく思え」という態度でした。ソ連が崩壊した結果、アエロフロート・ソ連航空から、アエロフロート・ロシア航空に変わりましたが、現在では多数の航空会社に分割された結果、その中の一つとしてモスクワに拠点を持ち、国際線や国際線を運航する会社の一つになりました。

Toilet その当時日本のある新聞のモスクワ支局の記者が、地方に出張した時のことでした。彼は国内線の飛行機に乗り、前の方の座席に座りましたが、飛行中にトイレに行きたくなりました。通路の後方にはトイレを待つ人の列ができていましたが、いつまで経っても列が進まないので、不思議に思い並んでいた人に尋ねたところ、それはトイレ行列ではなく、座る座席の無い乗客でした。

つまり飛行機に「立ったままの乗客」を、数多く乗せていたのでした。不時着などの緊急事態には、どうするつもりだったのでしょうか?。絵はクリックで拡大、便座に座った女性が体を少し右に傾けているあたり、イカニモ ? という感じがしますし、列の真ん中の女性がやや前かがみになっているのは、我慢している様子がうかがわれます。

Seatbelt 中国には国営の、中国民航( CAAC、 Civil Aviation Administration of China )という巨大公司(こんす、会社)がありましたが、改革開放以後に九社に分割されて今では小型化されました。ある友人がその国際線に乗った時のこと、座席ベルト が壊れていて締まらないので「デス」に言うと、「ベルトの金具を使わずに縛れ 」といわれたそうです。周囲には座席ベルトが壊れた席がいくつもあり、中国人の乗客達はごく当たり前の様に ベルト を体の前で結わえていました。しかし結わけばいざという場合に、解くのに時間が掛かるので不安になりましたが、やむなくベルトで体を縛ったとのことでした。

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2006年10月30日 (月)

観音様になったデス

Tate 神戸市の北側には六甲山(標高931 m )系がありますが、毎年今頃の季節になると、明石近くの須磨浦から宝塚までの山道を尾根伝いに走破する六甲全山縦走大会がおこなわれ、多くの山男、山女が参加します。朝五時に須磨浦を出発し、九つの峰を越えるため、登り下りする高度差は実に、二千メートルにもなります。

しかもチェック・ポイントを規定時間内に通過しないと失格になるので、五十六 キロ の山道を通常 十二時間から 十五時間で歩き、最終の宝塚に降りる山道では暗くなるために、ヘッドランプ を点灯して木の根、岩を踏みながら歩きます。関西の登山愛好者の間ではこの大会を完走して、初めて一人前の山男、山女であると認められますが、写真は完走者に与えられる盾で金野氏が貰ったものです。クリックで拡大。

Umanose ある時、金野氏は友人に勧められて参加することにしましたが、その為には事前の トレーニングや コースの習熟が必要です。コースを前半と後半に分けて一人で何度も歩きましたが、後半を歩く際に コースの途中にある凌雲( りょううん )台への登り口の手前に、観音像があるのに気が付きました。(写真は前半のコースにある、「馬の背」の難所)

説明板にはみよし観音と書いてあり、飛行機事故で殉職したある 「デス」の、慰霊の為に建てられたものであることを知りました。よく調べてみると、

昭和 39年(1964年 )2月18日のこと、日東航空の大阪国際空港発徳島行きの マラ-ド 水陸両用飛行機が、離陸直後に エンジン故障により尼崎市の田能遺跡に墜落しました。その際に スチュワー「デス」の麻畠美代子さんが 七名の乗客を助け一度は機外に脱出したものの、一名の乗客が機内に取り残されていることに気付き、救助するために機内に入った直後に漏れた燃料に引火して機体が爆発し、乗客一名と共に殉職したものでした。

Miyoshi その後、若くして殉職した彼女を讚えるために観音像が建立されましたが、像は右手を大空に差しのべています。建立当時、女優の吉永小百合さんらが「みよし観音賛歌」を寄せ、建立15周年には観音像の側に、「みよし観音賛歌」の歌碑を建立しました。毎年8月1日に大空のまもり祈年祭が行われているそうです。石原慎太郎の詞も添えられていますが、森繁久弥の詩、ホタルの天使を偲んでも石に刻まれています。

 あな おごそかな み顔こそ/君 ありし日の 面ならん/蛍よ舞えよ そのもとに/
  六甲の峰 煙るとも/

乗客の命を救う為に身の危険をも顧みず、機内に飛び込んだ 「デス」の行為は大きく賞賛されるべきものですが、気になるのはその間に、当該機の機長や副操縦士は何をしていたのでしょうか?。正確な文言は忘れましたが、当時の航空法には危難の場合の措置として、「機長は乗客の救助に必要な手段を尽くし、機内に在る者を去らせた後でなければ、自己の指揮する飛行機を去ってはならない」とする条文があったように記憶しています。

これは当時の船員法にあった、船長の最後退船義務と同じで、船内に逃げ遅れた者や閉じこめられた者がいた場合には、船長は船橋(ブリッジ)に留まり、沈み行く船と運命を共にせざるを得ませんでした。

この条文があったが故に戦時中はもちろんのこと、戦後も遭難した大型船で何人もの船長が、救助されるのを拒否して殉職しましたが、条文の非人道性を指摘されて、昭和40年代に船員法、航空法の条文が改訂されました。

まさか、どこかの航空会社のパイロットや「デス」みたいに、オーバーラン事故の際に、乗客よりも先に機体から脱出したのではないことを信じております---が。

2006年10月25日 (水)

殉職したデス

金野氏から聞いた話

親友である鶴丸航空 O B の荒俣(あらまた)落太氏から電話がありましたが、それによると元「デス」の中でアメリカで離婚し、その後もアメリカに住んでいましたが、病気( エイズ ?)になり、日本に帰国した例があったとのことでした。「国際結婚とデス」のブログに書いた B.A. ターミナルで働いていた女性と、あるいは同じ人だったのかも知れません。

ところで 「デス」の殉職といえば飛行機事故だけでなく、北米ワシントン D C の ダレス空港で、縄文航空の「デス」が出発間際の飛行機から地上に転落して、殉職するという痛ましい事故が二十年近く前にありました。

Dulles ダレス 空港では空港の中央に ミッド・フィールド・ターミナル ( Mid field Terminal ) がありますが、そこにはジャンボ・ジェット機の客室床面と同じ高さまで上昇可能な床を備えた モービル・ラウンジ と呼ばれる大型バス に乗り移動します。かつては モービル・ラウンジ を使用して駐機場の飛行機に直接乗り降りしていましたが、時間が掛かるので現在では利用されなくなってしまいました。写真はクリックで拡大。

ある時、日本への出発準備を完了し全ての ドアーを閉めた後で、飛び込み搭乗をした乗客用の食事を追加搭載する必要に迫られました。その為に普段は開けない ジャンボ・ジェット 機の L-5 (最後部の左側 ドアを開けて、そこから搭載することになりました。

B747dal その ドア を緊急時以外に手動で開けるには、機内と機外の連携 プレイが必要で、機内の レバーを動かして ロックを外し、外に押し出すと共に機外の人が外側に引き ドアを一杯に開けるのです。事故はその際に起きました。デスが手を離さない内に ドアを外側に開いたので、「デス」が バランスを失い機外に転落してしまいました。運悪く タラップ車と機体の隙間から 三メートル下の地上に落ちて、頭を強打してしまいました。写真の赤矢印のドアから。

すぐに救急車で病院に運びましたが、ここからが問題でした。彼女は独身でしたので重大な手術を受けるには、親の同意書が必要だと病院が主張したのでした。それから真夜中の日本に国際電話をかけ、親に事故の状況を説明し、頭部の手術をすることに親の同意を得てその旨を病院に連絡しましたが、口頭による同意に病院側が難色を示しました。

医療裁判が多発する米国では、裁判で証拠となる文書が欲しかったのでした。結局 ダレス空港駐在の縄文航空の責任者が、患者に対して全責任を負うことを文書にして決着し、頭部の手術がおこなわれましたが、脳挫傷により 「デス」は死亡しました。気の毒なことでした。

ちなみに アメリカの医療費は極めて高額で、一例を挙げると盲腸の手術の相場は入院僅か 一日で 200万円以上であり、患者は皆、手術で痛む腹を押さえながら翌日退院するのだそうです。その後は自宅や近くのホテルに泊まり、傷の手当て、抜糸に通院するのが普通です。

アメリカの医師は医療 ミス で患者から訴えられる事態に備えて、医療賠償保険に加入していますが、その為に医師が支払う保険料は平均で年間、二千万円にもなるのだそうです。だからその分、医療費が高くなるのです。

救急車で病院に運ばれた人に最初に聞くことは、「どのようにして医療費を払うのか?( 医療保険に対する加入の有無と、その種類 )」であり、支払い能力がない患者への診察(どこが悪いのかの診断)はするが、その患者への治療を拒否する権利が、法律上認められているのだそうです。

2006年10月21日 (土)

国際結婚とデス

  金野氏から聞いた話。
金野氏の出身高校は栃木県、栃木市にある栃木高校だそうですが、地元では「栃高」のことを「とちこう」ではなく、「とちたか」と呼ぶそうです。「とちこう」と言うと「栃工」、つまり栃木工業高校のことを指すとのことでした。ある時「とちたか」のクラス会に出席すると、クラスメートの山口君(仮名)から娘が縄文航空のスチュワー「デス」になって、成田に勤務しているので宜しくといわれました。

「デス」といっても社内には二千人もいるので、同じ「デス」と同じ便に乗ることなど滅多にありません。ところが半年後のある日、成田からの国際線乗務で山口君の娘と一緒に飛ぶことになりました。「デス」の機内配置表に山口という名前があったので、試しに父親が栃木県の出身かどうか尋ねたところ、偶然にもクラスメートの山口君であり、彼女はその娘であることが判明しました。

それから十年以上過ぎたある日、金野氏の所に山口君から電話があり、高校時代の「担任だった恩師をかこむ会」をするからという連絡でした。その際に「デス」をしていた娘さんのことを聞くと、アメリカ人と結婚してアメリカに住んでいて、子供が三人いるとのことでした。

「デス」の仕事柄外国人と接する機会が多く、中には海外の宿泊ホテルに着くと直ぐに男が車で迎えに来て、外泊する「デス」もいると聞いていましたが、大人である「デス」の勤務時間外の行動について、他人がとやかく言う筋合いのものではありません。

Greenc ところで日本人の国際結婚については日本人同士に比べて、離婚率がかなり高いという統計があります。民族、文化、宗教、生活習慣、考え方の違いから、約五十パーセントが離婚するといわれていますが、離婚してもアメリカの場合にはグリーン・カード(永住許可証)が有効なので 、働くことも可能です。写真はグリーン・カードで、クリックで拡大。

二重国籍を認めるイギリス人と結婚した日本人女性の場合には、九十五パーセントが日本国籍を保有し続け、万一の離婚に備えているともいわれています。日本人女性は外国人と結婚した場合に、あたかも本籍を変更する如く、直ぐに国籍の変更をし勝ちですが、結婚と国籍とは全く無関係です。一般にいわれることは、二、三十年その国に住んでみてからでも、国籍変更は遅くはないのだそうです。

日本人と結婚して日本に住む外国人では外国籍の者が大勢いますが、その理由は離婚後に母国に帰る事態に備える為だそうです。定住外国人にとって外国籍のままで日本に住むことの不便さは、選挙権が無いこと、運転免許証の大きさの外国人登録証明カードの、携帯義務があることだけで、国民年金も、健康保険も日本人の場合と同じです。

しかし哀れなのは「冬のソナタ」以後に始まった韓流ブームに乗って、韓国人と結婚し韓国に住む元 「デス」 の場合です。正式に結婚していれば定住外国人として韓国の定住権だけは与えられますが、祖国で法律上「三等韓国人」の処遇を受ける在日韓国人と同様に、「就労権 ( 就労 ビザ )」が与えられずに、健康保険も万一の場合の生活保護も受けられないのです。

もし夫が病気で働けなくなった場合には、「就労権」 を持たない日本人妻が働いて収入を得ることができないのです。ひそかに日系企業などで働けば、韓国人社会に 「はびこる」 密告制度により 、「不法就労」 の罪で警察に逮捕され、最悪の場合強制送還されることになります。

では日本国籍を離脱し、韓国籍を取得した後で離婚した場合にはどうなるのでしょうか?。日本に帰っても韓国人と同じ扱いとなり、入管に居住申請を何年も繰り返すことになります。自らの意志で離脱した日本国籍の再取得は、非常に困難です。   

_uabaterm ところで縄文航空が ニューヨークの ケネディー空港で使用する ターミナル は、「ターミナル 7」 ですが、一般には B.A. ターミナル ともいわれます。これは B A( British Airways )が資金を出して建設したもので、ユナイテッド 航空を初め店子の航空会社は家主である B A に家賃を払っています。写真は道路側から見た B.A. ターミナル 、クリックで拡大。

あるとき金野氏はそこで新顔の現地採用の日本人女性を目にしましたが、事情を知る者によれば、以前鶴丸航空の 「デス」 をしていましたが、アメリカ人と結婚渡米後に、わずか半年で離婚したのだそうです。ケネディー空港における鶴丸航空の使用  ターミナルは、「ターミナル1」 ですが、かつて仲間だった 「デス」 に顔を見られたくないので、鶴丸のターミナルで働くことができずに、縄文航空で働くことになったのだそうです。

Tenraku 離婚後も永住許可証は有効だし、ゲートで搭乗開始のアナウンスなどの慣れた仕事をしながら、別な男でもアメリカで見つけるつもりだったのしょうか?。しかし ウワサ によると彼女の髪形や容貌などの変化から、短い間に生活がすさんでいったらしく、この ターミナルからやがて姿を消しました。

金野氏によれば日本から来た ホームステイ や、簡単に入学したものの単位が取れずに、大学を卒業できずにいる 「遊」 学生などの若い女性が、異国の地で転落の軌跡をたどるのを、これまでも多く見聞きしてきたのだそうです。

2006年10月17日 (火)

エンジンの数

Shataikoukoku 東京に三泊して昨夜大阪に帰りましたが、半年ぶりに東京に行くと、 J R 山手線や中央線などの車体の外側に、大きな広告が描かれ(貼り付けられ?)ているのに気が付きました。大阪ではバスやモノレールの車体に宣伝広告があるのを見たことがありましたが、JR東日本ほどの大規模な広告をみるのは初めてでした。

ところで大阪空港では今年の春からジャンボ・ジェット( B-747型機)の運航が禁止された為に、乗り入れる飛行機は全て双発機にとって替わりましたが、今回の東京行きでは ボーイング・トリプルセブン と呼ばれる 777-200型機(415席)に乗り、帰りは 777-300型機(524席)で帰りました。

ジャンボ・ジェットのように エンジン が四つある機体と、トリプルセブン や ボーイング767 型機などの、エンジン が二つしかない機体の安全性を比較すれば、単純にいえば、エンジンの数が多い方がより安全なような気がします。四発のうち一つの エンジン が故障しても二十五 パーセントの出力が失われるだけですが、双発機で一つの エンジンが故障すれば、五十パーセントの出力を失うことになります。

その為にアメリカの連邦航空規則( F A R )では双発機の運航には特別の規制として、イートップス、ETOPS( Extended Twine Engine Operated Procedures Routes 、双発機による長距離運航基準)の適用ルートを設けていて、飛行中に エンジン 故障などの緊急事態が起きた場合には、二時間以内に緊急着陸可能な飛行場のあるルートを飛ばなければならないとされました。

その後 エンジン の信頼性の向上に伴い、平成10年3月からは 二時間以内から 三時間以内に条件が緩和された結果、ハワイや、北太平洋上を飛行して北米の東/西海岸都市に、またグアム、オーストラリア などにも双発機で長距離の洋上飛行が可能となりました。

Continental ところが、平成16年1月6日のこと 294 名の乗客乗員を乗せた コンチネンタル航空の成田発 アメリカ の ヒューストン行きのボーイング777-300 型機が、北太平洋を飛行中に油圧が低下した結果、二つある エンジン の一つを停止し、片側の エンジン だけで飛び続けました。一番近い島はコースの南近くにある アリューシャン列島ですが、大型 ジェット 機にとって唯一着陸可能な滑走路があるのは シェミア 島だけです。写真はクリックで拡大。

Midway1 しかも冬の アリューシャン 列島は低気圧の墓場としての強風と、雪と氷に覆われる為に パイロット はそこへの着陸を選ばずに、二千五百 キロ 南にある ミッドウエー 島に向かい、そこへ無事に緊急着陸をしました。昭和 30年代までは日本から ハワイ へ直行可能な長距離性能を持つ飛行機が無かったので、民間航空機は途中にある ウエーキ 島へ、軍用機は ミッドウエー 島に着陸して燃料補給をしていましたが、ジェット 機の時代になると ミッドウエー 島は航空機にとっては利用価値を失い、その後は海鳥の営巣地として野生生物保護区になりました。ミッドウエー島には数多く生息する海鳥との衝突の危険がありますが、今回の出来事から双発機の緊急着陸場としての利用価値が、再浮上したことは間違いありません。

Onal1 ところで鳥は飛行機の機体や エンジン にとっては、衝突(バード・ストライク、 Bird Strike )をもたらす大敵です。昭和 50年(1975年)のこと、 D C-10 型機が ニューヨークの ケネディー空港を離陸滑走中に、約百羽の カモメ の大群に突っ込んだ結果、多くの カモメ をエンジン に吸い込み、大破炎上する飛行機事故が起きましたが、今回の故障機を救援する為の飛行機は、整備士と部品、それに乗客用の三百食分の弁当を積んで、ハワイのホノルルから鳥が飛ばない夜間に ミッドウエー島に着陸しました。写真は大量の鳥を吸い込む事故により炎上する、オーバーシーズ・ナショナル航空の DC-10 型機です。

2006年10月13日 (金)

デスは香水をつけない

ある日のこと、金野氏は乗務終了後に DH{ Dead Head=当該便の乗組員の頭数に入らない、非番( Off Duty )の乗組員}として客席で移動しましたが、その際に客席内で変な臭いがするのに気が付きました。何の臭いかと思って周囲を見ると、通路を夾んで二つ前方の列に座っていた人が、「バッテラ」の弁当を食べ始めていたのでした。写真はクリックで拡大。

Battera 関西の人は「バッテラ」といえばすぐに分かりますが、酢で絞めた生サバに、コンブを巻いたり載せたりした寿司のことです。その酢の臭いが通路の反対側の斜め後方二メートルの距離にいた、金野氏の座席まで漂って来たのでした。

Perfume2 昔からスチュワー「デス」は香水を付けないという決まりがありましたが、その理由は狭い機内では香水の匂いがこもり、乗客に不快感を与えたり空酔いにつながるから、ともいわれていました。しかし夏場には汗臭さを抑えるために、オーデコロンを付ける程度は許されていましたが、「バッテラ」の臭いの経験から、「デス」についての香水禁止の理由がなるほどと納得できました。

ところで三百人から五百人もの乗客が乗る、長さが約 50 メートル 以上、直経 6.5 メートル の半筒状になった客室内を、同じ温度に保つのは難しいことです。冬など客席の前方を適温にすれば、空気が後方に流れて行く間に冷えてしまい、後部の客室では寒く感じます。逆に夏期など何百人もの乗客が発する体温、呼吸気に排出される炭酸ガスなどにより、客室後部の温度が上昇し、むし暑くなることもあります。

Engineer1 客室の温度を快適に保つには機種により異なりますが、客室を四~五箇所の区画に分けてそこに暖気、冷気を導入させて、室温を細部にわたり自動調節していますが、これは三人乗務の飛行機では航空機関士が、二人乗務の飛行機では副操縦士の仕事です。写真は航空機関士席の計器パネルですが、黄色で囲んだ部分が五つの温度調節のスイッチです。クリックで拡大。

ちなみに機内の空気は約 三 分間で全部が入れ替わるように、新しい空気を常に前方から機内に流し、汚れた空気、臭いなどを機体最後部から排出しています。さらに高空を飛行しても乗客が酸素欠乏による高山病にならないように、機内の空気を地上に近い気圧( 0.8 気圧 )程度まで加圧しています。

ある時金野氏が「気の強い猛妻」を連れて、成田から ヨーロッパ へ自社便を利用して旅行した時のこと、飛行機は新潟から日本海の上に出て ハバロフスク から シベリア 大陸を西に横断する コース を飛びました。その際に航空機関士による客室温度の調節がうまくいかずに、機内が肌寒くなりました。すると近くの座席にいた乗客が、「さすがに シベリア の上空に来ると、かなり冷えますなあ」と仲間同士で会話をしているのが聞こえました。

それを聞いた金野氏は「デス」の コール・ボタン を押して、座席にやって来た 「デス」 に客室中部の温度が低すぎる旨を伝えました。しばらくすると今度は温度が高くなり、少し蒸し暑く感じるようになりましたが、例の乗客が「 シベリア の気温(?)の変化」について、今度はどのように仲間と会話したのかは聞き漏らしました。

参考までに気流が悪く乗客の空酔いが予想される場合には、客室内の温度をやや低目に セット すると、空酔い防止に効果があるともいわれています。

ところで金野氏が ベテラン の航空機関士から聞いた話によれば、人種により体感の適温が違うのだそうで、白人系 ( コーケイジャン、Caucasian ) は蒙古系 ( モンゴロイド、Mongoloid )よりも、やや低い温度を好むとのことでした。そういわれてみると金野氏が、米国で冬に白人の運転する車の助手席に乗った時のこと、車内の温度が涼しいと感じたことを思い出しました。

今日は 13 日の金曜日、キリスト 教徒にとっては忌むべき日ですが、金野氏は無神論者なので、キリスト が磔刑になった日であろうとなかろうと、少しも気になりません。昼頃の飛行機で上京し、兄の病気見舞い、法事などの雑用を済ませるため東京にしばらく滞在するので、その間 ブログ は休みになります。

2006年10月 9日 (月)

海上自衛隊機でのこと

毎年秋になると、自衛隊の観閲式が埼玉県にある陸上自衛隊の朝霞基地でおこなわれますが、昭和30年代には東京にある明治神宮外苑の絵画館前で行われました。金野氏は米国の海軍飛行学校を卒業して帰国した翌年の、昭和34年(1959年)の観閲式に、海上自衛隊の編隊指揮官機の副操縦士として参加しました。その役目は機種、性能の異なる二十機以上からなる大編隊を、指定された上空通過時刻からプラス・マイナス2分以内の誤差で式場上空に導くための航法計算をすること、及び管制機関との交信でした。

観閲式では徒歩部隊の行進が終わり、戦車などの車両部隊がパレードをするタイミングに合わせて、陸上、海上、航空自衛隊の飛行機や ヘリコプター部隊が式場上空を通過する計画でした。指定時刻から三分以上時間が早まると、前方を飛ぶ陸上自衛隊の小型機や ヘリコプターの編隊に追いついてしまい、逆に三分以上遅れると、後ろから高速で接近する航空自衛隊のジェット戦闘機の編隊と重なってしまう危険がありました。

P2vformation 金野氏が乗った対潜哨戒機( P2V-7 )には、当時最新鋭のドプラーレーダーが装備されていて、上空の風や対地速度などの航法データを知ることができましたが、問題は大編隊の場合、飛行速度の大幅な増減による通過時刻の調節が困難なことでした。そのため式場への最終の直線コースに45度の角度で進入し、30秒単位でチェックポイントの通過時刻を確認し、それを基に最終コースへの ショートカット、オーバーシュート をすることにより、上空通過時刻の修正をしました。写真は米軍の P2V-7 の梯形( ていけい )編隊飛行( 左 エチョロン、Left Echelon Formation )ですが、クリックで拡大。

その当時は車の排ガス規制も無くスモッグの為に、東京上空は常に視界が悪い状態でしたが、間違っても式場の観閲官(内閣総理大臣)席(ひな段)の背後だけは飛ぶな、と注意されました。その時は指定時刻から50秒遅れで上空を通過したので、まずまずの結果でした。

Vipkanetsu 昭和36年(1961年)の観閲式には、対潜哨戒機の第二小隊の三番機の機長として参加しましたが、式場上空への直線コースに入ると密集編隊( Tight Formation )を組み、あとは小隊長機との編隊位置を定位置に保つのが仕事で、式場通過時刻に対する誤差も、飛行コースの左右のズレも責任が無い気楽な配置でした。ところが隊内無線で式場上空通過の合図を聞いたとたん、小隊長機の機体後部から霧状のものが放出されました。

前回のブログで述べた、燃料の放出(ダンプ・フューエル)か?。上空を見上げる内閣総理大臣、防衛庁長官、陸、海、空自衛隊の制服組の最高指揮官をはじめ各国の駐在武官やその奥さん方に、あろうことか上空から  シブキ を見舞うとは不届きな奴がいたものでした。

尾籠な話で恐縮ですが、その当時 十二名乗組みの対潜哨戒機には小用の トイレ が二箇所ありましたが、いずれも空中に自然放出する構造であり、大用の トイレ は バケツ 貯蔵式でした。観閲式場通過の タイミング に合わせて 不逞のやからが、前から膀胱に貯めておいた液体を、故意に放出したものに違いありません。「シブキ」 に気が付いたのは懸命に編隊を組んでいた、二番機、三番機の パイロット だけだったと思います。

P3c その後金野氏は実験開発を担当する、実験航空隊( Development Squadron )に転勤した為に観閲式に参加する機会がなく、四年後に民間航空会社に転職しました。毎年秋におこなわれる自衛隊の観閲式の季節になると、45年前の出来事を思い出すそうです。


Orion 現在では対潜哨戒機も、民間航空機として開発された ロッキード・エレクトラ を原型とする P3C 、オライオン( Orion )に替わり、与圧キャビン、 便槽式 トイレ となり、「シブキ」 の放出が不可能となりました。写真はクリックで拡大。

2006年10月 5日 (木)

シブキの話

Goldengate

金野氏から聞いた話。
海上で発生する霧のことを海霧( Sea Fog )といいますが、原因は冷たい海流の上に暖かい空気が流れることにより、水分を含む空気が冷やされて霧が発生します。従って海霧が発生する地域も、季節も概ね決まっています。

写真は北米「霧の サンフランシスコ 」 にある ゴールデン・ゲート 橋で、ここも寒流の影響で霧がよく発生します。写真はクリックで拡大。

北海道や東北の東岸にある空港では、ベーリング 海から千島列島沿いに南下する寒流の影響により、釧路、札幌千歳、青森県の三沢、八戸、などが夏期になると海霧がよく発生します。私は昭和 30 年代に八戸市に 5 年間住んでいましたが、海沿いに住んでいたにもかかわらず海水浴に行ったのは僅か一度だけで、その理由は寒流(親潮)のため海水温度が夏でも 15 度と低く、長い間水中にいることができずに、水から上がると海岸でたき火をして暖を取りました。

昭和 40 年代の夏のこと、その日は朝から札幌千歳空港は濃霧の為に離着陸が出来ない状態で、千歳行きの便の欠航が続き、お盆前の帰省客で空港ロビーは大混乱の状態でした。

金野氏は満員の乗客の為にボーイング 727 型機に燃料を十分に積み、大阪から札幌に向かいました。札幌千歳空港の上空では各地からやってきた飛行機が 5~6 機もいて、天候の回復を期待しながら旋回を続けていましたが、1 時間以上も旋回を続けているうちに予備燃料を使い果たした飛行機から、次々に出発空港や代替空港に向けて去って行きました。

結局一番最後に千歳にやってきた金野氏の飛行機だけが残りましたが、その後幸運にも海霧が薄くなり視程が着陸可能な状態になりました。ところが困った問題が起きましたが、それは燃料を大量に積んで来た為に、そのままでは機体の重量が、着陸するには重すぎることでした。飛行機のジェット燃料は翼の中にある燃料 タンク 内に積みますが、着陸の際に機体が重すぎると、翼と胴体の付け根や車輪などに過度の荷重、衝撃が掛かるため、飛行機には着陸可能な最大重量が決められていました。

その重量よりも重い場合に、着陸する為にはどうするのか?。その答は搭載してある燃料を、空中に投棄( Fuel Dumping )することにより機体の重量を減らしますが、殆どのジェット 旅客機にはその為の装置があります。付近に飛行機が飛んでいないことを確かめてから、レーダーの誘導 パターン を飛行しながら 1 分間だけ燃料を空中に投棄して、着陸可能な重量まで減らしました。

Dampfuel 燃料投棄が終了する頃になって客室の 「デス」から インターフォン がありましたが、「翼から燃料が漏れ出した、と乗客が騒いでいる」 との連絡でした。着陸に備えて余分な燃料を ダンプ したとも機内放送するわけにもいかずに、とっさに「空になった燃料タンクを掃除した」
と金野氏が キャビン・アナウンス をして乗客の不安を取り除き、一件落着しました。写真は翼端にある ノズル から燃料を放出しているところ、クリックで拡大。

雲中飛行の場合は燃料を投棄しても客室の窓からは見えにくいのですが、当時は雲上快晴だったために、翼端からいきなり燃料が霧状に放出された為に、乗客が驚いたのも無理はありません。機種により異なりますが、この機体では 1 分間に約 四千 ポンド (約 1.8 トン、ドラム缶 11 本分)を ダンプ  しましたが、霧状になって空中に放出された燃料はすぐに蒸発してしまい、地上に降ることはありません。

2006年10月 1日 (日)

失われた夜

金野内蔵氏から以下の話を聞きました、の続き。

(その3)西に向かって飛ぶと

航空会社が儲けるためには飛行機をなるべく地上で遊ばせないようにすることで、以前から国内線が夜間の門限の為に飛べなくなる深夜に、国内線用の飛行機を外国路線用に 資格変更(外変) して、グアム線に使用していました。縄文航空では現在も関西空港から21時30分発のグアム行きがあり、翌朝08時25分に戻って来て、今度は国内線用に飛行機の資格変更 (内変) をしています。

同様に JAL ウエイズ(鶴丸航空が運航主体)でも成田発21時40分、グアム着02時15分、グアム発04時30分、成田着07時10分の深夜便を運航していますが、いずれもエコノミー・クラスだけの機体なので、外変、内変をして昼間は国内線に使用しているはずです。

ところで目的地に着いた飛行機は、なるべく短い停留時間で次のフライトに使用しますが、縄文航空の場合はJ F K (ケネディー)空港に到着後、1時間45分後にトンボ帰りします。その間に機内の清掃、燃料補給などの機体の点検整備、食事の搭載などを済ませると、ケネディー空港を同じ日(9月30日)の昼間の12時30分に出発して成田に向かいます。

日本から12時間も飛んで来た機体がまた14時間半も飛んで帰るのかと思うと、ご苦労様です。どうぞ エンジンが故障せぬようにと、無神論者の金野氏も故郷である栃木県の赤津村にある八幡神社を含めて、八百万(やおよろず)の神々に安全を祈りたくなるのだそうです。

Suika ところでスイカの表面に 二箇所「しるし」を付けて、そこを通るようにスイカを切る場合には、通常スイカの中心を通るように切りますが、それは切り易いと共に、二箇所の印の間の寸法(距離)が最も短くなります。地理学では地球上の二地点間の距離が最短となるような( スイカ の切り口が描く  )弧を、大圏( Great Circle )と呼びます。写真はクリックで拡大。

長距離を飛行する場合には最短の距離だけではなく、ジェット気流(強い西風)の向風(又は追風)の影響も考慮してルートを決めます。一般には大圏に近いルートを飛行するので、ニューヨーク の緯度、北緯 40.6 度から最初は西北西の針路を飛行して、アラスカ州 アンカレージ の北緯 61度付近まで北上し、その後は成田がある北緯 35.7 度まで西南西のコースで南へ下がります。

Sky 帰りの フライト は太陽の移動方向と同じ西方向に飛行するため、成田までは昼間のフライト がずっと続きますが、太陽の見かけの移動速度( 24時間で赤道を一周する速度 )が飛行機よりも速いので、最初は真上に見えていた太陽が次第に飛行機の前方に見えるようになります。14時間半の長いフライト を終えて成田に到着すると、予定では日本時間の午後 3時25分ですが、日付が変わって10月1日になっていました。往路と違い日付変更線を東から西に越えた為に、夜が来ないにもかかわらず、日付が変わっていました。

ここでよく考えて下さい。ニューヨークを 9月30日の昼に出て昼間の飛行を14時間半続け、成田に夕方着いたものの、日付が10月1日 になったのであれば、9月30日の夜はどこに行ってしまったのでしょうか?。  もし貴方が毎晩日記を書くとしてこの飛行機に乗っていたら、貴方の日記帳では 9月30日 の欄は空白のはずです。

それどころか貴方の人生で平成18年9月30日の夜は永久に失われてしまいました。これを 失われた夜( Lost Night ) といいますが、貴方の人生にとって プラス、マイナスのいずれになったのでしょうか?。ちなみに ニューヨーク やワシントン D C 線を月に 二回飛ぶ乗組員は、月に 二度も夜を失うことになります。外国の航空会社では失われた夜の手当( Lost night Allowance )を出せと、乗組員の労働組合が要求しましたが、会社は拒否しました。

ところで秋は旅行のシーズンですが、今月は管理人にとって旅行の予定が 三回あり、10月2日からは 40年続く、学童集団疎開当時の小学校六年の クラス会 の旅行が伊勢志摩方面にあるなど留守が多く、今月はブログの休みが多くなります。

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2006年9月29日 (金)

西から昇る太陽

金野内蔵氏から以下の話を聞きました。

(その1)西から昇る太陽

Mattaerh1 「太陽が西から昇る」などといえば、気でも狂ったかと思われますが、実際にそのような光景を何度も見てきました。地上ではすでに日没になってもいても、高い山の頂には未だ日の光に照らされている場合がありますが、写真はスイスのマッタ-ホルン 4,477メートルで、ホテルの窓から撮ったものです。クリックで拡大。

日没直後に飛行機が離陸して西に向かって上昇を続けると、それにつれて地平線に没していた太陽が顔を出し始め、やがては地平線から離れて行き次第に上昇して行くように見えるのです。
「西から太陽が昇る」というのはこのことで、飛行機が上昇するにつれて太陽も西から昇り続けますが、そこにはおのずと限界があり、飛行機が1万メートルの高々度に上昇する際でも、せいぜい 6~7 分ほどで太陽の見かけの上昇は止み、日没の動きに移ります。

別な場合では、高々度を飛行中の操縦席が日没間際の太陽に照らされていても、地上はすでに日没となり、夕闇(ゆうやみ)が迫っている場合もあります。着陸の為に降下を開始すると、僅かな時間で夕闇の世界に入ることになります。明るい場所から暗い映画館に入る時のように、眼が暗さに慣れる、いわゆる暗順応(あんじゅんのう)に時間が掛かりますが、他機への見張りには普段以上に注意しなければなりません。

(その2)西から東に向かって飛ぶと

日本から北米の ニューヨーク や、ワシントン D C などに向かう時のように、東向きに長距離を飛行すると、東から西に移動する太陽とは移動方向が逆になるため、見かけ上の 相対速度が速くなります。たとえば 9月 30 日の午前 11 時に成田を出発すると、飛行中はいつもの約半分の時間で昼間が終わって暗くなり、夜の闇も時間が短くなり、すぐに夜が明けてしまいます。

Jfkairport 予定通りですと、現地時間( 北米東部時間 )の午前 10 時 45 分に、ニューヨーク・ケネディー空港に到着しますが、機内で一晩過ごしたにもかかわらずに、日付は成田を出発した時と同じ 9月 30日です。それだけではなく午前 11 時に成田を出発したにもかかわらず、到着は出発時刻よりも 15 分早い、同じ 30 日の午前 10 時 45 分になります。日付が同じで、しかも到着時刻が出発時刻よりも早いことに、不思議な気がしませんか?。

その答は日付変更線( 東経 180 度=西経 180 度 )を西から東に越える場合には、夜が明けても同じ日付を繰り返すからです。写真はニューヨークのJ F K・ケネディ-空港です。( この続きの東から西に飛ぶ場合については、 10月 1 日に書く予定です。)

2006年9月26日 (火)

他人の給料が高過ぎる?。

金野氏によれば、パイロットは原則として月に 10 日の休みがあり、ホテルに 10 泊しますが、国内線の勤務のパターンは 3 日働き 1 日休み、3 日働き、2 日休みです。国際線の場合には、ニューヨークや、ワシントン D. C などの北米東海岸行きの場合は 2 泊 3 日、ロンドン や パリ などの ヨーロッパ 行きの場合は 3 泊 5 日のパターンになります。この場合 3 泊とは現地の ホテルに泊まる日数であり、5 日とは往きと帰りが機中泊(?)になるという意味です。

労働協約上、休日は所属する基地(たとえば成田、東京、大阪など)で取ると決められているので、外国でいくら休みを多く与えても、日本での休日には計算されません。

ところで国内のホテルに乗組員が宿泊する場合には、なぜか パイロット と スチュワー「デス」 を、同じホテルに宿泊させないように会社が手配するのです。俗に「遠くて近いは男女の仲、近くて遠いは田舎の道」という諺がありますが、結婚適齢期やそれをとっくの昔に過ぎた「うば桜」や、子持ち、孫持ち「デス」と、パイロットが ただならぬ関係 にならない様に、会社が予防措置を講じているのだそうです。それならなぜ国際線では、同じホテルに泊めるのでしょうか?。

事情通にいわせると実際は パイロット に対する嫉妬心から、会社の担当者が意地悪をしているのだそうです。 航空会社では航空大学校を卒業し、あるいは自社養成コースを終えて副操縦士に発令されると、翌日から乗務の際には自宅から会社まで、会社が手配する ハイヤー や タクシー で送迎する制度がありますが、その範囲は空港から 40 キロ 以内の距離でしたが、現在は何 キロ 以内か知りません。しかし一般社員(地上職員)の場合には会社の役員にでもならない限り、自宅から会社までの車の送迎は当然ありません。

彼らにしてみれば自分達は満員電車に揺られて通勤するのに、 24~25 才の若造が ハイヤーに「ふんぞりかえって」 毎日送り迎えされるのを見て、パイロット に対する嫉妬心を持つのも無理からぬことです。それだけではありません。パイロットとの収入の格差があります。新入社員教育の時から、パイロットの給料が高すぎると教え込まれていますが、パイロット側からすれば給料の額だけを言わずに、失敗が許されない仕事 の質や責任の重さを、地上職員のそれと比べて議論する必要があります。

Fire パイロットの一瞬の判断ミス、操作ミスにより、最悪の場合には 棺桶が五百個も並ぶ 事態となり、会社の屋台骨に ヒビ が入るほどの重大な損害をもたらしますが、パイロット以外で社内のどこの部署に、そんな重大な責任を担う人間がいるのか?、ということです。写真はクリックで拡大。

決定的なことを言えば、そんなに高給が羨ましければ、パイロットに成ればよいではないか、あるいはなぜ成らなかったのか?、ということです。現に地上職として航空会社に入社後に、パイロットの自社養成コースに転換し、パイロットになった社員がいるではないか。 もちろん操縦適性無しと判断されて、パイロットに成れなかった人もいましたが、努力もせずに他人の給料が高すぎると非難するのは、ズルイ卑怯者のすることです。

Zangai 機長の場合年に 2 回の厳重な航空身体検査があり、脳波、心電図、眼の検査( 5 種類)、聴力などを含む検査にパスし、同じく年に 2 回のフライト・シミュレーターによる操縦実技の試験を受けますが、そこでは緊急事態における操作の試験で、たとえばエンジンの(1 発、及び 2 発の)停止状態での進入着陸、油圧系統の故障、緊急降下などがあり、筆記試験もあります。ベテラン機長でもひと汗もふた汗もかかされます。写真はクリックで拡大。

それだけでなく、国内線、国際線の各路線毎に年に一度の更新実地 チェック もあり、口述審査にも合格して初めて機長としてその路線が飛べるのです。同じ人命を預かる医師は、一度医師免許を取れば一生有効でその間、全く試験も講習の義務もありませんが、パイロット は前述の技量、知識の チェック を六ヶ月毎に受けて、合格して初めて更新です。勿論中には不合格になる人もいますし、身体検査の結果 不合格になって飛べなくなり、地上配置になる人もいます。

それ程厳しい試験に裏打ちされた資格が、世の中にあるでしょうか?。だからこそ世界中どこの国でも、パイロットは責任の重さに相応しい高給を取るのです。

2006年9月22日 (金)

ホット・ベッド

金野氏から聞いた話によれば、昭和50年代の初期までは飛行機の性能上の理由から、成田からニューヨークへの直行便は飛べずに、約7時間かかる北米アラスカ州のアンカレージに着陸し、そこで燃料補給と、乗組員交代をしてからニューヨークに向かいました。その為に今よりも3時間近く余計に時間がかかりました。直行可能な飛行機を使用するようになると、東行き(ニューヨーク行き)では12時間、向かい風のジェット気流が強い冬場の西行き(成田行き)では14時間かかるため、航空会社では最初はダブル・クルーと称して二組の乗組員を乗せて飛行し、飛行中にクルーを交代させました。

機長2名、副操縦士2名、航空機関士2名、それにスチュワーデス2組(28名)という大編成でしたが、飛行時間の半分は非番( Off Duty )の為に仕事もせずに、クルー用のベッドで休養するという贅沢な仕組みでした。しかもその間も D H ( Dead Head 、死んだ頭、仕事をする頭数に入れない乗組員 ) として 、1 時間 いくらの D H 手当が貰えました。

その為に ニューヨークを一往復すると5万円の手当が付き、月に 二 回行くと 10万円の収入増になったので、パイロットもスチュワー「デス」も大喜びでした。さすがに人件費がかかり過ぎたので、会社もその後は マルチ・クルー(Multi Crew、多人数)編成に変えました。操縦席で言えば、指揮権を持つ機長( Pilot In Command )1名、機長資格を持つ操縦士 1名、副操縦士1名、それに航空機関士が必要な機体では交代の航空機関士を含めて2名となり、6名が5名になりました。

「デス」についても、ひと組の人数に数人を増やした結果、パイロットも「デス」も飛行中に三分の一ずつが 3~4 時間の休養を取れるようになりました。寝る場所については、7月19日の ブログ 「 デスのお肌 」で述べています。

Hotbed ところで ホット・ベッド ( Hot Bed 、熱い寝床 )という言葉を聞いたことがありますか?。ベッドを他人と交代で使う際に、前の人の体温で暖かくなったベッドに、次の人が寝ることです。気持ちが悪いなどというお上品な人は、「デス」 に不向きです。「デス」の語源は前回のブログに書いたように、「豚小屋の女性番人」 であることを思い出してください。毛布をきちんとたたむのが、次に寝る人へのエチケットです。狭いエコノミー・クラスの席で眠る乗客と比べれば、水平なベッドで寝られるのは幸せです。写真はクリックで拡大。

「デス」の仕事は乗客の「嘔吐」の後始末や、家ではしたこともない汚れたトイレの掃除も、ルーティン・ワーク( Routine Work 、日常業務 )です。下っ端の「デス」が使い捨てのビニール手袋をはめて、飛行中に トイレが汚れる度に掃除をしますが、家の者や友人には見せたくない姿です。ある「デス」が勤務を終えて成田から電車に乗り、空いていたのでフライトの書類の整理をしていると、隣に座った酔っぱらいが「ヘド」を吐きました。その「デス」はそのまま書類の整理を続けましたが、ふと気が付くと周囲の人は皆席を立ち、その周囲だけ人がいなくなっていたそうです。

「デス」にとって床の「ヘド」を見ることや、臭気などなんでもないし、国際線に乗務する人は、ホット・ベッドに限らず、いつでも、どこのホテルでも寝られる図太い神経でないと勤まりません。更に時差を克服できる人でないと不向きということです。大部分の人は仕事に順応できますが、中には外国に行くと全く眠れない人もいました。そういう人は時差の無い、国内線を専門に飛びました。

2006年9月19日 (火)

I D カード

昔は学生には学生証が、社員には社員証がありましたが、縄文航空では社員証とは言わなくなり I D ( Identification 、識別)カード と呼ぶ、プラスチック製の写真付き、磁気テープ付きの身分証明書に変わりました。それと共に例の首に掛けたストラップに I D カードを下げた姿が、縄文航空の社内でも見られるようになりました。

Idcard 乗組員の場合は昔から I D カード をクリップがついた ビニール・ケースに入れて、胸のポケットから下げる方法でしたが、今も変わりません。かつて縄文航空の社員証には有効期限がありませんでしたが、終身雇用制なので中途退職者は社員証を返却すれば済みました。ところが外国に行くようになると、有効期限が書いてない I D カードなどあり得ないといわれ、数年に区切って有効期限を設定するようになりました。写真はクリックで拡大。

国際線に乗務する場合に最も重要なものは、パイロット の ライセンス(免許証)、パスポート、それに会社の I. D. カード(写真付き身分証明書)です。パスポ-ト があれば I. D. カード など不要と思われるかも知れませんが、そうではありません。出国する場合には乗組員は一般旅客とは別の通路を使うので、制服の胸にきちんと  I D カードを表示していなければなりません。

乗組員の場合は出入国の際に パスポートに出入国のスタンプを押すことはなく、それを毎回したら パスポートの余白が直ぐに無くなってしまうからです。出国検査場の乗組員専用入り口を通過する際には、「縄文航空」の XYZ 便ですと名乗ると、予め会社が入管や税関に提出している G D ( General Declaration 、一般申告書 )の便名の乗組員名簿を見て、入国管理の係官が確認するというのが建前です。

しかし制服を着たクルーがまとまって出国するので、相手も一人一人名前を確認することや、 G D に印をつけることは滅多にしません。外国でも I D カード が重要なのは英国系の国で、ロンドンや ホンコン、シドニーではパスポートを見せずに、胸に付けた I D カードの表示だけで出入国します。20年以上前のこと、ホンコン便に乗務予定の「某航空会社」の パイロットが、パスポートを忘れて出社したのだそうです。

前日に米国領事館に米国の クルー・ビザ ( C-1 )、通過 ( トランジット ) ビザ ( D-1 )を貰いに行き、パスポートを運航カバンに入れるのを忘れた為でした。出発1時間半前になっての パイロット変更は、時間的に離陸時刻に遅れが出て乗客に迷惑が掛かります。本人は会社には内緒にして自分自身の判断と責任で、パスポートを持たずに乗務することに決めたのだそうです。ホンコン入国は前述の如く問題なく済みましたし、翌日の日本への帰国の際も乗組員は入国審査の際に パスポートの チェック が無いので、彼は何事もなく無事に仕事を終えることができたのだそうです。

乗客が機内で飲む酒類は全て無税です。ですからいくら乗客が飲んでも会社の出費は多寡が知れています。ある時 「縄文航空」 の部長と称する男が、出張時に ファースト・クラス の座席で 「タダ酒」 に酔っぱらい、大声を上げるなど ファースト・クラスの他の上品なお客様に迷惑を掛ける行為をしたのだそうな。そこで怒り心頭に発した チーフ・パーサー が、帰国後に キャビン・レポート を提出し、航空会社の社員にあるまじきその男の醜態を会社に報告しました。その結果彼は上司から大目玉を食い、左遷させられたともっぱらの ウワサ でした。

Tejou 最近になって酒酔い運転の取り締まりが厳しくなりましたが、飲むなら( 飛行機に )乗るなとは言いませんが、気圧が低い上空では酒に酔い易いので、飲むならほどほどにすべきです。機内で酒に酔った乗客が暴れることは、航空界で年に 1~2 度聞きますが、オーストラリア の航空法では、身柄を拘束する為の手錠の搭載を義務づけていましたが、その内に日本もそうなることでしょう。(続く)

2006年9月15日 (金)

豚小屋の女性番人

スチュワー「デス」に憧れる人は、怒らずにお読み下さい。スチュワーデス( Stewardess )とはご存じのように英語のスチュワード( Steward )の女性形ですが、研究社の英和大辞典に依ると、古い時代の英語ではStigweared といいました。

Butagoya ここからが重要なポイントですが、Stig とは「 Sty 、スタイ、豚小屋 」のことであり、Weard とは「 Ward、ウオード、番人 」の意味でした。つまりスチュワードとは古くは豚小屋の番人の意味であり、従ってその女性名詞であるスチュワーデスとは、豚小屋の女性番人のことでした。写真はクリックで拡大。

ところで欧米諸国ではスチュワーデスの社会的地位が低く、短大卒以上の学歴を持つ女性がするべき仕事ではないことは、7月1日のブログ「デスの社会的地位」で述べましたが、古くは豚小屋の番人の名称だったとする単語の歴史からも容易に納得できます。「デス」という職業は日本国内では鼻を高くしていられても、外国では決して憧れの的ではなく、鼻を高くするのは禁物です。

Butadesu さもないと、現在も階級社会が厳然と存在し、初対面の人にはまず相手の属する社会の階級を、言葉(たとえば オックスフォード 訛りの有無)、服装の趣味、身の振る舞い方(エチケット)などで、それとなく推測し判断するイギリス人からは、下賤の身分(?)である「デス」のくせに、何様(なにさま)のつもり?。  Who do you think you are ?. と言われるのが オチ です。写真はクリックで拡大。

ところで日本で最初の「デス」が誕生したのは昭和6年(1931年)のことでしたが、このことは9月6日のブログ「デスの事始め」にも書きました。更に詳しく述べると多数の中から選ばれた三人の「デス」が、一カ月後に貰った給料は17円が二人、20円が一人でした。当時の女子労働者の平均賃金の日額が82銭でしたので、給料は決して高くはなく普通の女子労働者並でした。狭い機内での労働の割には給料が安いので、三名全員が不満を持ち、一ヶ月後に退職してしまいました。

羽田空港が公式に開港したのは同じく昭和6年(1931年 )11月3日でしたが、実際にはその数ヶ月前から空港は使用されていていました。8月25日にはここから一番機が飛び立ちましたが、六人乗りの飛行機で、目的地は当時日本の領土であり、現在は中国領である 遼東半島の大連でした

その飛行機に乗客の代わりに乗っていたのは、六千匹のスズ虫とマツ虫でした。その虫は大連で「東京 カフエ-」( Coffee、コヒーのフランス語読み)を経営していた人が、日本の秋の気分を顧客に味わってもらおうと東京から送らせたもので、大連までの飛行時間は12時間掛かりました。ちなみに現在では、ジェット機で約3時間です。

2006年9月12日 (火)

ドクター・コール

Kyuukyuu 三百人以上もの乗客が長時間乗っていると、時には機内で急病人が発生する場合もあります。ある時縄文航空の国内線の機内で急病人が発生したために、航空交通管制 センターに対して医療上の緊急事態 ( Medical Emergency ) を宣言し、羽田空港への進入着陸に優先権を得て、緊急着陸した ケース がありました。男性の乗客が飛行中に意識を失ったとのことで、空港の ゲート に到着して直ぐに救急車で病院に運ばれましたが、気の毒なことに心筋梗塞か脳梗塞で亡くなりました。写真はクリックで拡大。

国内線の場合には病状に応じて最寄りの空港に着陸すればよいわけですが、太平洋を横断する長距離国際線の場合はそうはいきません。そのため エコノミー・クラスの座席に当日余裕がある場合には、最後部の座席の列に連続して 4人分の席を空けておき、急病人が出た際に ベッド の代わりに使用します。下痢、発熱などの場合には市販の薬が一応機内に用意してありますが、乗客が希望した場合に限り、あくまでも自己責任で服用できます。

しかし特に米国人の中には 病気と訴訟を持って医者に来る といわれる程、悪徳弁護士と手を組んで、訴訟に持ち込み カネ をせしめようとする者もいるので、その対応には要注意です。

急病で困るのは尿路結石、胆嚢結石などの、体内の石による急激な痛みなどです。まず機内の乗客の中に医師などの医療関係者がいるかどうか、機内呼び出し(ドクター・コール)をして協力を求めますが、いない場合には近くを飛行する同じ会社の飛行機に援助を求めます。しかしこれは同方向に飛ぶ飛行機に限ります。反対方向を飛行する相手では、互いにマッハ 0.82 (音速の 82 パーセント、時速約 800 キロ)の高速(相対速度はその二倍になり、音速の 1.64 倍 )ですれ違うために、すぐに無線電話の到達圏外に出てしまい役に立たなくなるからです。

同方向に飛ぶ場合とは、たとえば縄文航空の九月の時刻表によると、成田発、ワシントン・D C 行きの飛行機の場合には、それよりも 10分前に成田を離陸して ニューヨークに向かう飛行機が飛んでいるので、必要な場合にはその飛行機にも協力を求め、ドクター・コールをしてもらい、医師がいたら操縦室に来てもらい 、社内無線で交信して医療上のアドバイスを求めます。

同じ会社の飛行機だけでなくある時、近くを飛ぶ鶴丸航空の飛行機からも、 ドクター・コール を求められたことがあったそうですが、互いに日本語が通じる飛行機同士の方が依頼し易かったからでした。

医師の援助を求める別の方法としては、フォーン・パッチ ( Phone Patch )があります。日本ではあまり知られていませんが、たとえば太平洋上では ハワイ の ホノルル にある地上局( 対空通信会社で航空管制通信も兼務 )を短波無線 ( HF ) で呼び出して、予め登録してある日本の医療サービス 会社にハワイから国際電話を掛けてもらい、電話がつながると短波無線( HF )の通信回線と、国際電話の回線を電気的に接続します。

それによってパイロットは 医師が二十四時間待機する、日本の医療サービス 会社と電話連絡が可能になり、急患に対する処置について適切な助言を求めることができます。しかし機内には聴診器、体温計などはあるものの、激しい痛みを和らげるモルヒネなどの医薬品を搭載していないため、機上での対応には限りがあります。

Deta 船舶は世界中どこからでも、海事通信衛星(インマルサット、INMARSAT )を使い国際電話が容易に掛けられますが、飛行機の場合、現時点では一部の地域だけが利用可能であり、前回打ち上げに失敗した 運輸多目的衛星 の更なる打ち上げや、通信技術の革新、短波無線( HF )による データ・リンクの設備が待たれます。写真はクリックで拡大。

2006年9月 9日 (土)

クルーの免税基準

Fujinkutsu うわさ話が得意な金野氏から聞いた話なので真偽のほどは不明ですが、それによるとある時イタリアの ミラノ からの帰りに、嫌な事件が起きました。あるスチュワー「デス」が ミラノ で購入した イタリア 製の革靴を、成田で入国の際に申告せずに持ち込み、税関検査で摘発されたのでした。

税関と航空会社の乗組員との間には互いに信頼関係があり、通関に関しては不正行為をしない。従って旅客並の検査もしない ということでしたが、たまに通関の際にスポット・チェックと称して荷物の検査をする場合もありました。多くの場合買い物が多い「デス」が対象であって、女房や息子、娘に常時 カネ を絞り取られて金欠状態にある機長連中が検査された話を聞きませんでした。

その若い「デス」は税関の事務室に連れて行かれ脱税の容疑で調べられましたが、機長からの連絡を受けた客室乗員部の管理職が税関に貰い下げに行き、謝罪して勘弁してもらいました。しかしその「デス」はそれ以後乗務の スケジュールを外されてしまい、毎日出社 スタンバイ( Stand by )の勤務にされました。彼女が税関に摘発された話は瞬く間に「デス」の間に広がった為に、乗務をせずに皆と顔を合わせる機会が多い スタンバイ勤務をすることは、「さらし首」の刑に処せられたのと同じでした。

二週間後に彼女は泣く泣く自発的に退職願いを書き、会社は直ちに受理してこの事件は幕を閉じました。これ意外にも外国で購入した毛皮のコートを無申告で日本に持ち込み、税関に発見され解雇された「デス」が同業他社にいたとか聞きましたが、前述の革靴の場合、僅か 六パーセント の輸入関税を惜しんだ為に、「デス」の仕事を棒に振ったのは浅はかなことでした。

Manira 金野氏は外国の税関で、以下の出来事も経験したそうです。ある時 フィリピン の マニラ にある ニノイ・アキノ 空港( 夫人である アキノ 元大統領の、暗殺された夫の名前から命名 )に着陸しましたが、通関の際に税関職員がスチュワー「デス」に荷物を開けさせて、中から一枚一枚下着を取り出しては旅客にも見えるように、両手に持って広げました。「デス」は顔を赤らめると共に、機長は怒りました。あとで分かったことは、税関職員に対する会社からの付け届けを、日本から派遣された者が忘れていたことが原因でした。(写真はクリックで拡大。)

中国を含めて開発途上国では、税関に限らず役人、警官など権力を持つ者が、職権を利用して ワイロ を要求し  カネ 稼ぎをするのが普通ですが、 それに対して ワイロ や チップ を支払うことは、考え方によっては ヤクザ に払う場所代や 関所の通行税、あるいは事務手続きの 意図的遅延 を事前に防ぐための 潤滑油 のようなものです。ところで チップ の意味をご存じですか?。
T i p とは、To Insure Promptness 、つまり迅速性に保険を掛ける という意味があるのだそうです。ニノイ・アキノ 空港の税関に事前にチップ (それなりの金額の付け届け)を渡しておけば、「デス」も嫌な目に遭わず迅速に通関できたはずでした。

ところで外国を常に往復する クルー(乗務員)には、一般旅行者とは異なる税関の免税基準がありますが、六千円、九千円と時代と共に順次引き上げられて行き、今では現地価格で一万五千円~二万円前後だと思います。

しかし「デス」が退職前の最後の フライト (ラスト・フライト)の場合には、会社からの ラスト・フライト 証明書があれば、一般の旅行者と同じ免税基準の二十万円が適用されます。パイロットでその証明書を貰った人のことは聞いたことがありませんし、たぶん金野氏も貰わなかったと思います。

ちなみに一般の旅行者に適用される免税基準とは
1)合計額が20万円を超える場合は、20万円以内におさまる物品は免税になり、その残りの品目に課税されます。
(2)1個で20万円を超える品物の場合は、全額について課税されます。例えば25万円のバッグは25万円の全額について課税されます。

2006年9月 6日 (水)

デスの事始め

旅客機にはいつ頃から、スチュワー「デス」が乗務するようになったのでしょうか?。飛行機による乗客輸送が始まった当初は「デス」ではなく、男性のスチュワードを乗せてサービスに当たりましたが、「デス」を乗務させるようになったのは、昭和五年(1930年)に アメリカ の ボーイング航空輸送(後のユナイテッド航空)という会社が、世界で最初でした。

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当時 ミネソタ 大学の看護学科を卒業し、サンフランシスコ の病院で看護婦をしていた エレン・チャーチが、スチュワードの募集広告を見て航空会社に、看護婦の資格を持つ自分の採用を熱心に売り込みました。その結果大學仲間の八名の看護婦が採用されましたが、これを「デス」のオリジナル・エイト、最初の八人組と呼びました。当時の飛行機は性能が低く揺れ易い低空を飛んだ為に、空酔いする乗客がいたことも看護婦達の採用に有利に働きました。写真はクリックで拡大。

 彼女たちの制服は エレン・チャーチ 自らが デザイン したもので、グレーのウール地に銀ボタンが六個ついたダブルのジャケットに黄色い裏地の紺色のマントといった、結構おしゃれなものでした。しかし機内でサービスする際には、白衣白帽の看護婦スタイルだったそうです。

では日本での「デス」の誕生はいつのことだったかというと、驚いたことに米国の 「オリジナル・エイト」 に遅れることわずか一年の、昭和六年(1931年)に東京航空輸送という航空会社が「エア・ガール」として、三人の女性を採用したのが始まりでした。日本初の 「デス」 の募集新聞広告とは

「エアー・ガールを求む。東京、下田、静岡県の清水間の定期航空、旅客水上機に搭乗し、風景の説明や珈琲(コーヒー)のサービスをするもの、容姿端麗なる方を求む。希望の方は2月5日午後2時、芝桜田本郷町、飛行館四階へ」

というものでした。これを見ると「デス」の「容姿端麗」がこの時から条件になっていましたが、応募者は141人で、3月5日に採用決定されたのは、僅か三人でした。4月1日から乗務を開始しましたが、搭乗機は旅客六人乗りの水上飛行機で、あまりの機内の狭さと給料の安さから、4月29日には全員が辞職してしまいました。東京航空輸送ではやむを得ずに給料を一回の飛行につき三円とし、地上勤務をした場合には一円としたところ、三百人以上の応募者が集まりました。

Suijouki 彼女たちは国産の愛知 AB-1 型という水上飛行機に乗務し、東京-清水間でフライトを開始しましたが、残念ながら制服はなく私服で乗務していたそうです。しかしこの日本最初の エア・ガール はわずか一年で消滅してしまい、次に日本の航空会社で 「デス」 が採用されるのは昭和12年(1937年)のことで、日本航空輸送という会社でしたが、十二名の「デス」を採用し、制服制帽もきちんとしていました。

ところで当時の「デス」の仕事には機内の仕事だけではなく、営業の守備範囲である搭乗案内や、搭乗前の乗客の体重測定も含まれていました。

飛行機に乗る際に乗客の体重測定をすることなど、現代の ジェット 旅客機では考えられませんが、四十八年前の昭和 33年(1958年)に、私が ハワイ島の ヒロ から オアフ 島の ホノルル まで、ハワイアン航空の プロペラ 旅客機( D C-3 )に乗った際には、搭乗前に男性客だけ体重測定がありました。小型機のため機体の バランスを取る必要や、プロペラ・エンジン の馬力不足から、機体重量の正確な計算が必要だったのでしょう。

2006年9月 3日 (日)

髪結いの亭主

Marumage2 私が子供の頃の昭和十年代(1935年~)の東京には、水商売の女性以外にも「日本髪」を結う女性がまだいましたが、当時のパーマは薬品を使わずに電気で毛髪をカールする方法でした。その為に電髪(でんぱつ)とも呼ばれ、戦争が始まると乏しい電気を軍需産業に回す為に、「パーマネントは止めましょう」などと標語が掲げられました。日本髪を結う人は今でいう美容院の代わりに、髪結いに行き、洗髪や髪を結い上げてもらいました。家の近所にもそういう家がありましたが、お師匠さん(おしょさんと発音する)の経営者と結い子が数人働いていました。写真はクリックで拡大。

その家には為さんと呼ばれた亭主がいて、私よりも一才上の男の子と二歳下の女の子がいました。為さんは仕事もせずにいつも家にいて子供と遊んだり、お祭りなどの際には町内の仕事を手伝うという生活をしていました。
大きくなって 髪結いの亭主 という言葉を本で見ると、為さんのことを直ぐに思い出しました。

ところで最近はスチュワー「デス」の中にも、自分が働いて夫を扶養家族にし、育児、掃除、洗濯、料理などの家事全般を、主婦ならぬ主夫に任せるという者がいるようになりました。米国の「デス」は妊娠六ヶ月まで乗務が可能でしたが、日本では航空法の規定により「デス」は妊娠すると飛べなくなりました。出産後も最長で子供が満二才になるまで育児休職が延長できるという、結構な社内制度がありますが、それが終わると稼ぎの少ない亭主に代わり、自分が働いて一家の収入を賄うという 健気( けなげ )な「デス」がいるようになりました。

客観的にみれば男のくせに女房に養ってもらう生活力が無い「ヒモや、寄生虫」などは、「男の風上に置けない奴と思い勝ちですが、そういう男に限って経済力のある奥さん「デス」から追い出されないように、献身的に奉仕するために、家庭的にも上手く行くのだそうです。

私が知っている某航空会社のある「デス」は、四十才過ぎるまで女の細腕ひとつで長年 主夫業 をする無職の亭主を養い、二人の子供を私学の小、中学校に入れて育てましたが、立派と言うべきでしょう。

Nagashima ところで日本で最初に六十才の定年まで、「デス」を勤め上げた人をご存じですか?。
知る人ぞ知る鶴丸航空における「デス」の先駆者、永島玉枝さんでした。彼女は「デス」の三十才定年が近づくと、会社に対して定年延長を熱心に願い出ました。その結果テスト・ケースとして定年延長が認められ、遂に容姿が売り物の「デス」についても、一般社員並に六十才までの定年制の制定に漕ぎ着けました。写真はクリックで拡大。

四十年間の「デス」勤務で、25,020時間 の飛行時間を記録しましたが、それに比べると私などは、三十六年間のパイロット生活で、飛行時間は18,000時間でした。機内サービスを担当する「デス」と、飛行機の安全運航に従事するパイロットでは仕事の質や責任の大きさが違いますが、恐らく彼女の記録を破る「デス」は、今後現れないと思います。ちなみに彼女は退職するまで独身を通しましたが、 退職後に本を刊行し、スチュワーデス学院に第二の職場を得たとか聞いています。

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2006年8月31日 (木)

飛行機のトイレ

Ystoire 国産旅客機の YS-11や、オランダ製の F-27 ( フレンドシップ )などのプロペラ機のトイレは、水洗トイレではなく、端的に言えばバケツに貯める方式でした。この方式の最大の欠点は飛行機がひどく揺れると、バケツの中の汚水がトイレの床に溢れ出ることでした。もっともそういう事態は、数年に一度有るか無しかでしたが----。写真はクリックで拡大。

ジェット旅客機のトイレについて説明しますと、大きく分ければ循環式とバキューム式があります。循環式トイレは B-747-200型機などの、旧式のジャンボ・ジェットなどに使用されているもので、トイレの下に汚水タンクがあり、水洗レバーで流す度に薬品を入れて青くなったタンクの汚水を、循環させて洗い流す仕組みです。長時間飛ぶと汚水の腐敗分解が進み、臭いが強くなるので、「デス」が青色の防臭剤を更に便器に追加投入します。循環式トイレの欠点は非常識な乗客が、トイレに汚れた下着、おしめなどの異物を流すと、ポンプが詰まり使用できなくなることです。

これに対して 、B-767 や B-777、B-747-400型 のジャンボ・ジェットなどの新型機では、バキューム式、トイレの構造となっていて、汚水タンクはトイレの下ではなく、機体の最後部下方などにあります。このタイプではトイレでフラッシング( Flushing )する(流すボタンを押す)と、「プシュー」という圧縮空気音がするのが特徴です。今度飛行機に乗ったら、トイレに入って試してみてください。汚物は少量の水と一緒に、床下にある汚水パイプを通って後部の汚水タンクに吸引されて、そこに貯蔵されます。原理的には家庭にある掃除機でゴミを吸い取るのと同じですが、その際の吸引力を得るには客室内部の高い気圧と、機外の低い大気圧との圧力差を利用します。したがって循環式トイレのように、臭いがすることは原理的にありません。

詳しく説明しますと旅客機が 一万メートル以上の高空を飛行していても、乗客が酸素不足による高山病などにならないように、客室内の空気を加圧していますが、その圧力は高度にすれば 八千フィート( 2,400 メートル) の高度と同じで、気圧の値では 0.8 気圧程度に常時保たれています。それと機外の低い大気圧との差を、吸引力に利用しています。飛行機が地上にある時や低高度を飛んでいるときは、気圧の差を利用できないので、バキューム・ブロアという一種の掃除機で、少量の水と共に汚物をタンクに吸い込みます。

Toirefurasshu1 ところで航空界には、こういう伝説があります。大西洋横断の旅客機に搭乗した超肥満体の女性が、機内のトイレで用を足し、そのままの姿勢で前述のフラッシュ・ボタン( 写真の黄色のボタン )を押したところ、飛行機内外の気圧差によって巨大なヒップが便器内に吸引されてしまい、便座から抜け出せなくなりました。「デス」を呼んだものの抜け出せず、結局そのままの姿勢で飛び続けた末に、着陸後に三名の整備士によって、ようやく吸引から解放されましたとさ---。

高い高度を飛行中に、客室に掛かる与圧を 4.5 P S I (Pound per Square Inch、1平方インチ当たり4.5ポンド )と仮定します。これを キログラム/平方センチ の値に換算すると、1平方センチ当たり 0.3134 キログラムの圧力が作用することになります。超肥満体の女性が座る便座の大きさを、 30センチ X 20 センチと仮定すれば、巨大ヒップ全体に掛かる吸引力は、計算上で 188キログラム になります。

Fatwoman ところでトイレ・パイプの吸引力が作用するのは、フラッシュした後のせいぜい 五秒前後なので、便座と巨大ヒップとの間がそれほど長時間、188 キログラムの吸引力( 換言すれば真空状態 )を維持できるかどうか疑問になります。この伝説から教訓を得るとすれば、「身軽になる行事」を終えた後は、身づくろいを済ませてから、フラッシュ・ボタンを押すことです。写真はクリックで拡大。

2006年8月28日 (月)

航空運賃

私が初めて飛行機に乗ったのは昭和32年(1957年)1月のことでした。海上自衛隊の幹部候補生学校を前年の12月に仮卒業し、一ヶ月後にアメリカ海軍飛行学校に留学のため、生まれて初めて鶴丸航空のプロペラ機、 D C-6Bに乗り、羽田からサンフランシスコに向かいました。

その当時の往復の航空運賃は日本円で15万円でしたが、当時の大卒サラリーマンの初任給が1万円前後でしたので、15ヶ月分に相当しました。現在の大卒サラリーマンの初任給を20万円とすれば、往復運賃は実に300万円ということになり、高速大量輸送時代以前の航空運賃が、如何に高額だったかが分かります。

ちなみに昭和35年頃から新婚旅行に飛行機がようやく使われ始めましたが、東京--大阪間の運賃は1万円であり、前述のサラリーマンの1ヶ月分の給料と同じでした。今ならさしずめ20万円に相当します。昭和30年代に祇園で芸妓をしたことがある女性石井某が、銀座に「おそめ」というクラブを開店し、毎週飛行機で大阪--羽田を往復したので、「空飛ぶマダム」とマスコミに騒がれたことがありました。しかし「ジョニ黒(ジョニーウォーカー・ブラック)」などの高級(?)洋酒(当時は1本1万円)の瓶の底に穴を開け、国産の安いウイスキーを詰め替えて客に出すという、芸者上がりの「えげつない」商法がバレてしまい没落し、飛行機に乗る身分ではなくなりました。

Dc6b 当時のプロペラ機では航続距離が短いために、日本からハワイ( ホノルル )に直行できずに、パンナム航空が開設した太平洋上の孤島、ウエーキ島( Wake island 、北緯19度17.4分、東経166度31.7分 )に立ち寄り、燃料補給をしてからハワイに向かいました。記憶がさだかではありませんがその当時は、乗客定員は60名前後で、ハワイまでは里帰りの日系人が多いのでスチュワーデスが4名、男性のパーサーが1名乗務し、日系人がハワイで降機してしまうとハワイ、サンフランシスコ間は乗客が少なく、スチュワーデス2名 とパーサー1名の乗務でした。写真はクリックで拡大。

しかも所要時間は羽田--ウエーキ島間が7時間半、ウエーキ島--ホノルル間、8時間、ホノルル--サンフランシスコ、9時間の合計で24時間半プラス燃料補給の停留時間が掛かりました。今では考えられませんが飛行中に「どうぞ操縦室に見学に来てください」、などと機長が機内アナウンスをしていました。操縦室にはパイロット、航空機関士、航空士の合計四名がいましたが、航空士以外は全てノースウエスト航空からのアメリカ人でした。甲種二等航海士の海技免状を持つ私の同級生二名が、後に鶴丸航空で一等航空士の航空免状を取り、国際線に乗務する航空士になりましたが、慣性航法装置( I N S )を装備したジャンボ・ジェットの導入により、航空士は不要になったので航空機関士に転職しました。

その当時は乗客に機長の署名入りの、日付変更線通過証明書なるものを発行してサービスに当たっていましたが、中古の飛行機を購入したために故障が多く、ハワイの日系人からは日航ではなくて欠航だと不評でした。

Wake1 その後飛行機はD C-6Bから D C-7型機になりましたが、ハワイ--東京間は向かい風が強いと、やはり直行できずにウエーキ島に燃料補給のため着陸していました。島には戦争の傷あとが残っていて、海岸には米軍機の攻撃に遭い、船を沈没から救う為に故意に海岸に乗り上げた日本の貨物船がありました。

2006年8月24日 (木)

私の手荷物

Baggageclaimtable 以前のブログで海外旅行の際に、私は手荷物が行方不明になったことがあると書きましたが、昭和52年のことでした。三発広胴機の訓練を受ける為に、ロサンゼルス空港から北米大陸のど真ん中にある、カンサス州カンサス市にある M C I (Mid Continent International )空港まで、その後倒産して消滅した T W A ( トランス・ワールド航空 )の飛行に乗り移動しました。ところが到着の際にいくら待っても、回転テーブルに手荷物が出てきませんでした。写真はクリックで拡大。

ちなみにカンサス( Kansas )とは米語の発音によれば「キャンザス」であり、キャンザス州にあるキャンザス・シティ(市)と、隣接するミズーリ州にあるキャンザス・シティ(市)とに分かれています。これを日本に例えれば、横浜市を半分に分けて、神奈川県横浜市と東京都横浜市にするようなものでした。市の真ん中に州境界の道路( State Road )があり、その西側がキャンザス州、東側がミズーリ州でした。

チェックインの際にカウンターで預けた荷物が行方不明になった場合に、まずすることは 手荷物紛失届の書類に必要事項を英語で記入して、航空会社に提出することです。手荷物タグの番号、手荷物の形状、ハードかソフト・ケースか、色、ブランド名(サムソナイトなど)、連絡先住所、などです。後日米国人から聞いた話によれば、手荷物が行方不明になると彼らは福の神が舞い込んだとばかりに、高価な背広など必要な品物を直ぐに買いに走り、後で航空会社に代金を請求するのだそうです。

その場合に補償金はいくら貰えるのでしょうか?。国際線の場合ワルシャワ議定書により手荷物の重量1キログラム当たり20ドル(2,200円)と、国際的に決められています。そしてエコノミー・クラスの荷物の重量制限は20キロであり、ビジネス・クラスは30キロ、ファースト・クラスは40キロまでなので、補償金額の上限はそれぞれ4万4千円と6万6千円、ファースト・クラスでは8万8千円になります。

機内に持ち込む荷物( Carry on Baggage )については、補償額の上限が一人当たり400ドル(4万4千円)になります。もっともチックインの際に荷物に高価な品物があることを申告し、申告価格100ドルにつき2ドルの保険料を支払えば、最高5千ドル(55万円)まで補償されます。

しかしワルシャワ議定書の金額ではあまりにも安過ぎるというので、その後にハーグ議定書、モントリオール議定書ができましたが、米国を初め多くの航空会社については手荷物の補償額の上限が、一人当たり最高1000ドル(110万円)に引き上げられました。

Lost_bagoffice ところでキャンザスの M C I 空港ロビー内にある航空会社の手荷物紛失事務所( Lost and Found Office )に行くと、荷物のトラブルに巻き込まれた旅行者たちが、列を作ってクレイム処理の順番待ちをしていました。ある統計によると米国では手荷物二百~二百五十個のうち一個が行方不明、誤配、中身を盗む為の破損、などのトラブルに見舞われるそうです。写真はクリックで拡大。

航空会社が調べた結果、私の手荷物はロサンゼルス空港の荷物係員が積み忘れ、手荷物置き場にあることが判明したので、次の便に搭載して、後で受け取ることができました。

参考までにトラブルがあった手荷物を引き取る際には、正当な持ち主であることを証明する為に、搭乗券の半券、手荷物のタグの片券、それに身分証明書を要求されました。

2006年8月21日 (月)

手荷物捜索クルー

十日間家に遊びに来ていた小学生の二人の孫と、五日間いた娘と別の孫が、昨日ようやく帰ったので、我が家の「夏の狂乱」も終わり、やっと老夫婦だけの平穏な生活に戻りました。

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お盆休みの最中に英国では航空機爆破テロ計画の容疑者二十四人が、事前に逮捕されるという驚くべき事件が起こりましたが、2001年9・11に米国で起きた W T C (世界貿易センター・ビル)を初めとする、旅客機連続自爆テロ事件直後のニューヨークのケネディー空港の厳戒振りは、後輩パイロット達の語り草でした。

靴を脱がされ、ズボンのベルトやネクタイ・ピンも外して金属探知機を通過しようとした日本人の多くは、それでも探知機のブザーが鳴りましたが、感度を最高に高めた探知機のせいで、金歯に反応したのだそうです。別の話ではウソか本当か、パスポートの表紙に印刷してある金色の菊の紋章に反応したという話もありました。

さらに身体検査の際にもたもたしていると、先に X 線検査を終えた貴重品が入った機内持ち込み荷物を、検査テーブルから持ち去られるという事件が多発しましたが、検査係官が荷物の正当な持ち主が誰か、分からない点に付け込んだ「置き引き」犯人たちの仕業でした。平成元禄の太平の世に慣れた日本人は、外国旅行の際は、油断も隙も禁物です。

8月15日付のイギリスの夕刊紙イブニング・スタンダードによると、英国の旅客機爆破テロ計画の影響で、ロンドンのヒースロー空港でチェックインした手荷物二万個が、所在不明になっていると伝えました。同紙によると所有者の名前や住所を記したラベルを適切に貼らなかったことが原因なのだそうです。

ところで縄文航空では前述したロンドンのヒースロー空港で多発する、手荷物の紛失事故に対処するために、同空港の荷物取り扱いに詳しい英国人のバゲッジ・クルー( Baggage Crew 、手荷物捜索係)を四名雇い入れて、行方不明になった手荷物の捜索発見、追跡調査に当たらせています。バゲッジ・クルーはヒースロー空港だけにいて、それ以外の空港にはいません。

出発空港のカウンターで預けた手荷物は自動的にコンピュータ処理されていて、世界中の空港と専用回線で結ばれたコンピュータのバゲッジ・トレーサー(手荷物追跡装置、Baggage Tracer )に手荷物のタグの番号を入力すれば、手荷物の経路、現在の場所が直ぐに分かる仕組みになっています。

Baggage_crew しかし問題はその手荷物に付けられたタグ(荷札)が途中で脱落した場合や、空港のコンテナ置き場の片隅で、コンテナーに積んだまま、飛行機への搭載やコンテナからの取り下ろしを忘れられた場合が多いのです。英国人の労働習慣から勤務時間が過ぎると、仕事上の引継もせずにさっさと帰宅してしまうなどの国民性にも原因があります。そこでバゲッジ・クルーは行方不明になった手荷物をコンピュ-タで捜索するだけでなく、広いヒースロー空港の手荷物置き場やコンテナ置き場などを探し廻り、処理を忘れられ、放置されたコンテナや手荷物の発見に努めるのです。写真はクリックで拡大。

ちなみに持ち主が不明の手荷物( Lost Baggage )や、持ち主が空港に引き取りに来ない「忘れ去られた手荷物」( Forgotten Baggage )はどうなるかご存じですか?。一定期間預かった後に中身もろとも売りに出され、航空会社の収入になります。電車の車内に置き忘れられた傘などの品物が、後で売られるのと同じ扱いです。

2006年8月 9日 (水)

手荷物の紛失事故

Baggage 手荷物の紛失事故については国内の旅行ではあまり気になりませんが、海外旅行の際には出発時に預けた手荷物(旅行カバン、スーツケース)が、目的地空港の回転式テーブルやベルト・コンベアに無事に出てくるまで、心配になるものです。その昔ロンドン・ヒースロー空港は、手荷物の破損、中味の盗難事故が多発したので、世界的に悪名が高い空港でした。その原因とは長い間空港に巣喰っていた、空港貨物従業員をメンバーとする犯罪組織集団(マフィア)の存在でした。

監視の届きにくい手荷物の仕分け場所や飛行機の貨物室の中で、従業員達がバールでトランクのカギを壊しては、貴重品を盗んでいたのでした。手荷物の中に貴重品を入れる傾向があった日本人は、スーツケースに布製のベルトを巻く独特の風習や、名札の名前から特に狙われて被害に遭いました。

Cont 航空会社がガードマンを雇い入れて手荷物の監視を強化すると、次には手荷物を入れたコンテナを飛行機に積み込み/下ろしするハイリフト・ローダー( High Lift Loader )やコンテナー運搬車( Container Pallet、Dolly )を空港内の駐機場に向かう途中でわざとパンクさせ、飛行機の出発を遅らせたり、荷物のトランクやスーツケースのカギ穴にクギを打ち込んで、旅客を困らせる嫌がらせなどをしました。写真はクリックで拡大。

各国の航空会社の強いクレームにより空港警察やロンドン警視庁もようやく捜査に乗りだし、犯行に加わっていた50人以上の従業員が逮捕され、窃盗組織は壊滅しました。しかし荷物の盗難事故はロンドン・ヒースロー空港に限らず、ローマのフミチノ空港、パリのシャルル・ドゴール空港など、日本以外のどこの空港にも手荷物を狙う従業員の盗人が必ずいるので、盗難事故は起こります。

昨日の新聞によれば(米国の)航空会社ではテロに対する保安上の理由から、最近手荷物に鍵を掛けないように乗客に指示するようになった為に、グアム空港では航空会社に預けた手荷物の中が荒らされて、貴重品が盗まれる事件が多発していると報じられましたが、ドロボーにとっては願ったり叶ったりの事態です。

盗難とは別に手荷物の紛失事故(ロスト・バゲッジ、Lost Baggage)がありますが、ヒースロー空港は今でもこの分野で悪名が高いのです。その理由としては年間6,500万人の乗客が出入りし、90の航空会社の飛行機が世界中の200の目的地に向けて/から出入りし、毎日1,250便が離発着し、年間に7,500万個の手荷物を取り扱うからと弁解しています。しかし実際は自分の勤務時間が終わると、仕事の途中でもすぐに止め、 次の勤務者へ仕事の引き継ぎもせずにさつさと帰宅する無責任な、換言すれば「カネにならない」サービス残業は1分たりともしない、イギリス人の労働慣行にあるといわれています。

ヒースロー空港は、手荷物(Checked Baggage)がなんと毎日1千個も行方不明になり、天候不良でフライト・スケジュールが混乱すると、更に数が増えるのだそうです。そのためロンドン・ヒースロー行きの飛行機に乗る際には、貴重品はもちろんのこと旅慣れた人は数日間の生活に必要な化粧道具、下着類などを、機内に持ち込む場合が多いと言われています。ところであなたは手荷物の事故に遭ったことがありますか?。私は一度だけありました。

ブログのお盆休みのお知らせ

目的地空港まで「デス」や地上係員が責任を持って子供を送り届けてくれる、「お子様一人旅」の制度が縄文航空にありますが、それを利用して明日(10日)から横浜にいる小学生の孫二人が、胸に荷札を着けてもらい飛行機に乗って遊びに来ます。孫の相手や旅行などで忙しいため、ブログもお盆休みに入ります。再開は孫が帰る20日過ぎの予定です。

2006年8月 6日 (日)

外資系のデス

スチュワー「デス」になるには日本の航空会社だけでなく、日本に乗り入れている数多くの外国航空会社も、日本人乗客に対する集客性、利便性を考慮して日本人を採用していますが、雇用形態などは日本の会社とはかなり異なります。そこで外資系「デス」の特徴を箇条書きにしてみます。

1:定期的な採用をせずに、「デス」に欠員が生じた場合など必要に応じて、ジャパン・タイムズなどの英字新聞の広告欄に募集広告を載せて公募します。

2:一般に採用人数が少なく、訓練に時間と手間が掛かる新卒者よりも、即戦力となる「デス」の経験者を採用する場合が多いようです。もちろん英語でグループ・デスカッションができる程度の、語学力が必要です。

3:「デス」の雇用は全て契約社員であり、3年~5年の契約期間終了と共に解雇される場合が多く、日本の航空会社のように、三年後に正社員に採用される道は全くありません。ちなみに縄文航空では「デス」の契約社員の内から、その間の退職者を含めて、3年後の正社員への雇用率は約50パーセントであり、鶴丸航空の場合は過去6年間に2916人を契約社員の「デス」に採用しましたが、三年後には1580人、率にして54パーセントが正社員になりました。

4:外国航空会社は日本の会社に比べて「ドライ」というか、従業員を簡単に解雇する傾向があることで、乗客の搭乗率悪化を理由に日本への運航が突然打ち切られ、日本人「デス」が全員解雇された例がありました。

Attendant3 5:外資系「デス」の中には外国航空会社から次の外国航空会社へと、より良い条件を求めて渡り歩く、いわゆるジョブ・ホッピング( Job Hopping )をする「デス」もかなりいますが、それができるのもせいぜい三十代までで、それを過ぎると「デス」としての就職口も無くなります。その後は海外旅行社の添乗員などで生活する人がいます。(写真はクリックで拡大)


6:給料はせいぜい20万円~25万円/月程度、年収で250万~300万円と安く、日本ではぎりぎりの生活ですが、東南アジアの国では高給取りの部類に入ります。

7:航空会社によっては物価の高い東京を日本人「デス」のベース(主基地)にせずに、ロンドンなどをベースにして、そこから乗務を開始//終了させますが、日本と離れて生活することになり、日本国内の情報から取り残されます。

8:米国の航空会社では労働組合の力が強く、タフト・ハートレー法により禁止されているクローズド・ショップ( Closed Shop )制に近い制度を採用し、労働組合員でなければ会社が雇用できない仕組みで、組合員になる為には米国の市民権が必要となります。 したがって日本人を採用しても「デス」の仕事は一切させられずに、機長のアナウンスを後で日本語でアナウンスして伝える機内通訳の仕事や、入国書類の記入方法について日本人乗客に手助けするのが主な仕事になり、米国の航空会社の「デス(?)」は、やり甲斐のある魅力的な仕事とはいえません。

2006年8月 3日 (木)

クリスマス・ケーキ

一昔前のこと女性はクリスマス・ケーキという言葉が流行りましたが、その意味は12月24日(24才)までは買い手が多いが、25日(25才)を過ぎると買う人がいなくなるということで、最近の晩婚傾向にある女性が聞いたら怒り出すような表現でした。

Xmasskeiki 姿 美子(すがた・よしこ)さんは短大卒業後スチュワー「デス」になり、夢中でしかも楽しく働き三年が過ぎましたが、そろそろクリスマス・ケーキの年齢も近づいてきました。その間、ときにはお客様から会社宛てに何月何日の何便に乗務した姿・美子様へという手紙が来たり、携帯電話の番号を書いたメモを若い男性乗客から渡されたことがありましたが、先輩たちによれば25才を過ぎると、それも急に減るのだそうです。美子さんもそろそろ結婚相手を探すことを、真剣に考えるようになりました。写真はクリックで拡大。

Hyottoko1 「デス」の結婚について詳しい金野(かねの)内蔵氏によれば、結婚相手の第一希望としてはパイロットと結婚することだそうで、パイロットであれば顔なんか無くても良いと言う「デス」もいるそうです。しかし「デス」にとってその栄冠(?)を勝ち取ることは、至難のワザなのです。その理由とは航空大学卒やパイロットの自社養成コースを出た若い男性は年間にせいぜい30~40名が入社するのに対して、デスの採用は去年は450名でした。景気の拡大から航空需要の増加が見込まれ、今後共「デス」の採用は増加するに違いありませせん。

しかも競争相手は同僚の「デス」だけではなく、G H ( グランド・ホステス、Ground Hostess )と称する空港のカウンターや搭乗ゲートで働く地上職の女性もいますし、更に事務職の女性もおります。「デス」だけが美人の部類だと思ったら大間違いで、身長最低制限の162センチ(正確ではない?)に達せずに「デス」を諦めた、やや小型の美人女性も多いからです。

金野氏が若いころは丁度ラジオの真空管に代わり半導体のトランジスタが開発されましたが、それまでの「東通工(東京通信工業)」がソニーと社名を変更して、トランジスタ・ラジオを世界で初めて販売して有名になりました。その当時にはトランジスタ・ガールという言葉が流行りましたが、小型でしかも高性能という意味からでした。

ところで航空大卒業生やパイロットの自社養成コース出身者がパイロットの資格をとったからといって、すぐに旅客機に乗れるわけではありません。それを車の運転免許に例えれば、軽自動車の運転免許(?)を取っただけに過ぎず、これで三百人~五百人もの乗客を乗せる大型バスの運転ができるわけではないからです。彼らはパイロットの卵であるパイロット訓練生と呼ばれていて、会社では大型バスの運転免許を取らせるために飛行訓練をするわけですが、パイロットの実用機訓練への順番待ちと、パイロットの需要供給を調節する為に、1年~3年程度、他職種経験と称して営業などに配属し、空港カウンターなどで勤務させます。

このパイロット訓練生の期間こそが、前述の「デス」、G H 、事務職の女性にとって、将来のパイロットを射止める絶好のチャンスなのです。その理由は彼らは恋愛経験を含めて未だ「世間ズレ」していないうえに、訓練生の給料は非常に安く「カネが無い」ので女性の方から誘惑(?)し易く、上手くいけば結婚に導くチャンスがあるからです。

ところで、これまで女性にもてたことが一度も無く、いつも相手に振られてばかりいた金野氏は、死ぬまでに一度で良いから女性に誘惑される身分になりたいものだと、かなわぬ夢を抱きつつ定年を迎え、老爺に成り果てました。

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2006年7月31日 (月)

開けてビックリ

日本経済が復興し消費主導である大型の「いざなぎ景気」が昭和40年代に始まると、若い人は新婚旅行に飛行機を利用するよになりましたが、その目的地として先陣を切ったのが九州の宮崎でした。ここは地方空港としては最初にジェット機が就航した所でしたが、やがて新婚旅行のメッカになりました。大安吉日と週末が重なった日の宮崎行きの夕方や夜の便は、乗客の殆どが新婚さんで占められていて、当時独身が勤務条件の「デス」 たちを羨ましがらせたものでした。

宮崎への新婚旅行ブームがピークを迎えた昭和49年(1974年)には、全国の新婚カップル約百万組のうち、実に37万組が宮崎に旅行しました。しかし宮崎ブームは間もなく終わり、観光スポットの青島海岸周辺を訪れた人数は昭和49年の136万人から、平成15年には僅か21万人と、ピーク時の15パーセントにまでに激減しました。

その理由は昭和47年(1972年)に日本に復帰したばかりの沖縄が、南国ムードを求める新婚旅行客に好まれたからでした。社会が豊かになると次は旅行先が海外まで広がり、ハワイ、オーストラリア、タイ、シンガポールなどに行くようになりました。

その昔、新婚旅行の新婦の服装といえば、スーツに帽子を被るのが定番のスタイルでしたが、海外に行くようになるとジーパンに T シャツ、というラフな日常のスタイルに変わりました。

以下は金野内蔵氏から聞いた話です。ある時成田午後7時半発の、シドニー行きの便でのこと、機内では乗客に対する夕食のサービスも終わりその後の映画を上映していましたが、操縦室に飲み物を運んできたチーフ・パーサーが、「最近の新婚さんは本当に厚かましいのだから」と怒っていました。その理由とは、

L-5 (前方から5番目にあるドア、つまり最後尾のドア、の左側)を担当する「デス」から、トイレに入った乗客が長い時間出てこないという報告がありました。チーフ・パーサーが機体最後部にあるトイレに行くと、四つあるトイレの一つには確かに使用中のライトが点灯し、内側から施錠されていて、ノックしても中から応答がありませんでした。そこで彼女はトイレの中で乗客が倒れているかも知れないと思い、合い鍵を使ってドアを開けることにしました。

Toilet1 ところが開けてビックリ、個室の中には若い男女がいました。取り込んでいる最中にドアを開けられた男は、「何すんだよー」と「逆ギレ」して、彼女に文句を言ったのだそうです。これに対してチーフ・パーサーはドアを開けたままで、「ここはそういうことをする場所ではありません。迷惑だから直ぐに出てください」 と厳しい口調で言いました。中にいた二人は恥ずかしそうな様子も見せずに下半身の身づくろいをして、トイレから出て座席に戻っていったとのことでした。写真はファーストクラスのトイレで、クリックで拡大。

その話を聞きながら彼女の顔を見ると、操縦室の薄暗くしたライトに照らされた目尻には、「カラスの足跡」と呼ばれる「シワ」がくっきりと浮かんでいました。ところであんたは結婚する相手でもいるの?、と聞くと、いたらこんな仕事を長くしていませんよ。誰かいい人がいたら紹介して下さい、とのことでした。その会話を聞いていた操縦室の中で最も若い航空機関士が、私は独身ですけれどと口をはさむと、彼女は「悪いけどあんたは私の趣味ではないし、それに年下の坊やには興味が無いの」、とぴしゃりと言い返しました。お見事!。

彼女が操縦室から出て行くと航空機関士が、「彼女は美人だけど、(性格が)きついですねー。あんなのと結婚したら、一生尻の下に敷かれるので、こっちもお断りですよ」、と負け犬の遠吠えをしました。 それを聞いた金野氏は「結婚相手を選ぶには、相手の性質が最も重要だよ」、と46年前に老妻を選択した失敗を、密かに反省しながら言いました。

2006年7月28日 (金)

財布が消えた

以下は小説です。30年以上前のこと縄文航空ではエンジンが三つで 326人乗りの、いわゆる広胴機( Wide Body Jet )を運航していましたが、広胴機とは簡単に言えば客室内に通路が二本ある飛行機のことです。その機体には電動式のコート・ハンガーが数箇所と普通のコート掛けのロッカーがありました。事件は電動のハンガーで起きました。スチュワー「デス」になって二年目の、姿 美子(すがた・よしこ)さんが、ある男性乗客から背広の上着を預かるように言われたので、コート・ハンガーに掛けて電動スイッチを入れて無事に格納し扉を閉めました。

Saifu1 羽田空港への着陸に備えて預かった背広を乗客に返したところ、その男性が内ポケットに入れておいた財布が無くなったと言い出したのでした。もしやと思いハンガー周辺や男性の座席のクッションの隙間などを探しましたが、財布はありませんでした。チーフ・パーサーを通じて機長に連絡があったので、空港への進入降下中の忙しい最中に社内無線で連絡し、対応を依頼しました。写真はクリックで拡大。

「デス」に預けた上着から財布が消えたというのでは会社の信用にも係わる事柄なので、事情聴取のために担当の 姿 美子(すがた・よしこ)「デス」の乗務を東京で打ち切り、代わりの「デス」を乗せることになりました。乗客が降機した後で機内を探しても、財布はみつかりませんでした。金野内蔵氏が客室に行くと 姿「デス」は目に涙を浮かべていましたが、「あんたが財布を盗ったなどと思う人は、クルーには誰もいないよ。調べれば直ぐに分かるから、心配しないでね」と言って慰めました。

縄文航空には警視庁の刑事から転職した警備担当の厳重 糺(いわしげ・ただす)氏がいたので、営業責任者の立ち会いの下で厳重(いわしげ)氏が財布が無くなった乗客に事情を聞くことになりました。後日厳重(いわしげ)氏から聞いた話によれば、顔を見たとたん直ぐに、この男性はおかしいと元刑事の感でピンときたそうです。その上住所、氏名、連絡先の電話番号を書くのを最初は渋りましたが、財布が発見された際の連絡先が必要だからといって、書いてもらいました。

本人によれば財布の中身は現金10万円と、クレジット・カードとのことでした。そこで紛失届を警察に出すように言うと、なぜか嫌がりました。届けを出さない以上、機内で紛失した証拠にはなりませんよというと、それでもいいからと言い出しました。すると今度は財布が無いことを理由に、横浜の家まで帰るタクシー代を要求しましたが、会社はきっぱりと断りました。交通機関が無くなる夜遅くならともかく、昼間にタクシー代を請求するとは男の魂胆が見え見えでした。

その男が書いた電話番号を別室で 104 の番号案内で確かめたところ、使われていない番号だったからでした。財布が無くなったというのは多分「ウソ」であり、それを種にして会社からカネを せびろうとした のに違いありません。紛失届けを出せば警察の記録に残り、場合によっては署名捺印欄にハンコの代わりに押す拇印(指紋)から身元が特定されるのを恐れたのかも知れません。それ以後縄文航空では「デス」がお客の背広の上着やコート類を預かる場合には、貴重品が入って無いことを相手に確認するように、マニュアルが改訂されました。

2006年7月25日 (火)

機内のセクハラ

昭和40年代の初め頃のこと、当時は飛行機の便数も少なく、従って空港の騒音問題も無く空港には夜の門限もありませんでした。そこで郵政省(当時)はサービス向上の一環として郵便をより早く配達する為に、深夜に空いている機体を利用して札幌・東京・大阪・福岡に郵便を運ぶ郵便機を運航することになりました。パイロット達はこの便のことを「夜ばい便」と呼んでいましたが、「よばい」の意味が分からない若い人は辞書を引いて下さい。

昼間に比べ深夜に飛ぶのは良いものです。空港は空いているし、航空管制通信のうるさい交信もほとんど無く、しかも航空路も空いているので自分の好む高度で飛べるからです。夏場に発生する積乱雲(雷雲)も夜間は気温が下がるにつれて消滅し、気流も安定します。最も気楽なことは人の代わりに荷物を積むことで、揺れても郵便袋は空酔いしませんし苦情も出ませんので。

航空の黎明期のフランスにサン・テクジュペリというパイロットがいましたが、彼は小説も書き「星の王子さま」が有名でした。それ以外にも「夜間飛行」や「南方郵便機」も書きましたが、深夜に郵便機を飛びながら金野氏は、1944年にドイツ軍との空中戦で死亡した彼のことを思い出しました。

Osawari 昭和43年頃のこと金野氏は、夜間のチャーター便を飛ぶことになりましたが、甲子園球場でナイターの試合を終えたある野球チームの選手達を、大阪から東京まで運ぶ便でした。夜11時に大阪を離陸しましたが、知多半島を過ぎた辺りで「デス」が操縦室に来て「キャプテン(機長のこと)、野球選手って本当にガラが悪いので嫌になります。」と怒った調子で 言いました。話を聞くと彼女が「おしぼり」を配る為に客室の通路を歩くと、何人もの選手が彼女の「おしり」を触ったのだそうです。写真はクリックで拡大。

「あんたが美人の証拠だよ」と言って慰めるわけにもいかずに、金野氏は彼女の為に、「おさわり」という痴漢行為をした奴らに 仕返し をすることに決めました。「ベルト・サイン」を点灯するからサービスを中止するように。乗客にはこの先、揺れが予想されると機長がアナウンスするから。乗客が眠り易いように機内照明を暗くして、「デス」の座席に座ったままでいるようにと告げました。

生憎当夜は気流が良く機体は揺れなかったので、金野氏はわざと操縦輪を前後左右に動かしては機体をピッチング(縦揺れ)、ローリング(横揺れ)させました。しばらく揺れの飛行を続けた後に不届きな振る舞いをした乗客たちの様子を「デス」に聞くと、揺れが始まると空酔いで気持ちが悪くなったらしく、皆おとなしくなり眠っているとのことで、「デス」 もそれ以上の被害に遭いませんでした。ヨカッタ!。

この野球チームとは、今シーズンの開幕当時は貯金をかなり貯め首位独走か(?)と思われたものの、最近では連敗が続き、セ・リーグの B クラスに定着しつつある、某新聞社と関係があるチームのことでした。

2006年7月22日 (土)

機内の食事

「デス」もパイロットも国内線の場合は大抵一日の勤務で少なくとも一回、時には二回、会社が支給する弁当を食べることになります。時間帯によっては出発前に会社の食堂で食べることもあり、時間が無ければパイロットの場合は飛行中に操縦席で食べます。この場合3~4種類ある弁当の中から、機長と副操縦士が同じ種類の弁当を食べない規則になっていますが、食中毒によって二人のパイロットが同時に体の具合が悪くなり操縦不能になるのを防ぐためです。

飛行中は自動操縦装置を入れて飛行するので、操縦席で食べる時間がありますが、気の毒なのは「デス」の方です。その理由は会社は弁当を支給するものの、それを食べる時間が無いのです。食事時間帯でも飛行中は乗客への機内サービスをし、彼女たちが弁当を食べるのは到着後地上で次の便の出発までの僅かな時間です。乗客が全員降機すると機内掃除人が手早く客室の清掃をしますが、ホコリが舞い上がる中で乗客用の座席に座り急いで食事をすることになります。食事を味わうことなどできるはずが無く、文字通りお腹に「詰め込む」ことになります。「習い性となる」のことわざがありますが、私も現役の頃は家の食事でも食べるのがつい早くなり、女房から文句を言われたことがありました。

国際線の場合はエコノミー・クラス用の食事を会社は支給しますが、それはそれでファースト・クラスの食事が必ず余るように搭載するので、気の利いたチーフパーサーがいると、操縦室に持ってきてくれます。洋食と和食があるので、パイロットが同じ食事を摂らないのも国内線と同じです。

「デス」は厨房に折りたたみ椅子を用意して、ヒマな時間にたべますが、聞くところによれば黒いダイヤと言われる高価な キャビア をお茶漬けにして、しかもプラスチック製の容器ではなく、陶器のお飯椀で食べるのだそうですが、勿論ファースト・クラス用の食事です。

Kyabia トリュフ、フォアグラと並び「世界の三大珍味」といわれるキャビアを何度も食べた感じでは、特別美味しいものとは思いませんでした。どおせ到着地で廃棄処分にされるよりも、「デス」の胃袋に入った方が「キャビア」や「フォアグラ」を作った人も、料理人も喜ぶというものです。


写真の黄色の円内がキャビアですが、上等のワインをたしなみながら、オードブル、スープ、サラダ、メインディシュ、チーズ、デザート、果物、食後のブランデーと続く、ファーストクラスのフル・コースの食事の気分を味わってください。写真はクリックで拡大。

最近 もったいない というキャッチ・フレーズで滋賀県知事に当選した女性が出ましたが、機内でファースト・クラスやビジネス・クラスで口を切り余った高価なワインや、例の高級なドン・ペリニオンなどのシャンパン、数万円のブランデーなどはどうすると思いますか?。到着前に全てトイレに流すのです。

左利きが聞いたらもったいなくて涙がこぼれそうですが、アルコール類は無税で購入したために、口を切った瓶の返却は税関手続き上しないのです。最近の機体は異なりますが、以前の機体ではトイレの下部に便槽があり、高価なブランデーなどを流すと、馥郁(ふくいく)たる香りがトイレ内部に漂ったものでした。機内のトイレについては別の機会で述べることにします。

2006年7月19日 (水)

デスのお肌

女性のお肌に造詣が深い鶴丸航空の荒俣(あらまた)落太氏によれば、スチュワー「デス」のお肌は職場環境のせいで一般に荒れ易いのだそうです。その理由は機内の空気の乾燥に原因があります。高度一万メートル以上を飛ぶと夏でも外気温がマイナス三十度以下にもなり、冬にシベリア上空を飛ぶとマイナス六十五度以下まで下がりジェット燃料の凍結が心配になります。

客室内部を快適な温度に保つためにはジェットエンジンで空気を断熱圧縮した際に生じる高温の空気を熱源に使用しますが、当然のことながら乾燥しています。それと冷気との混合で室温を摂氏二十度前後に温度調節するために、湿度が低くなります。機内の乾燥空気は「デス」のみずみずしいお肌から水分を奪うので、美容の大敵であるシワができ易くなります。

オゾンの問題もあります。オゾンとは酸素原子が三個結合してできた分子ですが、ジェット機が飛ぶ高空では人体に有害なオゾンが成層圏中には多く存在するので、それを呼吸したり地上よりも強い紫外線を浴びることは、健康や美容に影響があるだけではなく、皮膚ガンなどの危険も増加します。

睡眠不足もお肌の大敵だそうで、ニューヨークの J.F. ケネディー空港発成田行きや、ワシントン D. C. のダレス空港発成田行きともなると、冬場はジェット気流の強い向かい風を受けて飛ぶために 、14時間以上も掛かります。飛行中の「デス」は三交代で 3時間~4時間 の休養をとりますが、彼女達が機内のどこで寝るのかご存じですか?。機種により異なりますが、客室の最後部には クルー用の寝室があり、そこには二段ベッドが4組程度あります。別の機種では二階席の最後部の屋根裏部屋に同様なベッドが用意してあります。ちなみにパイロットの寝室は、操縦室の直ぐ後方の区画にあります。

男性客室乗務員がいる場合、彼らは女性と同じ花園(寝室)で寝るのかどうか聞き漏らしました。

Ohada 疲れていても慣れない環境ではなかなか寝付けないものですが、いずれにしても彼女達が化粧をしたまま寝るのか、あるいは化粧を落としてから寝るのかの判断が分かれるところです。

二十五才のお肌の曲がり角を迎えた「デス」、あるいは何度も迎えた子持ち孫持ち(?)の「デス」は、お肌を休ませる為に念入りに化粧を落としてから眠り、ピチピチお肌の新人「デス」はそのまま眠るといわれていますが、詳しいことは個人情報で秘密だそうです。写真はクリックで拡大。

お肌の大敵の睡眠不足には時差の問題もあります。成田を午前11時に出発し、12時間15分飛んでロンドンのヒースロー空港に現地時間(夏時間)で15時15分に到着したとします。「デス」の体内時計(日本時間)では夜の23時15分のため当然眠くなりますが、ここでぐっすり眠ると後でひどいことになるので、少しだけ寝るかまたは現地の時間に体内時計を無理に合わせるなど、時差の適応方法は人によってさまざまです。

初めてロンドンに来た人は観光で時間を潰し、二回目はショッピング、三回目以降はゴルフや水泳、散歩などの運動で時差を慣らします。しかしはっきり言えることは、日本に向けて出発する三日目の晩までに現地時間に体を慣らし、休養を十分に取っておく必要があります。なぜなら帰りは追い風で11時間と飛行時間は短くなるものの、徹夜のフライトになるのでお肌に良くないからです。 お肌こそ「デス」の命であり、「荒れたお肌」は美容の大敵ですが、旅先での便秘 についても忘れずにね!。

2006年7月16日 (日)

いろいろな乗客

乗客の中にはいろいろな国の人がいますが、食事で要注意なのはユダヤ教徒とイスラム教徒、それにインド人の菜食主義者です。ユダヤ教徒の場合は旧約聖書(ラビ記第7章26節、および第11章1節)に述べられている「食べてよい食物、いけない食物」がありますが、例えば食べてはいけないものは、豚、貝類、甲殻類(エビ・カニ)、鱗が無い魚(うなぎ)などです。

しかも食べても良い牛肉や鳥肉などでも、ユダヤ教の儀式にかなった方法で屠殺されたものでなければならないのだそうで、律法に適合した食物であることを示すコーシャ Kosher (清浄食品)の証明書を付けます。

インドの菜食主義にも厳格な派( Vegitarian Strict )とそうでない派があり、厳格な菜食主義者は卵も食べず、鰹節のダシの味付けもダメなのだそうです。勿論特別な機内食を必要とする乗客は座席予約の段階で申し出があるので、それに適した食事が機内食製造会社により用意されます。

Hishaku 豚肉を食べないイスラム教徒については世界的に知られていますが、荒俣氏によれば彼らは機内サービスの面でも要注意なのだそうです。その理由は尾籠な話で恐縮ですが、機内でのトイレの使用法にあります。イスラム教国の空港に初めて行った時のこと、トイレは便座に座る方式ではなく、しゃがむ方式でした。しかも水を入れたバケツがトイレに置いてあり、中にはヒシャク(手桶)がありました。(写真はクリックで拡大)

つまり行事が済んだ後は右手でバケツからヒシャク(手桶)で水を汲み、紙を使わずに「不浄の左手」で局所に水を掛けながら洗い落とし、後でその指をヒシャク(手桶)の水で洗うのです。機内のトイレでこの方法を実行したら、どうなると思いますか?。便座には靴の跡がクッキリと残り、トイレの床は水だらけになります。ウワサによれば彼らは水洗用(?)の空き缶を携帯して搭乗し、機内のトイレではそれに水を汲んで使うのだそうです。

ところで乗客の中でとかく評判が良くないのはインド人で、その理由はガメツイ人間が多く、機内で消費すべきものを、お土産(?)として機外へ持ち出そうとするからです。たとえば食事の際に提供される缶ビールやワインの小瓶を飲まずにお土産用にしまい込み、、別な「デス」に何度も缶ビールやワインの瓶を要求して「お土産」にするのです。それに気付いた「デス」は「お土産」防止の為に、缶ビールのフタを予め開けて渡したり、ワインの瓶のキャップを外したままでその乗客に渡すことにしています。

機内での退屈しのぎと称して「デス」にトランプ・カードを要求し、異なる「デス」から合計三組のトランプ・カードをお土産にせしめた者もいました。他国の人を悪く言いたくありませんが、「断られて、もともと」とか、恥知らずの「ズルサ」という点で、インド人にはガメツイ D N A を持つ人が多くいるようです。

2006年7月13日 (木)

ズルイ乗客

飛行機の乗客の中にもズルイ奴がいるのです。荒俣落太氏によればある時成田からニューヨーク行きの便で、離陸後にファースト・クラスの乗客の数が、乗客名簿の数と合わないとチーフパーサーから報告がありました。またやられた!、と荒俣氏は思いました。

ビジネス・クラスの搭乗券( Boarding Pass )や時にはエコノミーの搭乗券を持つ乗客が、出発間際に駆け込み搭乗をして、ファースト・クラスの空いている座席に座り、あたかもファースト・クラスの客の如くに成り済ますのだそうです。 機内名簿には座席番号と名前が書いてあるので、空席のはずの座席に座っている客がいれば一応分かりますが、出発間際の駆け込み搭乗者に関しては名簿の訂正が口頭連絡の場合や、連絡が来ないままでの出発もあり得るからです。

そこで荒俣氏はチーフ・パーサーにファースト・クラスの全乗客の搭乗券の確認を命じました。その結果ビジネス・クラスの搭乗券を持ちながら、ファースト・クラスの座席にいた50代の日本人乗客が発見され、座席から追い出されました。彼の態度から今回が初めてではなさそうなので、日本に帰国後にチーフ・パーサーはキャビンレポートを、機長は状況報告者を会社に提出した結果、彼の氏名、パスポート番号、犯行が、要注意人物として社内コンピュータのブラック・リストに載せられることになりました。今後は彼がどこの空港から搭乗しても、事前に「デス」に要注意人物の情報が流され、監視の目が注がれることになります。

Antore 自己の利益獲得のために不正な手段で相手をあざむく行為をチーティング( Cheating )といいますが、学生が試験の際にするカンニングも正しい英語ではチーティングです。

「デス」の隙を見てエコノミー・クラスからビジネス・クラスに座席を移動したり、食事の前になると上のクラスの座席に密かに移動して、美味しい食事にありつこうとする「ヤカラ」が、日本人にも外人にもいるものです。しかも食事以外にも映画上映の際や夜間は安眠の為に機内の照明を暗くするので、上のクラスのより快適な座席へと潜り込み易くなります。写真は成田、サンフランシスコ線で出した、ファースト・クラスのアントレ( Entree、主要料理)、クリックで拡大。

一方「デス」の方でもスパーの万引き取り締まり係員の如くに眼を光らせていれば、不審な態度や落ち着きの無さから、なんとなくチーティングしそうな者が事前に分かるのだそうです。そういう場合はどうするのか、チーフ・パーサーに聞いてみました。 すると座席名簿から名前が分かるので、飲み物などを配る際に「田中様は今回どちらへご旅行ですか?。」などとさりげなく、相手の名前を知っていることを示して、犯行を抑止するのだそうです。

米国系の航空会社の中には乗客の不正行為には厳しい対応をする会社があり、前述のような行為をした乗客をファースト・クラスの食事、飲み物を盗もうとした窃盗未遂事件として、到着地の空港警察に事前通報し、警察に逮捕される場合があるのだそうです。その理由は一部の旅行者の間で、どの航空会社がごまかし易いとか、どこが厳しいなどの情報がインターネット上に出回っていて、趣味と実益を兼ねてマネをする者が出るのを防ぐ為だそうです。

2006年7月10日 (月)

スチュワーデス予備校

Desug 航空会社のスチュワーデスになりたいという若い女性をターゲッとにして、 日本の主要都市には、いわゆる「スチュワーデス学校/学院」なるものが数多くあります。その経営者や講師には元「デス」の起業家がなる場合が多く、教える内容としては「デス」の心構え、航空知識、歩き方、作法、化粧の仕方、話し方、などなどです。

鶴丸航空の元機長の荒俣(あらまた)落太氏によれば、航空会社の「デス」採用担当者はこれまで何千人もの応募者の面接をしているので人物の鑑定眼に優れ、顔を見ただけで九割方、合格、不合格が分かるのだそうです。採用担当者によれば、「デス」の予備校に行っても行かなくても、あまり関係がないとのことでした。他人の商売をことさら批評するつもりはありませんが、授業料もなかなか高く、一コース当たり安くて三十万円から高いところでは六十万円もするのです。

それだけでなく航空会社が行う面接試験の数ヶ月前になると、「特訓コース」と称して三十万円近くの料金を払えば、面接に必要な知識、テクニックを授けると共に、面接の練習を何度もするのだそうです。

また最近では応募書類に添付する写真を専門に撮るビジネスもあるそうで、如何に清楚に美しく撮る(写真の修正をする?)かによって、値段も2万円から10万円までランクがあるのだそうです。更に「デス」の受験に備えて、より美しく(?)理知的に(?)見せるため、親からもらった顔を「デス」用に美容整形で改造する女性もいると聞いております。道理で美容整形医師が娘を誘拐され、三億円を要求されるほど儲かるワケです。

これまで公表されたことはありませんでしたが、平成11年に男女雇用機会均等法が施行する以前は、社員の採用には指定校制度というのがあり、東大を頂点とする国公立大、早慶以下の私立大の中から一定レベル以上の大学を指定校にして、それ以外の大学の出身者からは願書を受け付けないとする大企業もありました。その一方で航空会社の応募には、「コネ」があって当たり前と昔から言われてきました。

かつて鶴丸航空には俗に P T Aといわれた国会議員が四十人もいましたが、彼らの子弟子女を社員として多数採用した結果でした。P T A は鶴丸航空の為に、陰になり日なたになり何かと便宜を図ってきましたが、航空会社が儲ける為に必要なことは、利益が上がる「美味しい路線」を獲得することです。 その基本政策を決めるのが国交省(旧運輸省)のお膳立てで、国会で開かれる運輸政策審議会であり、そこに審議委員として出席するのが国会議員の「センセィ」でした。

その「センセィ」に何かと便宜を図っておけば、見返りがあることは当然でした。「デス」の採用についても同じことがいえます。前述の鶴丸航空の荒俣氏によれば「センセィ」達だけでなく、マスコミ関係者、大手旅行会社、メインバンク、空港周辺の自治体などのトップから、娘や親類の娘を「デス」に採用するように、航空会社にお願い(要求)が来るのだそうです。

荒俣氏によれば男性社員とは異なり、頭が悪くて顔も悪い娘(こ)を「デス」に採用しても、会社の将来を担うわけでは決してないので、会社にとってどの程度の利益があるのかで、「コネ」の採用を決めるのだそうです。そういえば機内で時には、「デス」の採用担当者の審美眼を疑うような「デス」を眼にすることがありますが、余程強力な「コネ」の持ち主に違いありません。 しかもそういう「デス」に限って当然のことながら、なかなか結婚せず、従って退職もしないのだそうです。

参考までに2006年度大学就職人気企業ランキングでは、文系女子の場合、1位は J T B 、2位 A N A 、3位資生堂、4位 J A L、5位サントリーの順でした。

2006年7月 6日 (木)

男性客室乗務員

航空会社は水商売と以前述べましたが、景気の良し悪しにより「デス」の採用数も大きく影響を受けます。縄文航空でも不況の最中の平成14年、平成15年の二年間は、「デス」の採用を中止しました。しかし翌年の平成16年になると、250名の「デス」を採用しましたが、17年には新卒250名に加えて既卒枠で330名の大量募集をしました。

更に平成18年入社分には、450名の「デス」を大量採用をしましたが、その理由は景気回復が進む中で航空業界にも追い風が吹き始め、平成21年(2009年)には現在工事中の羽田空港に4本目の滑走路ができるために、大幅な増便が期待できるからです。

退職してから金野氏は年に五~六回は所用で大阪と東京を飛行機で往復していますが、ある時縄文航空に乗ったところ、男性の客室乗務員がいるのに気が付きました。平成11年(1999年)から男女雇用機会均等法が施行されたために、スチュワーデスやスチュワードの呼称が廃止されて、客室乗務員( C A 、キャビン・アテンダント)になり、女性だけを採用することができなくなり、少数ですが背が高くて「イケメン」の男性の客室乗務員も採用したからでした。

しかしいわゆるスチュワードを昭和28年から採用してきた、鶴丸航空の社内事情をよく知る荒俣(あらまた)落太氏によれば、男性客室乗務員は気の毒なことに「男子一生の仕事」ではなく、将来性の面でお先真っ暗なのだそうです。

Rufuto 「デス」と同様に一年毎の契約社員として安い給料(約20万円)で働き、三年後には正社員になり、アシスタント・パーサー、パーサー、チーフ・パーサと職場での階級を登って行ったとしても、結局のところ酷な表現をすれば機内で四十面(づら)を下げてファースト・クラスのお客に、ワインを注ぐ仕事しか無いわけです。(クリックで写真が拡大)

機内サービス担当者としての年齢を過ぎた四十代後半から、五十代の男性客室乗務員を、仮に国際旅客部に配置させようとしても、接客能力以外に営業関係の管理職に求められる知識、経験が無いため役に立たず、使い道が無いために結局は子会社に出向させられて退職まで不遇を嘆く状態です。縄文航空としても三十才以前の若い内に、彼らの職種を客室乗務員から営業職、事務職に変更して鍛え直した方が、本人の将来の為にも会社の為にも良いのではないかと思います。

ついでに言いますと外国に行った場合に、訪れたレストランが一流かどうかを簡単に見分ける方法がありますが、ご存じですか?。それはウエイトレスがいるかどうかです。もしウエイターではなく店にウエイトレスがいれば、そのレストランは格が低く決して一流ではない証拠です。かつて日本では洋服の仕立屋や、着物の仕立屋は女性ではなく、男性のする仕事でした。長年の技術の習得と、経験が必要だったからでした。

外国ではウエイターもそのような職業と考えられていて、ご存じのように彼らには店の固定給が無く、顧客が支払う食事代の最低でも15%のチップ、都会の一流店では20%~25%のチップを唯一の収入源としています。聞くところによれば米国の一流レストランともなると、ウエイターは月に1万5千ドル(165万円)~2万ドル(220万円)の収入があるといわれ、店によってはウエイターが店の良い位置にある座席を店のオーナーから賃借していて、自分の顧客に提供するシステムもあるそうです。更に一流レストランのウエイターのポストが、彼にとっては退職金代わりの高い値段で取引されるのだそうです。

国賓を迎えて皇居で行われる晩餐会のテレビ放映を次回からよく観察して、そこでサービスに当たるのはウエイターだけであり、ウエイトレスがいないことを確かめてみて下さい。

2006年7月 4日 (火)

「デス」の花道

かつて縄文航空の「デス」の制服は、その当時に良く用いられた濃紺のサージの生地で、タイト・スカートに上着もウエストをぴったり絞った形でした。それに靴もハイヒールを履きましたが、機内の入り口で乗客の搭乗をお出迎えした後は、動き易さと揺れに対応しやすいように、すぐに「ロウ・ヒール」の機内靴に履き替えて仕事をしていました。つまり「デス」が持つ鞄の中には、常に機内用の靴が入っていました。しかしデスの服装が変化するにつれて、靴も「かかと」が細いハイヒールは次第にすたれ、「かかと」の太い歩き易い靴に変わりました。

最近の「デス」といえばキャリー・バッグを引いて歩くのが定番のスタイルですが、せいぜい20年くらい前からで、それ以前の「デス」は鞄を手に持って空港内の長い距離を移動しました。さらにターミナルの搭乗ゲートと飛行機を結ぶボーディング・ブリッジ( Boarding bridge )が設備される以前は、雨天の際には地上のゲートから乗客は傘を差して機体のまで歩き、タラップを登ったものでした。

「デス」の制帽が無くなったのは十年以上前からでしたが、縄文航空では「デス」からの要望により帽子を廃止したことで会社は経費節減で喜び、「デス」は機内で帽子の着脱時に髪の乱れを気にせずに済むのでハッピーでした。しかし下の写真を見ると世界の航空界には、帽子を被る「デス」は未だ三分の一程度はいます。

Sutaa 今回成田空港の第一ターミナル改修工事終了に伴い、スター・アライアンス(航空連合の一種)に加盟した十八の航空会社(ユナイテッド、エアーカナダ、ルフト、S A S、シンガポール、全日空など)のチェックイン・カウンターを、第一ターミナルに統合して乗客の利便性を高めましたが、その記念式典に参加のため、成田に集まった加盟各社の「デス」達です。(写真はクリックで拡大)

なんといっても「デス」の花道は国内線、国際線共に空港ロビー内を移動する途中です。出発を待つ若い女性客の羨望の眼差しと、若い男性の好奇心に満ちた視線を一身に受けながら、あまり高くない鼻を高く見せようと少し上を向き、豊かとはいえない胸を張って颯爽と搭乗ゲートに/から移動する道中です。この花道を歩く時が「デス」にとって至福の時であり、多くの人に「見られる快感」があるからこそ、「デス」を辞められないのだ、ともいわれています。

ところで若い頃から女性にもてた経験が一度も無い金野氏によれば、人から見られる「快感」など、七十三才の老爺になるまで無縁だったそうです。それどころか退職間近になると、老眼鏡を掛け白髪もかなり多そうだが、この爺さんに操縦を任せて、悪天候時の着陸は大丈夫なのかいな?。とか、国際線の場合には長い道中で爺さんパイロットが、脳卒中や心臓麻痺でも起こして「コロッット」 逝きはしないか?。などと疑問や不安の入り混じった目で見る乗客も、いたやに聞いておりますが---。

医者と僧侶は年を取りたるが良し
という昔の人の言葉がありましたが、仕事に対する経験の重要性を述べたものでした。当てにならない空港の六時間先、十二時間先、二十四時間先の天気予報や、一日二回の高層天気図に描かれたジェット気流の位置、晴天乱気流の危険空域などを、参考にはするが決して信用せず、絶えず変化する自然を相手に大空を安全に飛ぶ為には、機長の長年の経験に基づく判断が、大きくものを言うことは間違いありません。

2006年7月 1日 (土)

デスの社会的地位

ある日老妻が新聞のテレビ欄を見ながら、「またアテンション・プリーズのテレビ番組をやっているわよ」と知らせました。かつて日本の女子バレーボール・チームがオリンピックで金メダルを取った頃は、いわゆる苦しい訓練やシゴキに耐えるバレーボールの「女子選手」物やスチュワー「デス」物の番組がありましたが、テレビ界には「柳の下にドジョウが、四匹も五匹もいる」ようです。

縄文航空の金野内蔵氏や鶴丸航空の荒俣落太氏と三人で雑談の際に、意見が必ず一致することがあります。それはこう言っては失礼ですが、スチュワー「デス」の仕事の80パーセントは、機内での「メシ運び」や「飲み物運び」に過ぎないのに、なぜ日本では彼女達のプライドが高く、ちやほやする男がいるのか、についてです。

ちなみに欧米先進国では「デス」の社会的地位は低く、高等教育を受けた女性のする仕事では無いとみなされています。つまり外国では例外を除き、「デス」は高卒女性の職業なのです。私の知る限り例外は K L M オランダ航空で、応募には短大卒(大学二年終了以上)の学歴が必要でした。

Seifuku 敗戦後の日本は貧しくて輸出産業も振るわずに外貨保有高が少なく、その為に昭和39年(1964年)までは、庶民は自由に海外旅行に行けませんでした。女性にとって海外に行く唯一の方法は「デス」になることで、応募には短大卒ではなく四大卒業の資格が必要でした。写真はクリックで拡大。

今でも後進国に行けば行くほど、「デス」の社会的地位が高くなるという現象に気付きます。

つまりオランダという国も、アムステルダムにあるスキポール空港がいくら立派でも、先進国ではないのです。

日本もその後は先進国の仲間入りを果たし、航空自由化に伴い航空界も発展し「デス」の需要が増大したために、昭和40年代には応募資格を四大卒から短大卒へ、そして前述した募集要項から「容姿端麗、英語堪能」が無くなり、一時期には高卒も応募可能と学歴をダウン・グレード( Down grade )させました。

ところで外国語について一言述べますと、日本人は英語が話せる、あるいはブランス語が読めるのを「教養」と捉え勝ちですが、外国ではそうではなく職業技術、ないしは生活技術とみなしています。返還後もホンコン政庁に事務職員として勤めるには英語の読み書きが必要ですし、ホテルのボーイになるには中文学校(中国語で授業する学校)卒では就職できません。

スイスのチューリッヒ空港で日本語を上手に話すスイス人がいたので、どこで習ったのか尋ねたところ、日本人が教える日本語学校に通ったのだそうです。日本語の会話能力を身に付けたことにより、良い条件で就職できたとのことでした。(続く)

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2006年6月28日 (水)

航空会社は水商売

航空会社は俗にいう水商売と同じです。世間が好景気の時は黙っていても客が乗り、営業マンの中には「客の予約を断るのが仕事だ」などと豪語する者まで現れます。大会社の社長クラスともなると、国際線のファースト・クラスの席で見知らぬ人間が隣席に座るのを嫌がり、一人で二名分の座席を確保する者までいました。

Fstbed しかし一旦不況の波が押し寄せると、値段の高いファースト・クラスの客やビジネス客が減り、満席になっても儲けが少ないエコノミー・クラスまで空席が目立つようになります。写真はマユの形をした最新のファーストクラスのベッド/座席ですが、一人ずつ完全に独立していて、夜は完全水平のベッドになります。(写真はいずれも、クリックで拡大)

Fstseat 「水商売」とする理由には、航空券という商品の定価が、実際には無いのと同じということです。試しに東京からニューヨーク( JFK )までの航空運賃をインターネットで検索してご覧なさい。往復運賃がファースト・クラスで136万円、ビジネス・クラスで69万円程度ですが、問題はエコノミー料金です。

通常は28万前後ですが、最高は44万円から安い航空券では往復で、9万円~5万5千円というのまであります。航空会社により、また航空券の種類、条件、搭乗曜日、季節により値段が異なるのは水商売だからです。たとえば冷蔵庫を購入する場合に曜日によって値段が異なるとしたら、皆さんは変に思うでしょうが、「水商売」の世界では当然のことです。

不況になれば水商売は大変です。かつて1990年代に始まったバブル崩壊後の不況の中では、日本の航空会社はこぞってスチュワー「デス」の契約社員制度なるものを導入しましたが、正社員ではない、契約社員と呼ばれる一年契約のパート・タイマーの「デス」のことです。

同じ飛行機に乗務する「デス」でも、それまで採用された者は恵まれた待遇の正社員でしたが、新規採用の契約社員「デス」は一時間千数百円の乗務手当が主な収入源で、ボーナスも無く、しかも一年ごとの契約更新という条件でした。会社によれば三回契約更新すれば、正社員に登用する道が開けるそうですが、必ずしも全員が無条件で正社員の「デス」になれるわけではないようです。

会社の狙いは人件費の節約ですが、適齢期の「デス」を月収20万円程度の安いパート従業員の給料で三年間使い、その後はなるべく結婚退職でもしてもらいたいのが本音です。ところで最近は「デス」の経験者を再雇用することがおこなわれています。退職し子育ても一段落した三十才~四十才前後の元「デス」を、パート・タイマーとして雇用し、月に七日~十日間、乗務するのだそうです。乗る飛行機が昔と違っていても、「デス」の仕事は基本的に「水商売」なので、昔「水商売」をした経験があれば、すぐに慣れるのだそうです。「水商売」には経験が重要です。(続く)

2006年6月24日 (土)

おつぼね制度

前回は大奥の「おしとね辞退」に関係する件について述べましたが、金野(かねの)内蔵氏から「おつぼね(お局)制度」の話を聞くことができました。お局(つぼね)とは

1:宮中で局(つぼね、個室)を賜った女官のこと
2:江戸時代に大奥で、個室を持っていた奥女中のこと
3:女中を取り締まる立場にあった老女のこと

ですが、縄文航空では20年以上前からお局(つぼね)制度があったそうな。金野内蔵氏が働き始めた昭和40年頃は、早く退職する「デス」が多くて会社が困ったものでした。折角三ヶ月間「デス」としての訓練をして現場に出ると、直ぐに制服、制帽姿で見合い写真を撮るのだそうです。それをしかるべき筋に回すと、アホな男が「デス」の肩書きにほれてすぐに結婚を申し込みました。その結果早い「デス」では現場配属の三ヶ月後に退職し、遅くても三年以内には、殆どの「デス」が結婚退職したものでした。

ある時一人の「デス」が興奮した様子で、飲み物サービスのため操縦室に入ってきました。「キャプテン(機長のこと)、あたしお客様からプロポーズされちゃったのです。これを見てください。」彼女が差し出したのは手帳をちぎって書いた紙切れに、「私と結婚してください」という文字が、電話番号と共に確かに書いてありました。

「デス」の興奮状態とは反対に、操縦室内の機長、副操縦士、航空機関士の三名の反応は冷たいものでした。「貴女をからかうための、いたずらだよ。そんな例はこれまでいくらでもあったよ」。「デス」は興奮が冷めて、静かに出て行きました。

ところで 時代が変わり今では結婚しても、しなくても退職しない「デス」が大幅に増えた結果、「デス」の平均年齢も高くなりました。乗客サービスの面からも二十代のピチピチした「デス」からサービスされるのと、プロポーションが崩れ、制服のスカートのサイズを三段階も四段階も上げた五十代の「グランマ、Grand mother デス 」からサービスされるのとでは、乗客にとっては大違いです。

そこで「デス」の退職促進対策として、高齢デスだけを組織から外し、部下を持たないグループにまとめました。端的に言えば「デス」の窓際族化であり、お局グループと呼ばれました。退職後のある日東京-大阪線に乗ったところ、不運にもお局グループの御一行からサービスを受けることになりましたが、隣席の乗客が「今日のスチュワーデスは、皆年を取っているのばかりだねー」。と仲間に話すのが聞こえました。

Singa1 その点世界の航空会社のうち、サービスの良さでは常に五本の指に入るシンガポール航空は、今も「デス」の定年を三十五才にしているとのことでした。(続く)

2006年6月22日 (木)

容姿端麗がいなくなった理由

Kitano その昔スチュワーデスの採用広告には、容姿端麗、英語堪能というのが必ずありましたが、飛行機に乗ること自体が庶民にとっては高根の花だった時代に、それに乗る職業は若い女性にとっては今以上に憧れの的でした。昭和30年(1955年)に縄文航空が初めてスチュワーデスを六名採用した際には、千人もの応募者があったといわれていますが、あまりの混雑ぶりに警察官が出て整理したとのことでした。(写真はクリックで拡大します)

その際に採用されたスチュワーデスの1期生の一人が後に管理職になり、乗務から離れて六十才の定年まで勤めていましたが、年を取っても美人の面影が残っていました。「津田塾」か「青学」の出身だったと思います。

しかし今ではどこの航空会社の募集規定を見ても容姿端麗や英語堪能の条件がありませんが、つまり美人で無くても、英語が話せなくても良くなったと理解すべきなのでしょうか?。ところでスチュワーデスのことを業界用語では「デス」といいますが、今では会社によってキャビン・アテンダント( C A )とか、フライト・アテンダント( F A )などと称していて、鶴丸航空では昭和40年代に英国系統の航空会社の「マネ」をして、一時期にエアー・ホステスと称したことがありました。

しかしご存じのように日本ではホステスといえば「女主人」どころか、キャバレーのホステスに代表される「いかがわしい」水商売の女性を直ぐに連想させるため、同社のスチュワーデス諸嬢から猛烈な反対、抗議が起こり、会社側もその「語感の悪さ」にようやく気付いた結果、数ヶ月後には元の名称であったスチュワーデスに戻すことになりました。いとハズカシと思いけれ。

ところで金野内蔵氏によれば、昭和40年当時「デス」の定年は三十才でした。なぜ三十才にしたかといえば、その昔大奥で将軍の側室や大名の夜伽(よとぎ)を勤めた女性が三十才になると、「おしとね辞退」と称してお役御免になりましたが、それから由来するのだそうです。しかし最近の女性は晩婚なので(?)、呼ばれない内に「辞退させられ」てしまいそうです。なお若い人では「しとね」の意味を知らない人がいるようですが、「しとね」とは寝たり座ったりする時に使用する綿入れの敷物のことから、「ふとん」の意味です。

その後「デス」の定年は四十才、五十才と次第に延長されて行き、今では雇用機会均等法により六十才になりましたが、同業他社で機長経験があった荒俣(あらまた)落太氏によれば、最近の「デス」は結婚しても退職する者が少なく子供がいるのは当たり前で、中には孫までいる文字通りの「お婆ちゃんデス」までいるそうです。

米国ではアルツハイマー病を患い、最近死んだレーガンが七十三才で大統領になってから、加齢を理由に解雇するのはけしからんということで、「デス」の定年を七十五才にしたといわれています。以前縄文航空に働いていたアメリカ人航空機関士によれば、米国のある航空会社では自分の母親よりも高齢の「デス」がいて、グランマ( Grand mother、お婆ちゃん )と皆から呼ばれ、老眼鏡はもちろんのこと、中には補聴器を使用していた「デス」もいたそうです。(続く)

2006年6月19日 (月)

飛行機内の行列

これから話にでてくる「縄文航空」とは昔々存在した航空会社のことであり、金野(かねの)内蔵氏はその会社で以前機長をしていた人だそうです。今回その金野氏から昔話を聞くことができましたが、内容について真偽の程は不明です。

[飛行機内の行列]

Nh777200

縄文航空の金野内蔵氏はある時チャーター便の運航で、瑞穂の国のある地方空港からホンコンの啓徳(カイタック、KaiTak )空港(1998年まで使用していた旧空港)まで飛んだのだそうです。冬場はジェット気流の強い向かい風に逆らって飛ぶので約4時間半かかる為、パイロットもスチュワーデスも途中で一回は、トイレに行く必要がありました。写真は北から着陸する場合には、低高度で旋回しながらビルの谷間を縫って進入着陸するため、乗客の間で「ホンコン・カーブ」として有名でした。(クリックで拡大します。)

その便に農協さんの団体御一行様が搭乗しましたが、機内では無料で酒が飲めるというので、この時とばかりにビール、日本酒、ブドウ酒は勿論のこと、話のタネに「ナポレオン」とか言うウイスキー(?、実際はブランデーの銘柄)を飲んでみるべー、などとアルコール類をガブ飲みした人々が多かったと聞きました。

何しろ生まれて初めて飛行機さ乗ったんだんべ、俺ら上空では酒が体に回り易いのを知らなかったんだよ-。だからホンコンに着いた時には、腰が立たなくなるほど酔った仲間が四~五人もいたのは仕方がなかんべー。ことわざにも「旅の恥はなんとか」と言うでねーか、しかもホンコンは同文同種の国だべさ-、俺たちはちっとも気にしてないよ-。帰りも村の連中と一緒に、機内で宴会してタダ酒をちから一杯飲むことにすっから。

ちなみに機内で乗客が飲むアルコール類は無税で仕入れた物なので、会社にとって原価は知れたものなのだそうな。

乗組員がトイレに行くタイミングとしては食事前のお酒などの飲み物のサービスが済み、乗客が食事をしている最中に行くのがベストなので、金野内蔵氏はいつもそのようにしていたとのことでした。その型の飛行機では機内に六箇所しかトイレがなかったので、タイミングを失うとアルコールをたらふく飲み、膀胱を膨らませたお客様の行列がトイレの前にできてしまうので、機長といえども行列に割り込んで用を足すのは気が引けるからでした。

ある時飛行中に操縦室内にコトコト、コトコトと断続的な音が聞こえてきたのだそうな。普段聞き慣れない音や振動は、故障の前兆かも知れないので、金野氏、副操縦士、航空機関士と三名で緊張しながら音源を探しましたが、それはどうやら客室の方から聞こえて来ました。航空機関士が音源を確かめる為に客室に行くと、トイレの順番待ちをしていた一人の女性が尿意をこらえるために足踏みをしていましたが、その際に床に敷いたカーペットを固定する金具にハイヒールの「カカト」が当たる音だったのでした。

水をいっぱい入れたドンブリを持つ場合には、水をこぼさない為に静かに持ち、「ゆすらない」のが普通ですが、女性の場合は何故か足踏みをして「ゆする」傾向があるのだそうです。
同業他社のあるスチュワーデスが公務傷病(?)の認定を求めて提訴しましたが、彼女が膀胱炎になったのは、勤務中に乗客のトイレ使用を優先させる為に、行きたい時にトイレに行けないのが原因だと主張しました。その結果がどうなったのかは知りません。

別な折りに航空機関士が飛行中にトイレの行列に恐れをなして、行く機会を失ったまま、飛行機が台北(タイペイ)F I R ( Flight Information Region、飛行情報区域)とホンコンF I Rの境界にあるエラト( ELATO)地点を過ぎてしまい、ホンコンに向けて降下を開始したのだそうです。あと30分ほどで着陸する予定でしたが、彼は足踏みすることも無くじっと心静かに尿意をこらえていました。

Asbag2 やがてその限界に達したのか、「失礼します」と言うが早いか操縦室の椅子から立ち上がり、空酔い袋( Air Sickness bag 、吐袋、とぶくろとも言う)を座席の背のポケットから取り出して、溜まっていた液体をその中に無事に放出したとのことでした。 ヨカッタ!写真はクリックで拡大。(続く)